「えええええっ !? 」 驚く以前に、自分の目の前で――もとい、眼下で――何が起こっているのかが、瞬にはわからなかった。 月半ばでお小遣いを使い切ってしまった星矢に借金(?)を申し込まれる時にも、ここまで へりくだった態度は見せられたことがないというのに、これはいったいどうしたことか。 しかも、相手は世界的有名人、親のない一介の高校生より社会的地位は はるか上、平伏どころか 軽く会釈されるだけでも畏れ多く勿体ないと感じてもおかしくはない立場にある人物。 瞬は現況が理解できず、我知らず逃げ腰になってしまったのである。 実際に、瞬は逃げてしまっていたかもしれない。 瞬のすぐ後ろで、瞬以上に驚き混乱し石像と化したスズキ司祭が 出入り口をふさいでしまってさえいなかったなら。 『前門の虎、後門の狼』ならぬ『前門の大スター、後門の石像』。 逃げ道をふさがれた瞬の前で、世界的有名人は、いよいよ額を床にこすりつけんばかりに恭謙卑遜の態度を強くしていった。 「瞬様。お会いしとうございました。この時を どれほど待ちわびたことか……! まさか、日本に いらしたとは、私も迂闊でした。どの国より先に日本に来るべきだったのに、私は、自分のいる場所を中心に探索範囲を広げていき、無駄な時間を費やしてしまった……」 その肩に、声に、苦渋の色と響きを にじませて、氷河は自身の不明と後悔を訴えている――ように、瞬には見えた。 人も羨むような名声と地位を手にしている自立した大人が、全身を わななかせて、懊悩苦悶しているのである。 その姿に、瞬の胸は痛んだ。 痛みはしたのだが、瞬は彼のために何をしてやることもできなかった。 彼が これほどまでに 何に苦しんでいるのかが、瞬には全く わからなかったから。 「あの……氷河……さん?」 ためらいがちに、その名を呼んでみる。 その、いかにも恐る恐るといった声音で、氷河は瞬の困惑に思い至ってくれたようだった。 「……お忘れですか」 「な……何を」 「私を見ても、思い出していただけない……?」 床に こすりつけるようにしていた顔を上げてもらえたのは有難かったが、おかげで瞬は、氷河の端正な貌に落胆と失望の色が にじむ様を真正面から見ることになってしまったのである。 本来なら 晴れた空の色をしているのだろう青い瞳が、灰色の雲で暗く曇る様を。 「ぼ……僕、氷河さんに どこかで お会いしたことがありますか。いつ――」 「400年前に加賀の国で」 「……僕、まだ16歳です」 「私は、加賀大聖寺城城主、山口宗永殿の家中で、瞬様のお世話係としてお仕えさせていただいておりました」 「は……?」 大スターは年齢不詳――とは聞いていた。 その姿、貌を間近で見ると、成し遂げた偉業、手に入れた地位名声の高さに比して、もしかすると彼は恐ろしく若いのではないかという疑いを、瞬は胸中に抱き始めていた。 だが、実は彼は とんでもなく高齢だったのだろうか――? そんな あり得ないことを考え始めた瞬に、氷河は 到底信じ難い――荒唐無稽といっていい――彼の身の上を語ってくれたのである。 それは本当に信じ難い身の上話だった。 自分は、関ヶ原の戦の際、加賀金沢の前田利長軍に破れた 加賀大聖寺城城主・山口宗永の家臣だった――と、氷河は言った。 当主山口宗永の妾腹の息子である瞬と、その瞬に 世話役として仕えていた氷河。 瞬と自分は、その二人の生まれ変わりだというのが、氷河の主張だった。 そして、再び瞬に仕えたい――というのが彼の希望であるらしい。 氷河が語った、彼の前世の境遇。 そんな話を聞かされ唖然とし、『この人は本気で そんなことを言っているのだろうか』と疑い、だが、その疑いを言葉にすることができずにいた瞬の代わりに、 「正気か?」 と、氷河に尋ねてくれたのは星矢だった。 「話がでかいんだか、小さいんだか……。世界的有名人の大スターが、日本の戦国武将の家臣の生まれ変わり? 山口なんとかなんて、聞いたこともねーぜ。信長、秀吉、家康くらいの有名どころじゃねーと わかんねーよ、俺は」 呆れた顔で ずけずけと言いたいことを言ってのける星矢と、思い詰めた人間の目をして いまだ床に膝をついたままの氷河。 ともかく、瞬は氷河に跪座をやめてほしかった。 「あの……その お話が本当のことだったとしても、今は主君も家臣もない時代。あなたは世界的な有名人で、僕は ただの親のない高校生にすぎないんです。ですから、どうか、その……床に膝をつくのは――」 世界的有名人に 一介の高校生が手を差しのべることは失礼に当たるだろうか。 迷いつつ、氷河の前に差し出した手に、だが、氷河は頼ってはくれなかった。 「我が主は 瞬様だけです。瞬様にお会いするためだけに、私は生きてまいりました。一生をかけても 瞬様を捜し出すと心に決め、これまで努めてまいりました。お会いすることは叶わぬのではないかと、幾度諦めかけたか……。もし お会いできないなどということがあったなら、私は何のために今生に生を受けたのかと……」 顔を俯かせて泣いている――ように見えたのである、瞬には。 世界的大スターが、小さな高校生に出会ったくらいのことで。 「あ……そんな……」 こうなると一介の高校生には――否、人生経験も社会経験も豊かとはいえない立場の子供には――対処不能である。 瞬は視線でスズキ司祭に助力を求めることになった。 教義的に転生など信じるわけにはいかないスズキ司祭が、キリスト者としてではなく社会人としてて、氷河に起立を促す。 氷河は――氷河も、そんなスズキ司祭に社会人として応じてきた――床に膝をついたままで。 「アポイントメントも取らずに、突然押しかけてきて失礼いたしました。ご迷惑を おかけしたことは、心からお詫び申し上げます。何より、瞬様のお身柄を これまでお守りいただいたことには感謝してもしきれるものではありません。金銭で購うことができるものでないことは承知しておりますが、よろしければ ささやかながら私からの寄付を受け取っていただけませんか。失礼ながら、建物の老朽化が激しいようだ。100万ドルでも1000万ドルでも、とりあえず ご入り用なだけ」 「そんな多額のご寄付を……」 突然 降って湧いた寄付話に、スズキ司祭が少々興奮気味に瞳を輝かせる。 その喜び方が普通に嬉しそうなので、氷河の申し出の意味をスズキ司祭が正しく理解していないことが、星矢にはすぐにわかった。 なにしろ お小遣い(という名の おやつ代)が足りなくなるたび、有名プロサッカー選手の移籍料の額に思いを馳せて溜め息をついている星矢は、その手の話には 何かと敏感なのだ。 「先生、驚き方が足りねーぞ。ドルだぜ、ドル。1億でも10億でも寄付するって言ってんだよ、こちらの大スター様は」 「じゅ……10億…… !? 」 この養護施設には20名弱の子供たちがいる。 スタッフは、スズキ司祭の他に、調理師が1名、児童指導員が1名。 年間予算は、子供たちの食費生活費学費、施設の維持費に職員の人件費を入れても、年間2千万を超えない程度。 雨漏りを修繕する金も捻出することができずにいる おんぼろ養護施設に、50年分の運営費を寄付すると言ってのける、今日が初対面の外国人。 星矢たちよりも はるかに切実に その額の意味がわかるだけに、スズキ司祭の驚きは――衝撃は、些少なものでは済まなかった。 今 スズキ司祭の戴く天は驚き、スズキ司祭の立つ地は動いたに違いない。 スズキ司祭は、見事にその場に卒倒した。 「せ……先生っ!」 「司祭様!」 さすがに平伏し続けていられなくなった氷河が立ち上がり、床に倒れたスズキ司祭の身体を抱き起す。 瞬の先導でスズキ司祭を彼の部屋まで運んだ氷河は、自分の引き起こした騒ぎに恐縮してしまったらしく、今日はこれで辞去する旨、瞬に申し出てきた。 「今日は、瞬様の所在を確かめに参っただけでございます。お時間を割いていただき、かたじけなく存じます。何とか時間を作って、また参ります」 その夜、どこまでも へりくだった態度で、瞳に涙さえ浮かべ、幾度も瞬に頭を下げて、世界的大スターは例の地味な国産のファミリーカーを自分で運転し、おそらく彼が滞在している高級ホテルに帰っていったのだった。 |