「あなたの願い事を、何でも一つだけ叶えてあげる」 いくら、やっと10を超えたばかりの子供だったとはいえ、瞬が その言葉を 言葉の通りに信じることはなかっただろう。 瞬に そう告げてきた若い女性の下半身が、魚のそれでなかったなら。 今 アンドロメダ島の海辺の岩に腰を下ろし、その尾びれで海水を弾き 弄んでいる金髪の女性は、いわゆる“人魚”と呼ばれる伝説の生き物の姿をしていた。 彼女は、昨日は、小さな金色の魚の姿で この岩場で遊んでいたのだと言う。 岩と岩の間をくぐり 滑りながら遊ぶことに夢中になっているうちに潮が引き、彼女の家――そう彼女は言った――のある海の底に帰れなくなってしまった。 かろうじて身を浸すことができていた潮だまりは、陽光の下で どんどん小さくなっていき、このままでは身体が乾ききって死んでしまうしかないだろうと覚悟を決めた時、たまたま海綿を取るために この岩場にやってきた瞬に波打ち際まで運んでもらい、そのおかげで九死に一生を得たのだと。 昨日の昼下がり、小さな水たまりの中で苦しそうに撥ねている金色の魚を海に戻してやった記憶が、瞬には 確かにあった。 このアンドロメダ島は、昼は摂氏50度にまで気温が上がり、夜は一転 零下にまで下がるという過酷な環境下にある島で、それゆえ残酷なほど美しく、こんな おとぎ話の中の出来事のようなことが起こっても不思議ではないと思わせる風情のある島ではある。 だが、だからといって、『命を救ってもらった恩返しをしたい』という人魚の言葉を すんなり信じ受け入れることは、瞬にはできなかったのである。 瞬は大人ではなかったが、既に子供でもなかった――少なくとも、そんな おとぎ話を信じられるほど幼い子供ではなかったから。 だが、今 瞬の目の前にいるのは、紛れもなく、大人の世界では伝説の中にしか存在しないと言われている人魚。 子供ではないが 大人にもなりきれていない瞬は、迷い混乱していた。 「あの、僕は別に恩返しをしてほしくて あなたを助けたわけじゃないんです。ただ、とても綺麗で、とても小さくて、苦しそうだったから、助けてあげなきゃならないと思っただけで――」 どういえば わかってもらえるのだろう。 自分は、たまたま命を救っただけの人(?)に恩返しをしてもらえるような、善良な人間でもなければ 親切な人間でもないのだということを。 瞬は考えた末、申し訳なさそうな顔をして、彼女に告げたのである。 「あの魚が――あなたがタイやスズキの姿をしていたら、僕はあなたを持ち帰って食べていました」 と。 途端に、人魚が、夕暮れの近付いているアンドロメダ島の浜に、けたたましい声で笑い声を響かせる。 その甲高い笑い声に驚き 唖然としている瞬の前で、笑いたいだけ笑ってから、彼女は 一層気負い込んで、瞬に恩返し――もとい、恩返され――を迫ってきた。 「なんて正直な! ますます気に入ったわ。さあ、おっしゃい。あなたの願い事は何。何も望みを持っていないはずがないわね。人間なら」 「あ……」 それは もちろん、望みはある。 ただ一つだけ、何があっても叶えたい望みが。 他に望みはない。 「アテナの聖闘士になりたい……」 「アテナの聖闘士?」 「ええ。僕の願いはそれだけです。他に望むことはありません。でも、それは他人の力を借りて叶えていいようなものじゃないんです。多分……」 「お硬いのねえ。あなたがアテナの聖闘士になりたいと願うのは、別に悪いことをするためじゃないんでしょ」 「それは もちろん……僕がアテナの聖闘士になる目的は、地上の平和を守ることと、生きて兄さんに再会することです」 「地上の平和を守る! 大層 立派な目的じゃないの。誰にも あなたの望みを非難することはできないわ。何を遠慮しているの」 「でも……」 瞬は遠慮しているわけではなかった。 ただ迷っているだけで――わからないだけで。 自分が、自分の力ではなく人の力によって、聖闘士の資格と聖衣を手に入れていいものなのかどうかが。 城戸邸から世界各地に送られた仲間たちは、その資格を我が物にするために、たった今も 血のにじむような修行を重ねているに違いないというのに。 ためらう瞬に焦れたように、人魚が魚の尾で せわしなく幾度も海面を叩く。 その動きを ふいに止めて、人魚は瞬に提案してきた。 「なら、こうしましょ。魔法で願いを叶えることにペナルティをつけるの」 「ペナルティ?」 瞬が問い返すと、人魚は自分の思いつきに悦に入ったように 大きく頷いた。 しばし 何事かを考え込む素振りを見せ、それから 彼女の考えたペナルティを瞬に提示してくる。 「こういうのはどう? もし あなたが魔法の力で聖闘士になったことを、あなた以外の人に知られたら、あなたの恋人が あなたのことを忘れてしまう――というのは。これは きついわよ」 「……」 人魚は、自分は 素晴らしいアイデアを思いついたと信じきって、得意満面の体でいる。 しかし、瞬は彼女が得意顔でいられる気持ちがわからず、彼女の前で ただ絶句していることしかできなかったのである。 そもそも恋とは何なのか。 恋人とは どんなものなのか。 肉親や友人とは違う意味で 特別に誰かを好きになること、その対象――という理解でいいのだろうか? 「こ……恋なんて――。僕、そんなのしてない。ずっと しないと思います」 「これから先のことは、誰にもわからないわよ」 「……僕、そんなのしない」 自分は おそらく、ただ生き延びることだけで精一杯の一生を生きる。 恋などという優雅な遊戯に興じる余裕も時間も、一生 持つことはない。 それ以前に、“生き延びた”といえるほどの時間を生きることができるかどうかすら怪しい。 ほとんど確信に近い気持ちで、瞬は人魚に そう告げたのだが、人魚はただ 無責任に、そして 楽しそうに笑うばかりだった。 「あなたはまだ お子様だからわからないかもしれないけど、しないと決めて、せずにいられるものじゃないのよ、恋っていうものは」 「あなたは そういう恋をしているの?」 「そんなこと、どうだっていいの! 私は今、あなたの話をしているのよ!」 それまで ひたすら瞬をからかう口調でいた人魚が、瞬の質問が気に障ったのか、急に声を荒げる。 もしかしたら彼女は、誰にも言うことのできない人魚姫のような恋をしているのかもしれないと、瞬は ぼんやり思ったのだった。 「とにかく 私は、あなたの願いを一つ叶えないと、海に帰っていけないの。人間の世界には そんなものはないのかもしれないけど、海の世界には必ず守らなきゃならない仁義ってものがあるのよ。恩を受けたら、その恩を返す。半分 人間だからって、人間なんかと一緒にしないでちょうだい。さあ、さっさと、私に叶えてほしい願い事を決めて。私は 早く 海に帰りたいのよ」 「あ……」 仁義を通すために わざわざ人の世界にまでやってきてくれた人魚の時間を、自分の優柔不断で長く奪うわけにはいかない。 日よけ用の麻布の一枚でも願って 海に帰ってもらうのが、双方にとって最もよい対応だろうと、瞬は考えた。 「僕の願いは――」 「『アテナの聖闘士になる』でいいわね?」 「え……」 それは他人の力などに頼らず自分の力でなるべきもの――と、すぐに言ってしまえなかったのは、瞬が その時、師アルビオレに教えられた小宇宙というものが どういうものなのかが わかりかけていたところだったからかもしれない。 『小宇宙』を言葉の上でしか知らなかった頃には、瞬は 努力さえすれば それは手に入れることができるものだと思っていた。 だが、小宇宙の何たるかが理解できてくると――その力の大きさ、不思議、やみくもに努力するだけでは永遠に掴み取れないものだということが 感覚として わかってくると――自分は決して そこに辿り着けないのではないかという不安に囚われてくる。 高い山の頂を遠くから眺めている時には、目的地に向かって歩いていけば いずれは そこに到達できると思っていられるが、実際に その山の麓に辿り着いてみると、人は その山の険しさに圧倒され、恐れおののくことになる。 瞬は今、そういう場所に立っていた。 以前よりは ずっと目的地に近付いたのに、目的地までの距離を正確に認識できるようになった途端、その距離に 打ちのめされずにはいられない。そんな場所に。 だから――結局 瞬は、人魚の強引に抗する気力を持てなかったのである。 地上の平和に貢献することができ、兄に会えるのであれば、それでいいではないか。 どうせ恋などするわけがないのだし、その事実が他人に知れたところで、誰も迷惑を被るわけではないのだ。 そう考えて――そういう考えに流されずにいられなくて――瞬は人魚に頷いた。 「はい……」 瞬がアンドロメダ座の聖闘士になることができたのは、瞬が人魚に恐る恐る頷いてから5年後。 人魚との約束によって『アテナの聖闘士になりたい』という自分の望みが叶うことを知っていた瞬は、どれほど つらい修行を課せられても挫けることはなく、諦めることもしなかった。 身体能力や 戦いへの意欲では、瞬は決して他の聖闘士志願者ほど優れてはいなかったが、自身の未来を信じ 迷うことがないという点で、瞬は他の志願者たちとは異なっていた。 瞬は、迷うことなく、疑うことなく――自らの成功と勝利に自信と確信を抱いて、努力し続けることができたのである。 自信と確信――それは、アンドロメダ島に送られた時点で、最も瞬に欠けていた資質だっただろう。 しかし、瞬は それを人魚によって与えられたのである。 険しすぎて到底 登ることはできないと感じていた山の頂に、自分が いつ、どうして、どうやって辿り着いたのか、瞬自身にも わかっていなかった。 |