欧州では、直径30センチの精巧な天球儀が 普通に社会に出回っている。 同じものを わざわざ直径10メートルもの巨大球体を作って表わすなんて無駄の極みと、俺はサワイ・ジャイ・シン2世が作った観測機器を馬鹿にしていたところがあったんだが、それは大いなる誤りだった。 巨大な天文観測機器たちは 隠れんぼに最適。 しかも数が多いので、調査に時間がかかる。 サワイ・ジャイ・シン2世の天体観測機器が直径30センチの天球儀だったり、半径5センチの分度器だったなら、俺の王宮滞在は3日を過ぎたところで、いくら何でも時間がかかりすぎだと王宮の者たちに怪しまれていたことだろう。 サワイ・ジャイ・シン2世の観測機器が大仰で大袈裟極まりないものだったから、俺は半月以上 王宮に留まっていても、誰にも怪しまれずに済んだんだ。 もちろん、俺がサワイ・ジャイ・シン2世の観測機器の間で隠れんぼをしながら通っていたのは、19番目の塔の最上階――瞬の許だったが。 瞬の兄は政務が忙しく、夜間、それも数日に一度 瞬の許に通えればいい方で、俺が足繁く瞬の許に通うようになるまで、瞬はいつも一人で寂しい思いをしていたのだそうだった。 食事等の世話をする召使いも いることはいるんだが、瞬と直接 接することは固く禁じられているとかで、瞬は この塔に閉じ込められた日から8年以上、兄以外の人間と口をきいたこともなかったらしい。 これまでは、日々のほとんど、一日のほとんどを書物を読んで過ごしていたのだと、瞬は俺に言った。 俺の訪問がとても嬉しい――とも。 瞬と一緒にいられる時間を 天から与えられた僥倖とばかりに喜んでいたのは、俺の方だったんだがな。 瞬は姿が美しいばかりでなく、その心根も素直で優しく、書物相手に日々を過ごしていたというだけあって、少々の偏りはあったが教養も深かった。 急いで何かをする必要に迫られたことがないせいか、頭の回転が速いとは言えなかったが、物事を熟考し正しい判断を下す聡明さも備えている。 何より、強くて温かく人間的な その小宇宙。 瞬の側にいることは、素晴らしく快いことだった。 当然の成り行きだが、俺は急速に瞬に惹かれていき、瞬と離れていることが苦痛になり、やがて、俺の残りの人生を瞬なしで生きることになったなら、俺は世界一不幸な人間になるだろうと確信するに至った。 欧州の人間なら笑い飛ばすに違いない星座占いなんかのせいで、人間としての あらゆる権利を奪われている瞬。 アテナの命令だからじゃなく、瞬のために、そして もちろん俺自身のために、俺は瞬を19番目の塔から解放してやらなければならない。 その考えは、瞬と共に過ごす時間が積み重なるにつれ、俺の中で強く大きくなっていったんだ。 だが、俺のその考えを実行に移すための いちばんの障壁が、あろうことか、俺が自由を与えたい瞬その人の意思。 まったく、世の中というものは ままならないものだ。 瞬はインド人ではなかったが、インドで生まれ育ち、国政も人の生き方も占いで決めるインドのやり方を、理不尽で非科学的と認めつつも、必要なもの、なくしてはならないものという認識でいた。 地球という星があり、太陽という熱源があったから、人間は この世界に存在する。 星は人間の運命を司る大いなる力だと、瞬は信じていた。 「星占いで すべてを決めるなんて、ナンセンスだ。俺は、君を自由にするために ここに来たんだ。だから――」 「僕は、国に災厄をもたらす不吉な運命を負って生まれてきたの。僕は この塔を出るわけにはいかない。それが、星が定めた僕の運命です」 「そんな運命などあるか。人は自由で平等――少なくとも、おまえをここに閉じ込めておく権利を持つ人間は、この世界に一人もいない。マハラジャも、この国の占い師たちも、イギリスも、そんな権利は持っていない。おまえには自由に生きる権利がある。自由なんだ、人は」 無論、俺だって、人が この世界の森羅万象 あらゆることから自由だと思っているわけじゃない。 いくら俺でも、人に絶対の自由が許されていると考えているわけじゃない。 何よりもまず、人の命には終わりがあって、人は 死という運命からは絶対に逃れられないようにできている。 どこで生まれたか、誰を親として生まれたということも、人の運命を ある程度は左右する。 だが、一度 生を受けたら、死のその時まで――人間には自分自身や周囲の環境を変えることのできる力を有している――その可能性を与えられているんだ。 まして、俺はアテナの聖闘士。 アテナの聖闘士は諦めない。 いや、アテナの聖闘士でなくても、一人の男、一人の人間としても、こんなに可愛い瞬を諦められるわけがない。 もちろん、俺は諦めるつもりはなかった。 だが、星座占いを絶対と信じる瞬の心は、強固を極めていた――。 「氷河は そう言うけど、実際に星は人間の運命を支配しているでしょう。僕たちが生まれ生きている この世界だって、地球という星の上にある」 「星に定められた運命などない。もしあっても、変えられる。人間の意思で、力で」 「でも、人間の力で星を変えるのは無理でしょう?」 「星を変えることは無理でも、星を見る人間は変えることができる。物理的法則に従って星の運行ルールから逸れることができず、自身に定められた運命の通りに動くしかない星なんかと違って、人間には意思というものがある。人間は、自分の運命を意思の力で変えることができる。人間は、星より強く、星なんかと違って自由なんだ」 「人間が星より強い?」 「当たりまえだろう」 俺は、一瞬のためらいもなく断言した。 瞬が、俺の断言――というより、ためらいのなさに びっくりしたように瞳を見開く。 星が人の運命を決めるインドでは 俺の考えは完全に異端で、俺のためらいのなさは、瞬には驚くべきことだったんだろう。 瞬は、占いに支配されていない国が この地上に数多くあることは知っていただろうが、それは 自分たちの生きる世界が一つの星の上にあることを忘れた人間たちの思い上がりだと思っているようなところがあった。 「運命に囚われずに自由に……そうできたらいいですね……」 瞬が夢見るような眼差しで、小さく呟く。 瞬の瞳に涙がにじむのは、瞬が それを叶わぬ夢だと思っているからだ。多分。 決して、そんなことはないのに。 「できたらいいんじゃない。そうするんだ。俺は必ずそうする。おまえを自由にする」 「氷河……。それは、叶わなくても嬉しい、とても美しい夢です」 「叶ったら、もっと美しいぞ」 恐いもの知らずの子供のように、絶望を知らず希望しか見えていない子供のように 断言した俺に、瞬が切なげな微笑を向けてくる。 瞬は、その夢が叶うとは信じていない。 それならそれでもいい。 俺は、その美しい夢を実現させ、その美しさを瞬に見せてやるだけだ。 そうして、二人で、自由に、幸せになる。 何がどうなったって、俺は その夢を実現するんだ。 が、その前に、確かめておかなければならないことが一つ。 心臓をどきどきさせながら、俺は瞬に訊いてみたんだ。 「そ……それで もし、俺がおまえを自由にしてやることができたら、おまえは俺を好きになってくれるか?」 と。 「え?」 そういうことは、さりげなく訊かなければ不粋なことになる――とは思っていたんだが、瞬の前で 俺の頬は かなり派手に上気していた。 鏡なんか覗かなくても、それが俺にはわかった。 まるで自分の感情を隠せない子供のように。 それがよかったのか、悪かったのか――。 瞬は――瞬も――ほのかに頬を染めて、 「僕、もう、氷河を好きです」 と俺に答えてくれたんだ。 ああ、もう、ここが狭い塔の中にある部屋なんかじゃなく、シベリアの大草原だったら どんなによかったか! この歓喜に導かれるまま、俺は 死ぬほど浮かれて踊りまくって、21発の祝砲代わりにオーロラサンダーアタックを100発くらい打ちまくっていただろうに。 運命なんて、変えるためにあるようなものだ。 そうに決まっている。 決まっていなくても、決まったことにする。 もう、決まった。 「この塔を出る覚悟と準備だけはしておいてくれ。俺は 必ずおまえを自由にする。おまえに代わる犠牲者も出さない。おまえの兄も、奴が望む道を行けるようにする。誰も苦しませず、悲しませない。大船に乗ったつもりで待っていてくれ」 俺は張り切っていた。 この恋を実らせるためになら、何だってするつもりだった。 まあ、その“何だって”を何にするか、その具体的な計画や当ては、まだ一つもなかったんだがな。 |