「さて、次はグラード学園高校の陸上と競泳に出場予定の選手の暴力事件の処分についてですが……。お手許の資料にもあります通り、彼の暴行によって怪我をした者たちの診断書が提出されており、彼が他校の生徒に暴力を振るったことは明白です。ただ、彼は昨年の大会で 競泳自由形100と200で高校新を出しておりまして――」
2日後。
都内C区の全国高等学校体育連盟本部のあるビルの最上階にある大会議室。
30を超える開催競技と同数の理事と 連盟会長 及び副会長の前で、会議の議長を務める事務長が その日の会議の最後の議題の説明を始めた時だった。
会議の出席者たちの耳に、
「君っ、これ以上の無茶はやめなさい! その部屋では今、大事な会議が行われているんだ!」
という、ひどく取り乱した男性の声が飛び込んできたのは。

「その会議で発言したいことがあるんです」
「そんなことが許されるわけがないだろう。ここは許可なく一般人が入っていいところではない!」
「はい、すみません。でも、邪魔しないでください」
どうやら会議室の入り口の前で、この会議に乱入しようとする者と それを阻止しようとする者による悶着が起きているらしい。
狼藉者は すぐに警備員に取り押さえられるものと考えた議長が、このまま会議を続行すべきか、騒ぎが静まるのを待つべきかの判断を迷い始めた時、
「うわあーっ !! 」
会議室の外で 野太い悲鳴が響き、廊下の壁に何かがぶつかったような振動と鈍い音がした。

いったい何が起こったのか。
議長や会長が指示する前に、最も下座にいた理事が立ち上がり、会議室のドアの方に歩み寄る。
彼が目的地に辿り着く前に、会議室のドアは廊下側から開いていた。
その場に、議長席から見えたのは、一人の高校生の姿と、その生徒の後ろに倒れ伏している男性の背中。
「君、いったい彼に何をしたんだ!」
ドアに歩み寄った理事が、会議の出席者たちの知りたいことを、その場に立っている高校生に詰問する。
侵入者は、涼しい声で、
「僕は何もしていません」
と答えてきた。
「何もしていないのに、人が倒れたりするか!」
「そういうこともあるのだということを、お知らせにあがりました」

瞬とて――その高校生は、もちろん瞬だった――こんな無茶はしたくなかったのである。
だが、“そういうこともあるのだということ”は、言葉で説明するより、実演してみせた方が 手っ取り早く、また信じてもらいやすい。
理事たちの不興を買う可能性も考えたが、勝算はあると踏んで、瞬はこの暴挙に及んだのである。
会議室の入り口は、会議室内に入っていく勇気のない職員たち――つまり、野次馬――によって ふさがれ、ある意味、瞬は退路を断たれた格好になっていた。
その人だかりの中には、ビデオカメラレコーダーを手にした星矢も紛れ込んでいる。

「君は誰だ」
室内最奥にある議長席の隣りの席に掛けていた連盟会長が、会議に乱入してきた高校生に尋ねてくる。
「グラード学園高校のインターハイ出場予定選手が暴漢に襲われた時、その場にいた者です。氷河の友人です」
瞬の返答を聞いて、会長は瞬の狼藉の目的を察したのだろう。
彼は、僅かに片眉を歪めた。
「暴漢は氷河君の方だろう。いや、それは、これから報告書を見て、我々が判断する。ここは生徒の来る場所ではない。出て行きたまえ」
「僕の話を聞いて下さるまで帰りません」
「帰りたまえ!」

会議室の入り口をふさいでいる人だかりを掻き分けて 室内に入ろうとしている2人の警備員の姿を認めた会長が、彼等に、
「この生徒を帰らせなさい」
と指示する。
「はいっ」
2人の警備員は すぐに会長の指示に従い、左右から瞬の腕を掴んで取り押さえようとした。
残念ながら、その時には既に瞬は 場所を3メートルほど移動して会議室の中に入り込んでいたので、彼等は会長の指示を実行に移すことはできなかったが。
瞬を取り押さえるどころか――瞬の動きが素早すぎて 目標を見失った彼等は、勢い余って つんのめり、その場に派手に倒れてしまったのである。

「何をしているんだ、君等は!」
「どうなさったんです。大丈夫ですか」
折り重なって倒れている2人の警備員を、会長が苛立った口調で叱責し、瞬が その身を案じる。
さすがに のんきな傍観者でいるのは まずいと思ったらしい男性職員が3人、会議室の中に飛び込んできて、瞬を取り押さえようとしたのだが、彼等も2人の警備員とほぼ同じ運命を辿ることになった。
跳びかかってきた職員の手を逃れるために、瞬が その場から助走もなく跳躍し、幅が2メートル以上ある会議用テーブルと、そのテーブルに着席している理事たちの頭の上を軽々と飛び越え、部屋の反対側に移動する。
男性職員は、1人は 壁に正面衝突、1人は テーブルの角に 太腿を打ちつけ、1人は テーブルに着いていた理事の椅子を 理事ごと、自分の身体でなぎ倒すことになった。

この会議に出席している理事たちは、ほぼ全員が、若い頃には それぞれの競技で活躍したスポーツマンである。
30人の理事の内 10人ほどが、若き日の熱い情熱が蘇ってきたわけでもないだろうが、会議室の中を ひらひらと逃げ回る瞬を捕まえようとして――先の警備員や職員たちと同じ運命を辿った。

まさに屍累々の会議室。
自分を捕えようとする理事たちの手を ひらりひらひらと かわして、いつのまにか議長と会長の真正面、至近距離にまで移動してしまった闖入者。
「この子は牛若丸か……」
理事の一人が ぽかんとした顔で そう呟くのを聞いて、瞬は つい吹き出してしまいそうになったのである。
今は笑っている場合ではないことを思い出し、瞬は、慌てて表情を引き締めた。

「君……」
目も当てられない惨状に愕然とした様子で、会長が 眼前に立つ瞬の顔を見上げる。
瞬は、そんな彼に向かって、静かに訴えた。
「あの時もこんなふうでした。半月前、冥界高校の生徒が氷河に怪我をさせられたと主張している日――。僕は、暴力沙汰に巻き込まれるのはまずいと思ったので、冥界高校に絡まれた時、氷河を その場から逃がしたんです。氷河を追えないように、僕が冥王高校の生徒たちを その場で足止めしました」

「で……出ていきたまえ」
会長が震える声で そう言ったのは、瞬の話を聞きたくないからではなく――警備員、職員、歳を経たとはいえ腕に覚えのある理事たち10数人を あっというまに叩き伏してしまった牛若丸が恐かったからだったのかもしれない。
もちろん、瞬は会長の指示に従うことはしなかったが。
会長を恐がらせるわけにはいかないので、意識して穏やかに、微かに笑みを浮かべ、説明を続ける。
「僕だけ、その場に残って――でも、僕は彼等に指一本触れていません。僕はインターハイへの出場予定はないですけど、やっぱり暴力沙汰に関わったと思われるのは困りますから。僕は、ただ逃げていました。彼等が勝手に滑ったり転んだりしただけです。彼等は最後にはナイフを取り出しました」
「ナイフ?」
「僕を女の子だと誤解していたようで、僕を脅して どこかに連れて行こうとしたんです。それで、僕、そのナイフを奪い取らないわけにはいかなくなって……。でも、それ以上のことは何も――」
「君は男子なのか!」

全国高等学校体育連盟会長。
彼は、伊達に選ばれて連盟会長の地位に就いているわけではないらしい。
彼の雄叫びは、ナイフなどより はるかに鋭く深く、瞬の胸を傷付けた。
瞬は、全国高等学校体育連盟本部を訪ねるというので、ちゃんと母校の男子の制服を身に着けていたのである。
真夏だというのに 長袖の上着を着て、もちろんネクタイもしっかり締めていた。
しかし、いかにショッキングな言葉を投げつけられ傷付いたからといって、ここまできて、目的を果たさず すごすご逃げ帰るわけにはいかない。
瞬は会長の質問を無視し、懸命に自分の為すべきことを為し続けた。

「その時の――証拠はありません。でも、ここには監視カメラがありますよね。警備の方々が 玄関や廊下で7、8人、勝手に転んで倒れることになった状況を確かめることはできると思います。僕がここまで来る途中、ここに来てからも、誰にも指一本触れていないことは、その映像を見ればわかるはず。ここまで一緒に来た友人も、僕が このビルに入って、この会議室に来るまでの様子を録画しています。それは、僕が冥界高校の生徒たちに指一本触れていないことの 直接の証拠にはなりませんけど、判断材料の一つ、状況証拠の一つにはなり得るものなのではないかと思います。ご希望でしたら、喜んで提供させていただきます」
「男子なのか、本当に」
会長は まだ、そんな およそどうでもいいことにこだわっている。
彼が自分の訴えをちゃんと聞いてくれいるのかどうかが不安になって、瞬は会長に重ねて訴えた。

「あの時も、僕は同じように逃げていただけです。小さな子供たちが一緒だったので――興奮して いきり立っている人たちに 抵抗して、へたに刺激を与えるのは危険だと思ったんです。そうしたら、彼等が勝手に倒れていっただけ――」
「そ……それは あり得ることだ。それは認めよう」
会長が、気を取り直したように瞬に頷いてみせる。
瞬は内心で 小さくほっと安堵の息を洩らした。
「証拠はありません。ただ、僕たちに絡んできた人たちの中に、一人だけ奇妙な気配を放っている人がいて、何か引っ掛かりを感じて、僕、その人が勝手に転んだ姿をカメラに収めたんです。それは すぐに提出できます。その写真を、反社データベースを持っている知り合いに照合してもらったら、住凶会系の暴力団構成員の一人でした。その人は、僕に絡んできた冥界高校の生徒たちのリーダーのように振舞っていました」

「なにっ !? 」
さすがに、反社――反社会的勢力――という言葉は、瞬が男子だということ以上に激しい衝撃を 会長に与えることになったらしい。
彼は、表情を険しくした。

「僕は氷河のことは もちろん心配なんですが、もしかしたら 反社会的勢力者がインターハイの戦績を賭博の材料にしているんじゃないかと、それが不安なんです。昨年の優勝者で高校記録保持者の氷河が大会に出場できなかったら、大番狂わせが起きますよね? それで儲ける人がいるんじゃないと……。杞憂だったらいいんですが、ともかく 慎重な調査をお願いします。もし、高体連の方でちゃんと調べてくださらなかった場合、僕はこの情報を ふさわしいメディアにリークします。新聞社、テレビ局、出版社――同じ 公にするのでも、民間のメディアにすっぱぬかれるよりは、高体連がマスコミに先んじて自主的に発表する方がいいのではないかと、僕は思うんですが……」
「インターハイの戦績で賭博……?」
会長だけでなく、それまで自席で動けずにいた理事たち、床に倒れていた理事たちもまた、その表情を緊張させる。
瞬が口にした“可能性”のせいで、会議室は、その空気までが一変した。

瞬の推測――それは推測にすぎなかったし、たとえ事実であっても、高体連が責任を負うべきことではない。
それは高体連の預かり知らぬところで、反社会的勢力者たちが勝手に行なっていることにすぎないのだ。
しかし、彼等は瞬の推測を聞いてしまった。
より正確に言えば、そういう推測を為している人間がいるという事実を知ってしまった。
その推測を為した人間を納得させられる対応をとらないと、納得できなかった人間は その事実を公にするだろう。
反社会的勢力に益をもたらす可能性があることを知りながら、高体連が一人の選手から試合出場の機会を奪った――と。
この会議の出席者の中には、高校球児の奮闘を食い物にする野球賭博に悩まされている高野連の代表もいた。

もちろん、『インターハイに参加する高校生たちに不安を与えないため』という もっともらしい理由をつけて、マスコミに口を閉ざさせることはできなくはない。
だが、今はネットの力によって、たった一人の人間が社会に向けて 大企業や有力団体を告発することも容易にできる時代。
しかも、その告発者は、彼の推測に信憑性を持たせることのできる映像データを持っていると言っている。
これは、高体連には、子供の告発にすぎないと軽んじて捨て置くことのできる事態ではなかった。

「わ……わかった。早急に、そして慎重に、調査はやり直す。診断書の提出があったとはいえ、一方の言い分だけを聞いて、処分を決定しようとした我々も軽率だった。我々に しばし時間をくれたまえ」
「ありがとうございます! 嬉しい! きっと、氷河の無実は証明されます。彼等が一人で勝手に転び出したのは、氷河があの場から逃げたあとだったんです!」
男子の制服を着ていても女子にしか見えない瞬の感謝の言葉と満面の笑みに、高体連の理事たちもまた笑顔で答えた。
その笑顔は かなり引きつっていて――もしかしたら それは笑顔ではなく、ここで怒るわけにも嘆くわけにもいかない彼等が無理に作った“怒りでも嘆きでもない何か”だったかもしれない。






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