地上は水没の危機に瀕している。
アテナの聖闘士たちの前にあるのは、新たな戦い――命をかけた海皇ポセイドンとの戦い。
だというのに、今 瞬の心が最も強く囚われているのは、戦いへの決意ではなく、地上に生きる多くの人々の命と未来を憂える思いではなく、アテナの聖闘士としての責任感でもなく――氷河と二人きりで その場に残されてしまったことの気まずさだった。
今は そんなことをしている場合ではないと思うのに、
「氷河、あ……ああいう冗談を言うのはやめて」
と 氷河を責めずにいられない――探りを入れずにはいられない。

「俺は本気だ」
にこりともせずに、むしろ怒っているような表情で、氷河が即答してくる。
そんなことをしている場合ではないと思うのに、氷河の その答えを聞いた瞬の心臓は大きく跳ね上がった。
「どうして僕なんかを」
これから、命をかけた戦いが始まる。
今は、そんなことを訊いている場合ではないのだ。
「おかしいか? 別に不思議なことでも何でもないだろう。おまえは強いし、優しいし、綺麗だし、俺は幾度も おまえに命を救われた」

本当に こんなことを訊いていて いい時ではないのだ、今は。
だというのに。
「ひょ……氷河が僕を好きになってくれたのは、じゃあ、恩返しなの」
立腹しているように見えるほど真面目な顔をしていた氷河の顔が 僅かに歪んだのは、今が“そんなことをしていて いい時ではないから”ではなく、“瞬がそんなことを訊いたから”だったようだった。
「恩返しとは、面白い発想だな。残念ながら、俺は おまえに恩を返すつもりはない。逆だ。俺は、もっと おまえが欲しいと言っているんだ。おまえの強さ、優しさ、美しさを もっと俺に――できれば俺にだけ与えてほしいと」
「あ……」
新たな戦いが始まろうとしている今、ポセイドンとの戦いに臨もうとしている今は、胸の鼓動を こんなに速めていて いい時ではない。
それは わかっているのに。

「せ……聖闘士は、いつ命を落とすかわからない。氷河が恋するのは、できるだけ安全な場所にいる人の方が――聖闘士じゃない方が――」
こんなことを話している場合ではない。
しかも、こんな心にもないことを。
「おまえはそうなのか」
「え」
「おまえは、恋をするなら その相手は聖闘士でない方がいいと思っているのか」
「ぼ……僕は――」

どうしても止めることのできなかった声と言葉が、やっと止まってくれる。
『そうではない』と、瞬は氷河に答えたかった。
『そうではなく、僕はただ、アテナの聖闘士が恋をすることなどないと、アテナの聖闘士に そんな余裕はないのだと思い込み 決めつけていただけで、アテナの聖闘士が誰に恋すべきなのかなどということは 考えたこともなかった』と。
『氷河がアテナの聖闘士に恋をすることを否定しているわけではない。僕が氷河を拒絶しているわけではないのだ』と。
瞬は、そう言おうとしたのである。
今は そんなことをしている場合ではないが、氷河に そんな誤解をされたくはなかったから。
だが――。

「俺は多分、おまえがアテナの聖闘士だから、おまえを好きになった」
だが、氷河の その言葉が、瞬から声と言葉を奪ってしまったのである。
「あ……」
自分の頬から血の気が引いていくのが、瞬にはわかった。
言葉もなく青ざめてしまった瞬を見て、氷河が自嘲気味に笑う。
「……どっちにしても、無理に俺を好きになれとは言えないな」

『俺は、おまえがアテナの聖闘士だから、おまえを好きになった』
では、氷河は、“瞬”がアテナの聖闘士でなかったら、“瞬”を好きになることはなかったのだろうか。
もし“瞬”が 自分の力でアテナの聖闘士になったのではなく、他人の――人魚の不思議な力で聖闘士になったことを知ったら、氷河は“瞬”をどう思うだろう。
“瞬”が本当は アテナの聖闘士たる資格を持たない 偽りの聖闘士だということを、氷河が知ってしまったら、氷河はアテナの聖闘士ではない瞬を嫌うようになるのだろうか。
恋するのを やめてしまうのだろうか。

言えない――本当のことを、氷河に言うことは絶対にできない。
本当のことを氷河に知られることだけは絶対にできない。
そう、瞬は思ったのである。
氷河に“瞬”を好きでいてほしいから。
『こういうのはどう? もし あなたが魔法の力で聖闘士になったことを、あなた以外の人に知られたら、あなたの恋人が あなたのことを忘れてしまう――というのは』
人魚の恩返しが、実は そのままアテナの聖闘士への呪いだったことに、今になって気付く。
テティスの意図がどうであれ、アテナの聖闘士というものは やはり、自分の力以外の力でなっていいものではなかったのだ――。

青ざめた頬で、瞬は 自分がアテナの聖闘士として 今この場にいることを、アテナの聖闘士になって初めて、後悔した。






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