「なあ、氷河。おまえ、瞬サマのただの家臣だったのか?」
子供たちを寝かしつけるために瞬が席を外した時を見計らって、星矢が氷河に そう尋ねたのは、現代においては氷河の厄介この上ない忠義心が 戦国時代には厄介なものではなかったのだろうかという、素朴な疑問を抱いたからだった。
「どういう意味だ」
瞬様の姿が見えなくなった途端、現代人に戻った忠犬が、とても機嫌がよいようには思えない声で、問い返してくる。
星矢は、どちらかといえば その方が話しやすかったので、氷河の あからさまな態度の変化を不快に思うことはなかったが。

「おまえや おまえの瞬サマが生きてた400年前って、下剋上の時代だろ。忠義なんかなくて、強い者が弱い者を倒して のし上がっていくのが当たりまえだった時代。そりゃ、いつの時代にも忠義者はいただろうけどさ、おまえは山口なんとかの家臣で、おまえが忠義を尽くすべき主君は瞬じゃなく、その父親だったんだろ? けど、おまえは、瞬の父親のことは何も話さずに瞬サマ、瞬サマでさ。なんか、むしろ本来の主君である山口なんとかを嫌ってたように見えるぞ」
「……」
星矢の推察は、あながち的外れなものでもなかったらしい。
星矢がそういう推察を為したことには 多少 驚いたようだったが、星矢の推察の内容自体は、氷河は否定しなかった。
「嫌っていたわけではない。ただ、山口宗永は、あまり瞬様の価値を認めていない男だったから、俺とは相容れないだけだ」
「瞬サマの価値……ね。おまえの世界って瞬サマ中心でさ、おまえの瞬への執念っていうか、執着っていうかは、忠義っていうより、むしろ 恋に似てるような気がすんだよなー」
「……」

それまで忠犬としてであれ、現代人としてであれ、対峙する相手との会話を拒否することのなかった氷河が、突然 沈黙の中に沈み込む。
氷河が何も答えないことが、星矢に嫌な予感を運んできた。
「まさか……」
そこいらへんのにーちゃんの一目惚れとは趣を異にするにしても、やはり氷河が瞬に抱いている感情は そういう種類のものだったのだろうか?
星矢の中に生まれた その疑念は、僅か5秒で確信に変わることになった。

「その時代に そういうのが流行りだったってことは知ってるけど――まさか、瞬も おまえのこと好きだったとか、そういう仲だったとか……?」
「違う。俺が一方的にお慕いしていただけで、瞬様は 何も ご存じない」
「んなこと言ったってさ……。瞬は、人の悪意には鈍感だけど、人の好意には敏感な奴だ。今のあんたをしか知らない俺でさえ、もしかしたらって疑うくらいなんだから、瞬は絶対 気付いてた。気付いたら、瞬は無下にはできない。何をしなくても、何も言わなくても――多分、瞬もおまえに好意を抱いてた……」
「……」

氷河が再び沈黙の中に逃げ込む。
現代の瞬をしか知らない星矢にも察し得たことに、当然 氷河は――400年前の氷河も――気付いていたのだろう。
では、400年前の戦国時代、互いに互いの思いに気付きながら、何も言わずに、二人は ただ側にいた――ということなのか。
――そういうことのようだった。
「納得。そういうことだったんだ。そりゃあ、生まれ変わっても会いたいよなー……」

とはいえ、これは どう考えても、納得できたから万事解決という状況ではない。
400年前同様、氷河は 瞬の側にいること以外、瞬に何を求めるつもりもないのだろう。
だが、だからこそ氷河は、『瞬様の側にいたい』という望みだけは、何があっても捨てることをしないに違いなかった。
その望みは叶うものだろうか?
戦国の世でなく現代なら、叶うものだろうか――?
星矢には、その答えがわからなかった。
そんな星矢の前で、氷河が 低い声で、いかにも重たげに口を開く。

「関ケ原の戦いで、大聖寺城軍は、2万の前田勢に僅か500の兵で立ち向かった。どれほど奮戦しても、敵うはずはなく、お館様は前田勢に降伏を申し入れた。だが、前田利長はその降伏の申し出を受け入れなかった。2万の兵と500の兵の戦いで、だが、被害は前田軍の方が はるかに甚大だったんだ。山口家を全滅させなければ面目が立たないと、利長は考えたんだろう。前田軍は城内に攻め込んできて――お館様は自害の覚悟をした。瞬様も。瞬様は、お供をしようとした俺に、城を落ちろとおっしゃられた。城を出て、自由になり、できれば武士であることをやめ、平穏な暮らしをするようにと――」
「それで、あんただけ落ち延びたのかよ?」
それが氷河の悔いなのかと、星矢は思ったのだが、そうではないようだった。
氷河が、首を横に振る。

「瞬様のお側を離れることなど、俺にできるわけがない。城を出た振りをして、俺は、瞬様の自刃の場を守り続けたんだ。だが、前田軍の兵が城の奥にまで迫ってきて――俺は瞬様のご遺骸を敵に渡すわけにはいかなかった。瞬様が自刃された部屋に入り――そこは おびただしい血の海だった。瞬様はまだ息があって、俺がそこにいることに気付くと、どうして落ちなかったのだと、俺を お責めになった。そして――おっしゃったんだ。次は平和な時代に生まれ変わって、二人で 平穏に生きていこう――と」
では、最期の最期に、氷河と共に生きることを夢見たのは瞬だということになる。
氷河は、瞬のその夢を――夢見た瞬自身は忘れてしまっているというのに――叶えようとしているだけなのだ。
苦しそうに唇を噛みしめる氷河の姿を見ていることは、さすがに星矢も つらかった。
氷河にとって、それは、今でも昔話などではないのだ。

「瞬様はお優しい方だった。花のような風情で、お強いのに、人を傷付けることができず――父君や家中の者たちに期待されていたとは言えない。だが、俺は、そんな瞬様が好きだったんだ。お優しさこそが、瞬様の強さだった……」
「そっか……」
死の間際に瞬が思い描いた夢。
二人で叶えようと語った夢。
瞬は既に その夢を忘れてしまっているのだから、おまえも諦めろとは、星矢はどうしても氷河に言うことができなかった。






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