「おい、氷河、生きてるかー……」
平素は日本在住のアテナの聖闘士たちのために用意されているアテナ神殿の一室。
瞬の姿が一つ消えただけで、妙に寒々しく感じられるようになってしまったアテナの聖闘士専用の談話室。
四方の壁も天井も床も大理石でできている その部屋に、星矢の声が(文字通り)木霊する。
星矢にしては遠慮がちな声と、その声が作りだした ささやかな木霊は、すぐに、
「何がオリュンポス12神の1柱だ! 何が理想の青年像だ! アポロンなぞ、ただの能無し、ただの万年失恋男だーっ !! 」
という、氷河の大音声によって かき消されてしまったのだった。

「な……なんだよ、氷河。急に 大声あげて」
悲恋の前の恋。恋の前の片思い――。
アポロンの野で恋に落ちたのは白鳥座の聖闘士 一人きりだったという過酷な事実に打ちのめされ、悶死寸前かと思われた氷河が 突然生気を取り戻し、惰眠から目覚めた休火山のように噴煙を撒き散らし始めたのに ぎょっとして、星矢は我知らず腰が引けてしまったのである。
自分の脈絡のない言動を 仲間にどう思われようが そんなことはどうでもいいと思っているらしい氷河が、一人で勝手に噴火活動を続ける。

「アポロンというのは、ここまで能無しなのかっ! 俺は何のために 昼飯も食わずに、あんなところで瞬を待ち伏せしていたんだ!」
「なに……?」
「待ち伏せた甲斐あって、やっと瞬が来てくれて、いい感じで見詰め合うところまでは うまくいっていたのに、花の中の瞬は 一段と綺麗で 俺はますます瞬が好きになったのに、肝心の瞬が俺に惚れてないなんて、アポロンの野郎、片手落ちもいいところだっ!」
「瞬を待ち伏せしていただぁ〜っ !? 」
氷河の噴火の目的は、あくまでアポロンの無能をなじることであって、自分の罪を告解することではなかっただろう。
だが、氷河のアポロンへの誹謗は、そのまま彼の悪事の自供になっていた。
そして、その自供を聞くことによって、星矢と紫龍は 色々なことが得心できてしまったのである。

「そーゆーことだったのかー。なんか変だとは思ってたんだよな。おまえ、ガキの頃から瞬にいかれてたのに、今更 恋に落ちたも何もないだろうって」
それが星矢の胸中に巣食う わだかまりの正体だったのだ。
なぜ 今更 氷河が瞬への恋のせいで錯乱する必要があるのか――ということが。
アポロンの野で出会う以前から、ある意味 氷河は恒常的に正気ではなかったというのに。
要するに氷河は、瞬を恋に落とすために(?)、卑劣な策略を巡らせていたのだ。

「おまえ、わかってんのかよ。アポロンが無能でなかったとしたら、おまえのその馬鹿げた狂恋は悲劇に終わってたんだぞ。おまえが勝手に一人で失恋するのは構わねーけど、それで巻き添えくって悲恋の当事者にされる瞬がかわいそうだろ!」
「瞬が俺を好きになってくれさえすれば、俺が意地でもそんなことにはさせんっ。アポロンの失恋癖なぞ、俺のこの燃える思いが吹き飛ばしてくれる!」
「おまえが一人で燃える分には、俺も何にも言わねーけどさ。幸か不幸か、アポロンの呪いは瞬には無効だったみたいだし」
それが氷河の唯一にして すべての誤算だったのだろう。
瞬が、アポロンの野で出会った男への恋に落ちてくれなかったことが。
氷河は、仲間たちの前で ぎりぎりと音を立てて歯噛みをした。

「くっそー、アポロンの能無しめー!」
アポロンの無能ばかりを責めて、氷河は自分の卑劣を反省する気配も見せない。
星矢には、こんな男の恋の首尾を案じてやること自体が、無意味で不毛で無駄なことに思えてきてしまったのである。
「駄目だ、この馬鹿」
「まあ、瞬の常識が堅固なものだったことが 幸いしたな。瞬に その気がないのなら、氷河が何を画策しても、すべてが徒労に終わるだけのことだ」

「うー……」
星矢と紫龍の所見が 的を射たものだと思わざるを得ないことが、氷河の苛立ちを増幅させる。
氷河は、だが、どうしても合点がいかなかったのである。
アポロンの野で二人の間にあった感情は、絶対に友情とは違う何かだった。
そして、突然のことで驚いていたのだとしても――瞬は白鳥座の聖闘士に唇を奪われても 大人しくしていた。
驚いてはいたようだったが、嫌悪の念は見せなかった。
あそこで、もし瞬が僅かでも忌避の表情を浮かべていたら、ほんの1ミリでも眉をひそめるようなことがあったなら、氷河は その先に進むつもりはなかったのである。
瞬がただ 驚いているだけのように見えたから、氷河は次のステップに進むことを決断し、決断したことを実行に移したのだ。

それ以前に――瞬は、『俺はおまえに恋をしている』と告げた人間に、『僕は恋をしていない』と事もなげに言ってしまえる人間ではない。
本当に恋をしていないのだとしても、自分に恋をしてくれている人間に 自分が恋をしていないことを申し訳なく思うくらいのことはするはず。
少なくとも、氷河が知っている瞬は そういう人間だった。
自分を恋する男に『僕は恋をしていない』と きっぱり言ってしまえる瞬は変なのだ――少なくとも平生の瞬ではない。
せこい陰謀やアポロンの無能を埒外に置いて考えても――氷河はどうしても瞬の態度が腑に落ちなかった。


だから――氷河は、瞬を諦めてしまうことができなかったのである。
『僕は氷河に恋をしていない』
はっきり瞬に そう言われても、氷河は瞬を見詰め続けた。
これまでのように“さりげなく”ではなく、瞬にも それとわかるように堂々と。
瞬を恋する男の視線に触れるたび、瞬は戸惑い、気まずげな様子を見せたが、氷河は もう遠慮はしなかった。
白鳥座の聖闘士がアンドロメダ座の聖闘士に恋をしていることは、既に瞬自身も知っていることなのだから、氷河は瞬に遠慮する必要を もはや感じることはなかったのである。






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