「近付くなって言ったのに、なんで行くんだよ!」
星矢の怒りは至極尤も。
命からがら(?)アポロンの野から聖域に逃げ帰ってきた瞬は、星矢の怒声に返す言葉もなかった。
瞬より顕著に 伝説の力に屈服させられてしまっていた氷河の方が、逆に堂々と弁明を始める。
「そんな縁起の悪い伝説があるところなら 誰も来ないだろうから、静かに心行くまで昼寝していられるだろうと思ったんだ」
「昼寝だあっ !? そんなの、聖域ででもできることだろ! おまえは なんだって わざわざ地雷が埋まってるようなとこに出掛けてって、我が身を危険にさらすような真似をするんだよ!」
危険にさらされたのが氷河の身だけだったなら、星矢も ここまで腹を立てたりはしないのである。
氷河が危険にさらしたのが、氷河自身の身と 瞬の貞操だったから――そう聞かされたから――星矢は さきほどから仲間の軽挙に呆れ いきり立っていたのだ。

「昼寝目的で出掛けていった先で、瞬への恋に落ちただけならまだしも、浅ましい欲望に抵抗しきれず、瞬を押し倒してしまったというわけか。仮にもアテナの聖闘士たる者が、手もなく邪神の力に屈し、言いなりになるとは、おまえはドルバルとの戦いの時から全く成長していないな」
北欧の神オーディーンの地上代行者ドルバル教主に洗脳されたミッドガルド氷河の最大の被害者である紫龍が、ここを先途とばかりに 嫌味全開で氷河をなじる。
が、それで良心の呵責を感じるような氷河ではない。
紫龍の嫌味に気付かぬ振りをして――あるいは彼は本当に気付いていなかったのかもしれないが――氷河は 悪びれた様子もなく、しみじみと仲間の前で頷いてみせた。

「アポロンの力は絶大だったぞ。まあ、元から瞬は可愛かったが、あの野原では、その瞬が 花にも天使にも見えて、その上、やたらと熱っぽい目で俺を見詰めてくるんだ。頭がくらくらした」
「ったく」
仲間への強姦未遂に対する罪の意識など毫も感じていないような氷河の口ぶりに、星矢は盛大に舌打ちをすることになった。
「おまえには そう見えたってだけの話だろ。まじで正気の沙汰じゃねー。正気の人間なら、瞬を押し倒そうなんて、そんな恐ろしいこと、死んでも考えねーぞ。正しい判断力を持つ人間はな、瞬に無理矢理 んなことして ネビュラストームかまされたら 絶命の可能性もあるってことに考えを及ばせて、自分の命を守るために自制自重するんだよ!」
「確かに、あの野原での俺は正気ではなかったかもしれん……」

今になって 呑気に そんなことを言ってのける大馬鹿者をどうしたものか。
やはり ここは一発 鉄拳制裁を下しておくべきなのか――というようなことを、星矢が考え始めた時だった。
一発殴るくらいのことでは収まりそうにない問題発言を、氷河が仲間たちの前に披露してくれたのは。
突然 妙に神妙な顔になり、氷河は言ってくれたのである。
「俺のこの恋は、悲恋になるのか」
――と。

「なに?」
それは星矢と紫龍には言語道断、常軌を逸した発言だった。
仮にもアテナの聖闘士が、アテナと敵対する神の名を冠する野で、アテナと敵対する神の力に屈し 仲間への暴力に及ぼうとしたあげく、いまだに その力の影響下から脱することができずにいると、氷河は言っているのだ。
アポロンの力で仲間への恋に落ちた男の邪恋が、アテナの聖なる力に包まれている聖域に戻っても なお、継続していると。
「氷河! おまえ、もしかしなくても、全然 正気に戻ってねーぞ!」
そう告げる星矢の声が 不安の響きを帯びたものになったのは当然のことだったろう。

アテナの聖闘士が恋をすることが悪いというのではない。
その恋の相手が瞬だということも、百歩譲れば許容できないこともない。
この場合、問題なのは、氷河の恋が正しく邪恋――アポロンの力によって生じ、瞬の意思を無視した肉欲に直結した邪恋――であるということだった。
アテナの結界に守られた聖域にあってなお、瞬を押し倒したいという氷河の欲望は健在である――ということが、大問題だったのである。
そんな氷河を、瞬はどう思っているのか。
星矢は 恐る恐る、アポロンの野に出掛けていった もう一人の仲間の上に 視線を巡らせた。
氷河の呆れた振舞いに立腹することに夢中になって、星矢(と紫龍)は まだ確かめていなかったのである。
アポロンの力が瞬にも及んでしまっているのかどうかということを。

幸い、瞬は これまでの瞬と何も変わったところはなく、星矢(と紫龍)の杞憂は杞憂のままで終わったが。
瞬は、いつも通りの やわらかい微笑を、その顔に浮かべていた。
「正気じゃないなんて 言いすぎだよ、星矢。氷河はロマンチストで感受性が豊かで、ちょっと信じやすいだけ。あの花園の雰囲気に呑まれて、暗示にかかってしまっただけでしょう。僕は男なんだし、そんな伝説のある場所で出会ったからって、氷河が急に本当に僕に恋したりするわけがない」
「おまえは そう言うが、アポロンは男も女も見境なしに恋して失恋した男だぞ」
「でも、現に僕は氷河に恋をしてないよ」
「そーなのか?」
「だって、そんなこと ありえないでしょう」
「ありえないって言われれば、それはそうなんだけどさ……」

瞬は正気のようだった。
真夏の真昼の お天道様のように、呆れるほど真っすぐで常識的。
瞬は、氷河とは違って、綺麗さっぱり アポロンの力を撥ねのけてしまっているらしい。
星矢は(一応)ほっと安堵の胸を撫で下ろしたのである。
何か すっきりしない何かが胸中に わだかまっていたのだが、それでも とりあえず。
「ま……まあ、なんだ。これが普通の反応だよなー」
「う……うむ。いずれにしても、アポロンの野で出会った二人の恋は 悲恋に終わることになっているんだから、氷河の邪恋は最終的には消滅するわけで、さほど案ずることもないのでは――」
「悲恋に終わらせてたまるかっ!」
瞬が正気すぎる分、氷河は正気を失いすぎているようだった――全く正気に戻れずにいるようだった。
だが、恋というものは、一人だけが盛り上がっても どうにもならないイベントなのである。

「氷河。おまえも瞬を見習って 少し冷静になったらどうだ。瞬はおまえに恋をしていないんだ。恋が始まっていないのに、悲恋も何もあったものではないだろう」
「恋が始まっていない……だと?」
「そうだよ。悲恋だの何だのって余計な心配をする必要はないよ、だから、氷河、落ち着いて。気を大きく持ってね」
「心配をする必要がない……?」
現実を見据えた紫龍の言葉と、恋に落ちていないがゆえに冷静を極めた瞬の言葉に、氷河が愕然とした顔になる。
起こり得ない悲恋など案ずるに値しないという二人の言葉は、だが、氷河の心を静めることには何の役にも立たなかったようだった。

仲間たちに――特に瞬に――何か言いたいことがあるらしい氷河が 酸素不足の金魚のように口を ぱくぱくさせる。
だが、瞬は、存在しない心配事は心配のしようもないと信じ切った顔で、別の心配事に気をとられていた。
「そんなことより――急がないと今日が終わっちゃう。こうなったら、今年は処女宮の花で間に合わせるしかないね。あそこには、薔薇の花はないけど、確か 真っ白なダイヤモンド・リリーがあったはずだから――僕、取りに行ってもいい? 恋がどうだの 悲恋が何だのって、天が落ちてくるんじゃないかって心配した昔の人みたいで、それこそ 話し合ってても時間の無駄でしょう?」

「しゅ……瞬!」
『情けない』としか言いようのない声と目で、氷河が瞬に追いすがろうとする。
だが、その時には既に、瞬は 確実に音速以上の素早さで処女宮の苑を目指し 駆け出したあとだった。






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