一国の宰相が夜の夜中に こそこそと 人目を忍ぶように訪れた怪しい塔の最上階の部屋。
宰相が一度 地下に下りてから上に上がってきたのは、部屋の灯りに使う油の補充をするためだったらしい。
塔の地下は様々な生活物資の倉庫になっているようだった。
かなり旧式のランタンに宰相が油を補充して その明るさが増すと、天井の灯り取りや 北に向いた窓から入る月光だけでは明瞭に見てとれなかった部屋の様子が確かめられるようになった。

塔の外観から想像できるものよりは広い部屋。
ここが 怪しい塔の最上階に、まるで罪人か呪いをかけられた姫君を閉じ込めるためにあるような部屋だということを忘れれば、清潔で贅沢な居間 兼 寝室と言っていいだろう。
衣類はもちろん、寝具、座具、帳等の布類に限れば、それらは へたをするとマハラジャが用いていたものより上質のものかもしれなかった。
少なくとも、マハラジャの玉座の間にあったものより、格段に趣味はいい。
最上質の絹、インド綿、インドサテン――まあ、その部屋にある最も上質のものは、改めて言及するまでもなく、その部屋の住人だったが。
彼女は、初対面の異国人に、不安そうな、だが優しげな眼差しを向けてきた。
そして、彼女の瞳は奇跡のように澄んでいた。

「――俺が10歳の時に、王宮から迎えが来たと言ったろう。その時、弟の許にも迎えが来たんだ」
ランタンの油を補充する間 ずっと無言だった宰相が やっと口を開いた時、奴の言葉を聞いて俺が最も驚いた事柄は何だったのか。
宰相が、今日初めて知り合ったばかりの異邦人に 彼の事情を話す気になったことか、花のような美少女と信じ切っていた人が男子だったことか、俺の目の前にいる 似たところの全くない二人の人間が本当に血のつながった兄弟だったということか。
俺は、宰相の言葉に もちろん滅茶苦茶驚いたんだが、一つの驚きに焦点を絞り切れなかったせいか、宰相が言ったことへのリアクションを示し損なってしまった。
宰相には、そんな俺が落ち着いているように見えたんだろう。
彼は、淡々と、彼の弟の運命を語り続けた。

「聡明で美しく、心優しい人間に育つだろう。だが、その存在は、国を滅ぼす原因になりかねない。国に災厄をもたらす人間になりかねない。その子供は国内で最も危険な存在だ――。そう占いに出たと言われた」
「国を滅ぼす?」
それは いったいどういう占いだ?

国を滅ぼす運命を負った人間といえば、暗愚蒙昧な君主か 傾国の美女と相場が決まっている。
宰相の弟は前者ではないし、後者にも見えない。
美しいことは美しいが、その美しさは 野に咲く花のように清らかな美しさで、しかも、無欲善良を体現したように可憐。
一見した印象は、国を滅ぼすどころか、少し強い風を受けただけで折れてしまいそうな頼りない花、もし その身を手折ろうとする者が現われても従容として手折られてしまいそうな か弱い花だ。
殷の紂王を狂わせた悪女妲己、唐の玄宗皇帝の失脚を招いた肉感的美女 楊貴妃、無知と贅沢で夫ルイ16世を断頭台に送りフランスに混乱をもたらした王妃マリー・アントワネット、40年に渡って壮絶な戦いを続けたシギベルト1世妃ブルンヒルドとキルペリク1世妃フレデグンド――国を滅ぼした古今東西のどんな傾城ともイメージが重ならない清純派。
この子が国を滅ぼすことがあるのなら、日暮れ時にひそやかに鳴く小夜啼鳥ナイチンゲールにだって 国を滅ぼすことは可能だろう。

到底信じられない――。
その考えを、俺は顔に出したんだろう。
宰相は、やるせなさと憤りの感情を皮肉に昇華させたように口許を歪めた。
「俺が正式に宰相に就任して最初にしたことは、瞬の出生時の天体配置図を取り寄せることだった。見て、笑ったぞ。瞬の出生時天体配置図は、あと10分遅く生まれていたら、救国の士たる運命の担い手になると占われる配置を示していたんだ。瞬の出生の記録を届け出たのが誰なのかは知らないが、俺たちの亡くなった両親は異国から流れてきた貧しい異国人。どれほど精巧な時計を持っていたか――いや、そもそも時計など持っていなかったかもしれないんだ。その事実を知った時、俺は、俺たち兄弟が王宮に縛りつけられることになったのは、自国民を犠牲にしたくないと考えた占い師たちの陰謀なのではないかと疑った」

不幸なのか幸運なのか わからない兄弟の運命を、宰相が俺に語る気になったのは、俺が占いなど信じていない異国人だから――だったらしい。
星座占いを絶対のものとしているインドで、占いを悪しざまに非難したら、それこそ一国の宰相といえど ただでは済まないだろう。
国と国の民に混乱を招くことにもなりかねない。
占いなど無意味無価値と インドで主張することは、欧州で 紙幣や手形は ただの紙きれにすぎないと主張するようなものなんだ。
社会が根底から覆る――。

それはともかく。
運命のいたずらで高い塔に閉じ込められることになった悲劇の姫君の名は 瞬と言うらしい。
陽の光に当たる機会が少ないせいか、兄と違って白い肌。
瞬は、肌も髪も瞳も すべての色素が薄かった。
この贅沢な牢獄で、瞬は 兄以上に自由を欲しているだろうに、瞬は自分が自由でないことで 兄の自由をも奪ってしまっているんだ。
宰相が『逃げるわけにはいかない』と言っていたのは、つまり 彼が弟を人質にとられているからだったんだろう。

「本当に馬鹿げている。今年は豊作と出た占いが外れたら、それは瞬の存在が国に悪しき影響を与えたからだということになる。今年は凶作という占いが外れたら、それも瞬のせいだということになる。俺がもし何らかの失策をやらかしたら、それも瞬のせいにされるだろう。瞬がいなくなって困るのは、王宮付きの占い師たちだ。瞬は、奴等の占いが外れた時の保障。いてもらわなければ困る存在だ。占いを絶対のものにしておくために、占いが実は無意味なものだと知れて国が混乱しないために、瞬はいつまでも この塔に閉じ込められていなければならないんだ」

「確かに、どうしようもなく馬鹿げているな……」
俺は心から そう思った。
どう見ても、世俗の欲など知らぬげで善良無垢、清純で優しい性質の、おまけに若く可憐な美少女――もとい、美形。
占いなんかのために、これほどの美質を社会から隠しておくなんて、宝の持ち腐れもいいところだ。
瞬が普通の人間じゃないことは、俺にもわかる。
あっけにとられるほど美しく可憐、人のそれとは思えないほど澄んだ瞳。
何より、その小宇宙。
瞬が生み続けている小宇宙は強大で際限がなく、慈愛の神のそれと錯覚するほど優しく温かい。
小宇宙が感じられるから――俺には 瞬が善良なこともわかる――邪神の小宇宙に接し慣れている俺には わかる。
それを こんな塔に閉じ込めておくなんて、本当にもったいない話だ。
外れた占いの言い訳が必要なら、人間でなく牛でも豚でも連れてきて奉っておけばいいんだ。
それでヒンドゥーとイスラムの間で いさかいが起こったって、俺の知ったことじゃない。
俺が信じる神は、とりあえずギリシャの知恵と戦いの女神アテナということになっているしな。

そうだ。
俺はアテナの聖闘士。だから、アテナの命令に従う。
アテナは この国に稀有な小宇宙を持つ人間がいると言っていた。
その人間を聖域に連れてこいと、俺に命じた。
さすがはアテナ、実に粋な命令を出してくれたもんだ。
俺は瞬をアテナの許に連れていくぞ。
どんな障害があろうとも、何が何でも。
何より、それが瞬のためだ。

そのためにはまず、瞬をこの塔と王宮の外に連れ出さなければならない。
それは、そして、そう難しいことじゃないだろう。
なにしろ、この国の王に次ぐ権力者が瞬の兄で、しかも その兄自身が自由を欲しているんだから。
そう 俺は思った――楽観した――んだが。

「この国では、おまえがマハラジャに次ぐ権力者なんだろう。どうにかできないのか」
俺が問うと、瞬の兄は、苛立たしげに俺を睨みつけてきた。
まるで 俺の楽観を察し、その楽観に腹を立てたように。
「どうにかできるものなら、とうの昔にどうにかしている。だが……必要なんだ。国のために、犠牲になる者が」
「なぜ、それが瞬でなければならないんだ!」
宰相だって、同じことを思っているはずだ。
国のために必要な犠牲。
それがなぜ 自分の弟でなければならないのかと。
実際、宰相はそう思っているようだった。
もしかしたら、こいつは、同じことを弟に訴えたことがあるのかもしれない。
俺の宰相への難詰に対する答えは、宰相の可憐な弟から返ってきた。
「僕以外の誰ならいいというんです」
悲しげなのに、不思議に強く感じられる声で。

「瞬……」
俺に そう答えてきた瞬の目と表情、口調は、実に毅然としていた。
瞬には、自身を見舞った悲劇に酔っているようでもなかった。
自身を哀れんでいる様子もなかった。
もちろん、幸福に輝いている様子もなかったが。
「事故や自然災害、生活の不満――。誰かが、この国の災厄の責任を引き受けなければならないんです。この国の秩序を守るために」

「しかし……だとしたら、なおさら――君は、国に災厄をもたらすのではなく、国を救っているじゃないか」
「不吉な運命を背負って生まれてきた僕が、多くの人の役に立っているのなら、それはとても嬉しいことです」
「君が この国に災厄をもたらす存在だという占いが間違っていると、俺は言っているんだ!」
瞬は、その矛盾に気付いていないのか?
それほど占いが絶対のものだと信じているのか?
理不尽な目に合っているのは瞬の方だというのに、その理不尽に激昂しているのは俺の方だった。
自分に責任のないことで自由を奪われていることに 誰よりも憤るべきなのは瞬自身なのに、その瞬に、俺はなだめられ、慰められていた――。
「優しいんですね。僕だって……現状が最善だと思っているわけじゃありません。僕がいるせいで、兄は自由になれない――。でも、だからといって、僕が僕の運命から逃げれば――そんなことになったら、僕の代わりの犠牲者が選ばれて この塔に連れてこられることになります。同じことが繰り返されるだけ。僕と同じように自由を奪われる人間が生まれるだけ。だから僕は ここから逃げるわけにはいかないんです」
「……」

瞬は善良で可愛いだけでなく健気で、しかも厄介なほど犠牲的精神に富んでいる人間のようだった。
それ自体は悪いことではないし(むしろ美徳だし)、そういう考え方は、戦う力を持たない人々の代わりに邪悪と戦うアテナの聖闘士には 少なからず必要とされる精神だ。
だが、俺は、思わず嘆息してしまったんだ。
なぜか、同じように嘆息している瞬の兄と目が会う。
これでは、瞬をこの塔の外に連れ出すことさえ難しい。
瞬の兄が この王宮を出ることができずにいるのも、瞬のこの確固たる犠牲的精神を曲げることができないからなんだろう。
触れなば落ちん風情をしていながら、瞬は強固な意思を備えた人間のようだった。

「もし……おまえの代わりの犠牲者が出なければ、おまえは ここを出てもいいと思っているか」
俺は、一応、確認のために瞬に訊いてみたんだ。
瞬が、俺に、切なげな微笑を返してくる。
「そうすることができたら――兄さんが自由になれる。そうできたら嬉しい。でも――」
俺のアテナの命令遂行の最大の障害は、その一点ということらしい。
簡単なようで、だが、それは難問だ。
瞬に代わって国の災厄の責を負う者は、天体配置図を作ることのできない牛や豚では代用がきかないんだから――。






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