「久し振りね」 アスガルドの戦いが終わり、地上の至るところが洪水のような激しい嵐に襲われ出した時――この異常な出来事が海皇ポセイドンの意思によって引き起こされていることが、アテナとアテナの聖闘士たちの知るところとなった時――彼女は人間の姿で、瞬の目の前に現れた。 その身に、海皇ポセイドンに従う海闘士の証である 鱗衣をまとって。 人魚は、海に棲むもの。 彼女が海皇に与していても 何の不思議もないのだが、それでも瞬は、訝り驚かないわけにはいかなかった。 彼女がアテナに敵対する者であるなら、なぜ彼女は アテナの聖闘士の誕生に力を貸すような真似をしたのかと。 「あなたは人魚? 人間? それとも魚なの?」 そんな、およそ どうでもいいことを、瞬が彼女に尋ねたのは、他の答えを聞きたくなかったから。 しかし、彼女は、5年前の あの日と同じように楽しそうに、瞬が聞きたくない答えを返してきた。 「私はジュリアン様――神皇ポセイドンに従う海闘士よ。海闘士マーメイドのテティス」 「海闘士……」 やはり、そうであるらしい。 彼女は今、アテナとアテナの聖闘士の敵として、ここにいるのだ。 「こういうことになったから、昔のよしみで挨拶だけでもしておこうかと思って。あなた、私が想像していたより ずっと可愛く育っているわ」 そう言う彼女は、5年前の あの日と今日とで、何も変わったところがないように見えた。 あの日同様、若いまま。 彼女は、不思議な力でアテナの聖闘士を生むこともできる人魚。 彼女が歳をとらないことは、もしかしたら驚くに値しないことなのかもしれなかった。 「……あなたは知っていたの。アテナの聖闘士とポセイドンが、こうして敵対し合うことを」 「いいえ。人間と違って、海の民は仁義を重んじるの。ただ それだけよ。チビちゃんだった あなたが、魚の姿をした私の命を救ってくれた時、私は あなたの優しさに心から感謝したわ。こうなってしまったことは、とても残念よ」 「残念だけど、こういうことになって――あなたは、あのことを僕の仲間たちに 教えるの? 僕が本当は聖闘士になる資格も力も持っていない卑怯者だっていうことを」 「それは私にはできないわ。仁義に反するじゃないの。あなたはアテナの聖闘士。聖闘士になった経緯はどうであっても、死ぬまでアテナの聖闘士であり続けるわ」 「あ……」 アテナとアテナの聖闘士の前に 新たな敵が出現した今この時、アテナの聖闘士としての戦いを戦い続けられなくなること。 それが瞬が最も恐れていたことだった。 最悪の事態は回避できることを知って、瞬は ほっと安堵の息をついたのである。 そんな瞬を見て、相変わらず楽しそうに、テティスが 二人の交わした約束の内容を口にする。 「ええ。あなたは あなたが死ぬ時までアテナの聖闘士であり続けることができる。あなたのミスか、あなたの意思で、あなたが実は自分の力でアテナの聖闘士になったのではないということが 人に知れた時、あなたのことを あなたの恋人が忘れるだけ」 改めて言われるまでもなく――瞬は、二人の約束の内容、万一の時に課せられるペナルティのことを忘れてはいなかった。 ただ そのペナルティは、憶えていても意味のないことだったから、思い返すことをしなかっただけで。 瞬が 思い返すこともしなかった そのペナルティにこそ、テティスは最も強い関心を抱いているようだったが。 「で? 恋の方はどう? 好きな人はできた?」 人魚かと思えば 金色の魚で、魚かと思えば 人間で、受けた恩を返そうとする律儀な海の民かと思えば 人類を滅ぼそうとする邪神に従う敵で、冷酷な敵かと思えば 他人の恋に面白半分で興味を抱く野次馬冷やかしの類。 いったい この女性の本性はどこにあるのかと、瞬は戸惑い呆れてしまったのである。 何より、この女性が真面目なのか不真面目なのかが わからない。 「あなたは何を言っているんです。僕はアテナの聖闘士なんですよ。これまで ずっと地上の平和と安寧を乱そうとするものたちと戦ってきた。戦いばかりの日々の中で、恋なんて、そんな のんきなものに うつつを抜かしている暇なんてありません!」 答える声が上擦り かすれてしまったのは、面白半分でそんなことを訊いてくる のんきな敵に戸惑ったからで、事実を隠したり偽ったりしようとしたからではない。 少なくとも、瞬自身は そのつもりだった。 が、テティスは そうは思わなかったらしく――彼女は瞬の言葉の裏にあるものを探ろうとするような目で、瞬の顔を覗き込んできた。 「戦いの日々が続いていたのなら、なおさら――そういう時こそ、戦いに疲れ すさんだ心は、愛や安らぎや情熱を求めるものよ」 「それは、アテナの聖闘士じゃない、普通の人の場合でしょう。僕が誰かを好きになったって、その人の負担にしかならないことがわかっているのに――その人を幸せにしてあげられないことがわかっているのに、そんなこと――」 「相変わらず、お硬いこと。必ずしも そうとは限らないわよ」 からかうようなテティスの口調。 本当に 彼女は何のために アテナの聖闘士の前に現れたのだろう。 まさか浦島太郎が助けた亀のように、これから まもなく海皇ポセイドンの海底神殿に向かおうとしているアテナの聖闘士たちの水先案内を務めるためではあるまいに――。 何か 彼女の前で真面目に構えているのが馬鹿らしくなって、瞬がそんなことを考え始めた時だった。 「瞬ー!」 旅立ちの時が近いというのに いつまで経っても仲間たちの許に戻ってこないアンドロメダ座の聖闘士を捜しにきたのだろう氷河の声と姿が、瞬たちの前に現れたのは。 「氷河……」 「あら、結構な美形じゃないの。あなたの お仲間? 職場恋愛も なかなか乙よね。彼なんかどうなの?」 やはり この女性は真面目な気持ちなど微塵も抱かずに、この場にいるらしい。 少し疲れた気分で、瞬は、彼女の無責任な提案を言下に退けた。 「何を言っているの。氷河は男だよ」 「え?」 テティスが瞬の拒絶を受けて、一度 大きく その瞳を見開く。 まるで異星から来た宇宙人の言葉を聞かされでもしたかのように、幾度も目を しばたたかせ、最後に彼女は 瞬の前で大声で笑い出した。 そうしてから、瞬にとっては侮辱としか思えない言葉を吐き出す。 「あなた、相変わらず面白いわ! いやだ、あなた、女の子じゃなかったの?」 「は?」 「そういえば、アテナの聖闘士は、女聖闘士は仮面をつけることになっているんだったわね。その可愛い顔を堂々と人目に さらしていられるということは、つまり、そういうこと。いやだ、私としたことが、5年以上 騙されていたわ。あなた、随分 人が悪いわね」 「……」 ふざけているとしか思えない人間――しかも、敵――に、真面目に対応していた人間を捕まえて、『面白い』とは何事か。 あまつさえ、女子と勘違いした上に、『騙されていた』とは、人聞きが悪すぎる。 これ以上、彼女の相手を続ける気がなくなって、瞬は彼女の前で踵を返した。 ちょうど その場に到着した氷河が、テティスに背を向けた瞬の肩に手を置き、その身体を自分の方に引き寄せる。 そんなことをしても何も益はないのに、氷河は真面目にテティスを睨みつけた。 「何者だ。ポセイドンの手の者か」 「ええ。私はポセイドン様の海闘士、マーメイドのテティス。アンドロメダがあまりに可愛いので、誘惑していたところよ」 テティスは完全にふざけている。 『真面目に彼女の相手をしても、疲れるだけだから』 そう言って、瞬は、氷河と共に この場から立ち去ろうとしたのである。 しかし、瞬は そうすることはできなかった。 氷河が――氷河までが――真面目なのか不真面目なのか わからない言葉で、テティスと言い合いを始めてしまったせいで。 「無駄なことはやめた方がいい。貴様なんかより、瞬の方がずっと可愛い。瞬が貴様なんかに よろめくものか」 氷河の乗りのよさが(?)嬉しかったのか、テティスは笑顔になり、その発言内容を更に ふざけたものにしていった。 「ほんと、男の子と思えないくらい可愛いわね。男の子とわかっていても、くらくらするんじゃないの」 「まあ、貴様と瞬のどちらかを選べと言われたら、俺は 迷うことなく瞬を選ぶな」 「氷河!」 地上は水没の危機に瀕しており、テティスは人類の粛清を企む邪神の手先である。 今は そんなもの相手に軽口を叩いていていい時ではない。 少々 きつい口調で仲間の名を呼び、瞬は仲間の悪ふざけを たしなめたのだが、氷河は一向に反省する様子を見せてはくれなかった。 反省するどころか、氷河は よりにもよって海皇ポセイドンの手先の前で、 「迷惑か」 と、瞬に尋ねてきたのである。 どういう聞き方をしても、“真面目”としか思えない声と瞳で。 「え」 思ってもいなかった問い掛けに、瞬は虚を衝かれ、答えを返すタイミングを逸した。 氷河が、そんな瞬の様子を見て、どこか苦しげに、 「迷惑なら、やめる」 と、低い声で潔い決意を告げてくる。 「や……やめるって、何を? どうして?」 反射的に 問い返した自分の声が、まるで氷河の潔さを責める響きを帯びていることに、瞬は戸惑い、慌ててしまったのである。 地上は水没の危機に瀕しており、今 自分たちの前にいるのは 人類の粛清を企む邪神の手先である。 他のどんな時より真面目かつ深刻でいなければならない今この時に、自分は何を言っているのか――。 それとも、真面目かつ深刻でいなければならない、こんな時だからこそ、テティスが言っていたように、人は 愛や安らぎや情熱を求めるものなのだろうか。 “テティスが言っていたように”。 先に恋の話を持ち出したのはテティスだったというのに、彼女は、自身の発言を忘れたかのような呆れ顔で、アテナの聖闘士たちのやりとりを非難してきた。 「アテナの聖闘士は のんきなこと。ポセイドン様は地上の醜悪にお怒りで、粛清に乗り出そうとしているというのに。とりあえず忠告しておくけど、早めに降伏した方がいいわよ。生きて、自分の恋を楽しみたかったら」 アテナの聖闘士たちを“のんき”と評し 咎める権利が、彼女にあるだろうか。 彼女は どの口で そんなことを言えるのか。 それより何より 彼女に変な早とちりをされてしまわないために、瞬はテティスに 事実――アンドロメダ座の聖闘士と白鳥座の聖闘士の間には何もないという事実――を説明しようとしたのだが、その時には もう、テティスの姿は その場から消えてしまっていた。 楽しげな笑い声の木霊だけを残して。 |