「せっかく ここまで 順調にきたのに、こんなところで氷河脱落かよ!」 星矢の悲鳴じみた雄叫びが聞こえていなかったはずはないのだが、紫龍は その大声を無視した。 今 考えなければならないのは、氷河脱落という最悪の事態の対処法ではなく、最悪の事態を回避するにはどうすればいいのかということなのだ。 「氷河のインターハイ出場競技は確か――」 「前半の陸上、100と200。後半は競泳のフリー、100と200だよ。競泳では、氷河が去年出した高校新を塗り替える予定だったんだけど……。氷河に怪我をさせられたと言ってきてるのは、冥界高校の生徒なんだ」 「冥界高校? それって、去年、競泳の優勝候補の最右翼って言われてたのに、地区大会で見事に氷河にしてやられたガッコじゃん」 星矢は、歴史の年号暗記は苦手でも、自分の目耳で見聞きしたことは忘れない。 星矢の記憶は確かだった。 「氷河は、1年の時は競泳には出なかったからな。陸上短距離と――競泳ではなくフェンシングだった。完全にノーマークだった氷河に負けて、その氷河は全国大会に進み、高校新で優勝。憎まれても仕方がないか」 「そんなの、逆恨みだよ! こんな卑劣なこと、スポーツマンシップにもとる!」 「敵がスポーツマンとは限らないぞ」 「ん……」 紫龍の言う通りだった。 たとえば これが冥界高校の水泳部員のしたことならば、対処は さほど難しいことではない。 瞬が懸念しているのは、冥界高校の生徒の逆恨みが校外の人間に利用されている可能性を排除できないことだった。 「高体連への投書には、病院の診断書の他に、頭や手足を包帯で ぐるぐる巻きにして、松葉杖をついて、介助者に支えられてる怪我人の写真が同封されてたんだって」 「念の入ったことだ。冥界高校の生徒が氷河に こてんぱんに叩きのめされている動画データが添えられていたら、完璧だったのに」 紫龍の皮肉は笑えない。 実際、瞬は笑わなかった。 氷河を暴力事件の主人公にしようとしている者が何者なのかは わからないが、その人物のやり方は、完璧ではないにしても、ほぼ完璧なのだ。 医師の診断書を用意し、それを、実際の怪我の具合いを確認できない程度の日にちが過ぎてから、学校や氷河個人ではなく高体連の事務局に送りつける。 しかも、インターハイ予選が そろそろ始まろうという時、高体連が 事件の調査に十分な時間をとっていられないタイミングで。 これは、真面目に日々の練習に励んでいる高校生に思いつく やり方だろうか。 瞬は、その点に引っかかっていたのである。 杞憂であればいいのだが、最悪といっていいほど悪い考えが消えてくれない。 「理事長室には、うちの学校の広報担当の責任者も来ていて――まだ高体連から正式な通達は来ていないって言ってた。処分対象になるのなら、多分 県予選や地区予選が始まる直前に 連絡が来るだろうって」 「おい、瞬……」 星矢が、彼らしくなく、すがるような目を仲間に向けてくる。 瞬は、唇を噛みしめた。 仲間のために 生きることが、自分のためになる。 自分のために 生きることが、仲間のためになる。 自分は孤独ではない。 団体競技への出場予定はなかったので、氷河が出場停止になったからといって、星矢や紫龍までが連座させられるわけではないが、彼等にとって この件は、『だから、この件は無問題』と言えるものではなかった。 1人も脱落してはならない。 そのために努力する。支え合う。 1人だけでも、その脱落を受け入れてしまったら、“仲間”のあり方が変わってしまう。 1人の脱落を 致し方のないことと認め受け入れてしまったら、つらいのは、崩れるのは、むしろ、仲間の脱落を感受した 他の仲間たちの心の方なのだ。 5人は仲間だから。 彼等はそういう仲間だった。 「僕が――」 星矢の不安そうな表情。 星矢に こんな顔をさせてはならない。 余計な雑念に囚われず、勝利を得るために ただ前だけを向いて努力できる環境を整えることが、自分の務め。 「僕がどうにかする」 瞬は、己れの役目を思い起こし、星矢の前で きっぱりと断言した。 「どうにかできんのかよ。敵は 口裏合わせてるんだろ。怪我人が8人ってことは、証人が8人いるってことだろ。しかも、診断書付き」 「氷河は手を出していないって、証明する」 「手を出してないのか?」 「彼等が怪我をしたのは事実だろうけど、彼等は自分がどうして怪我をしたのかもわかっていないと思う」 「なんだ、そりゃ? もしかして、まるっきりの濡れ衣なのかよ?」 濡れ衣なら 濡れ衣と言ってくれればいいものをと、星矢は思ったのだろう。 彼は、暴力事件を起こした(ことにされている)氷河に 説明を求めるように、視線を投げた。 氷河は、しかし、むっとしたまま何も答えない。 氷河の暴力事件の現場にいた瞬も、それは同様だった。 代わりに、あまり愉快とは思えない情報を口にする。 「広報担当の人からの情報では、2日後に高体連の各競技の運営責任者が一堂に会した全体会議があるんだって。多分、その日、処分が決定するんだろうけど――」 「瞬……」 幼い頃に、5人で誓い合った誓い。 “誓い”というものは、誓いを誓い合った者たち全員が その誓いを守り抜いた時にのみ“成った”と言えるものある。 1人でも脱落者を出した時、その誓いを守れなかったのは、誓いを誓い合った者全員なのだ。 誓いが成らなかった原因と責任を、ただ1人の人間に負わせることはできない。 星矢は そう思っているのだろう。 だから星矢は、暴力事件の当事者(ということになっている)氷河よりも不安そうな顔をしているのだ。 そんな星矢のために、瞬は笑った。 そして、告げる。 「大丈夫。星矢の不安そうな顔を見ていたら、どうにかできるような気がしてきた」 「何だよ、それ!」 瞬に そう言われて、星矢は、この事態を 完全に八方ふさがりと考え、本気で不安がっているのが自分だけだということに気付いたらしい。 氷河と紫龍は、どうにかなると――瞬が どうにかすると――信じていることに。 「そっか……そうだよな。わりい。おまえを信じてなかったわけじゃないんだ」 不安の表情を消し去って、星矢が瞬に謝罪してくる。 その謝罪が聞こえなかった振りをして、瞬は星矢に微笑した。 「渦中の人である氷河が動くわけにはいかないから、星矢、手を貸して」 「何か策があるのかっ !? 」 瞬の協力要請に、星矢がぱっと顔を輝かせる。 瞬は、軽く顎を惹くようにして頷いた。 「星矢の不安顔のおかけで、今 いい手を思いついた。“ほぼ完璧”を逆手にとって、最悪のパターンを利用する」 「ほぼ完璧で、最悪のパターンを利用? なんだ、それ。いや、何でもいいや。やるやる、俺にできることなら、何だってやるぜ!」 星矢が嫌なのは、何もできないこと。 ただ手を こまねいて、大人たちの決定に従うしかない状況なのだ。 何をするのかも聞かずに、『やる』と答えてくる星矢に、瞬は 思わず破顔してしまっていた。 |