その野で出会った二人は必ず恋に落ち、その恋は必ず悲恋に終わる――。 不吉な伝説を恐れて、誰も足を踏み入れることのないアポロンの野。 誰かと出会いさえしなければ何の害もない(はずの)、自然が作った美しい花園。 だが、そこで瞬は、“誰か”に出会ってしまったのだった。 瞬が出会った相手は、瞬と共にアポロンの野の伝説の由来を聞いていたはずの人。 そこが不吉な伝説を持つ場所だということを知っているはずの人。 瞬が、その人のために どうしても今日 薔薇の花を手に入れなければならないと思っていた人。 すなわち、今日が誕生日である母親を持つ、某白鳥座の聖闘士 その人だった。 「氷河……」 そこで人に出会うことがあるとは、氷河も思っていなかったのだろう。 月桂樹の木の根方に横になっていたらしい氷河は その場に上体を起こし、不吉な伝説を有する野の花の中に瞬の姿を見い出すと、驚いたように その青い瞳を見開いた。 「誰も来ないと思っていたのに。なぜ こんな縁起の悪いところに――」 「ば……薔薇の花が欲しくて……」 「薔薇の花が欲しいにしても――。ある意味、ここは戦場よりも危険な場所だぞ」 「……」 瞬がしていることは、文字通り“死んだ子の歳を数える”行為である。 氷河が それを快く思わない可能性は、決して小さいものではない。 彼に つらいことを思い出させたくもない。 瞬はただ、その行為を彼女の死んだ日にしたくないから、今日 この日に勝手にしているだけのことだった。 氷河が彼の仲間たちに出会う以前に、彼の命を守ってくれた強く美しい人に感謝の気持ちを込めて。 氷河に本当のことは言えない。 瞬は、本当のことを氷河に言わなかった。 「この季節には、やっぱり薔薇を見ていたいから……」 「そうか」 「氷河も?」 「……」 氷河は答えなかった――氷河も答えなかった。 おそらく氷河が 今日この日に、“ある意味、戦場よりも危険な場所”にやってきたのは、自分と同じことをするためなのに違いない――と、瞬は思ったのである。 「ここが あんな名の野原だとは知らなかったんだが、そういうところでなら、静かに――」 静かに亡き母の誕生日を薔薇の中で過ごせると考えて、氷河はここに来たのだ。 「誰も来ないなら、静かに昼寝ができると思ってな。北国育ちの俺には、陽光は貴重な資源だ。見る者もいない花だけに利用させておくのも癪な話だからな」 「うん……」 氷河も、瞬には本当のことを言ってくれなかった。 しかし、それはもちろん、仲間に対する彼の思い遣りから出た水臭さなのだ。 冷たい北の海の底に眠る母親を、夏の薔薇たちの中で偲ぶ――。 そんな氷河の胸中を察するほどに切なくて、瞬は氷河を無言で見詰めたのである 氷河も、瞬を見詰めていた。 絡み合った視線を、なぜか解くことができず――瞬は、胸中で戸惑うことになった。 氷河に長く見詰められていると、自分が 今日この日に薔薇の花を求める理由を、彼に見透かされてしまうのではないか――もし彼がアンドロメダ座の聖闘士の考えに気付いてしまったら、出しゃばったことをする奴だと思われてしまうのではないか――と、それを懸念して。 心臓の鼓動が少しずつ速まってくる。 すべてを見透かされてしまう前に、どうにかして氷河の視線から逃げなければならない。 瞬が本気で焦り始めた時。 ふいに、氷河の唇が ごく短い言葉を紡ぎ出した。 「ありがとう」 「え……」 「マーマも喜ぶ。ずっと、この日は おまえにとって何の日なんだろうと不思議に思っていた。俺のためだったんだな」 「氷河……」 この日に薔薇の花を飾る瞬の気持ちを、氷河は知ってくれていたらしい。 その上で氷河は、アンドロメダ座の聖闘士を出しゃばりだとは思わずにいてくれたらしい。 「ううん……」 安堵と喜びで、瞬の身体はやっと自由を取り戻すことができたのである。 小さく首を横に振り、瞬は瞼を伏せた。 それきり瞬が何も言おうとしなかったのは、もう二人の間に余計な言葉はいらないと思ったからだった。 氷河も、同じように そのまま黙ってしまった。 長い沈黙――。 その長い沈黙が、なぜか息苦しく感じられるようになり、その息苦しさに耐えきれなくなって、やがて瞬は俯かせていた顔を上げたのである。 瞬が瞼と顔を伏せていた間、氷河はずっと瞬を見詰め続けていたらしい。 彼は、不思議に熱っぽい目で、仲間を見詰めていた。 「瞬……」 かすれた声で、氷河が瞬の名を呼ぶ。 「なに」 答える自分の声も、なぜかひどく乾いていることに、氷河に短い答えを返してから、瞬は気付いた。 「この場所には、本当にアポロンの呪いがかけられているのかもしれない」 「え?」 氷河の右の手が、瞬の左の二の腕にのびてくる。 「おまえが、いつもよりずっと綺麗に見えるんだ」 「氷河、急に、な……なに言い出したの」 氷河の瞳の色が、いつもと違う――ような気がした。 いつもは、内実はどうあれ、見た目は氷の風情をたたえている氷河の瞳が、今は 青い炎さながらに燃えている――ように見える。 そして、瞬がそう感じた時には既に、瞬の腕は氷河の手に きつく掴みあげられていた。 「氷河……?」 「駄目だ。自分を止められない」 「と……止められないって……」 いったい、誰が、何を止められないというのか。 氷河に問う暇は、瞬には与えられなかった。 その時間が与えられていたとしても、瞬には 氷河に その言葉の意味を問うことはできなかっただろう。 「んっ……」 その時にはもう、瞬の唇は 氷河の唇に動きを封じられていた。 その野で出会った二人は必ず恋に落ちる――。 恋というものは、こんなにも突然にやってくるものなのか。 アポロンの野が生む恋とは、いったいどういうものなのか。 たとえば それは、互いの心と心が触れ合い、互いの思いと思いが重なり合うようなものではないのか――。 “自分を止められない”氷河が 仲間の唇をふさいだまま、瞬に体重をかけ、その身体を花の中に押し倒そうとすることに、瞬は激しい混乱を覚えた。 アポロンの野で出会った二人が囚われる恋が こういう恋だというのなら、それは 瞬が漠然と脳裏に思い描いていた恋とは 様相を全く異にする行為――まさに“行為”だった。 「氷河……っ! 氷河、やだ、やめてっ!」 「瞬、好きだ」 「氷河、正気に戻って!」 「俺は正気だ」 「全然 正気じゃないよっ!」 今の氷河が正気であるはずがない。 正気の氷河が仲間にこんなことをするはずがない。 氷河の身体を押し戻そうとして、瞬は懸命に彼の胸の下で もがいたのである。 「瞬、俺は――」 「氷河っ! お願いだから、僕に氷河を傷付けるようなことさせないで! 放してっ!」 そんなことはしたくないのに、自然に小宇宙が燃えあがり、力を増してくる。 アポロンの呪いよりも 仲間同士の絆の方が強かったのか、瞬の小宇宙に触れると、氷河は はっと我にかえったように その動きを止めた。 何かの力に必死に逆らおうとしているのが 傍目にも見てとれるほど 苦しそうに、氷河が 瞬に のしかからせていた身体を起こす。 「す……すまん。俺は、いったい何をしようと――」 「氷河、ここ、出よう。ここは危険だ。早く!」 氷河が正気にかえってくれた今この時を逃すと、彼はまたアポロンの呪いという瘴気に取りつかれてしまうかもしれない。 瞬は素早く身体を起こし、まだ どこか朦朧とした目をしている氷河の手を取り、彼を急かした。 「あ……ああ」 氷河の意思はともかく、彼の心と身体は ここに残っていたいらしい。 どう見ても氷河は――氷河の身体は、『ここを出よう』という瞬の言葉に抗したがっていた。 そんな氷河を ほとんど引きずるようにして、瞬は なんとか その呪われた場所から逃げ出すことができたのである。 |