「そりゃあ、私は はっきりポセイドン様に敵対するなと言わなかったわ。私が 不親切だったのかもしれないけど――それくらいは察してほしかったわね」
瞬の頭の上には海があった。
仲間たちは海底神殿を支える7つの柱を倒し、再び この場で相まみえることを約し、それぞれの柱に向かって走り出した。
地上に降り注ぐはずの雨を我が身に受け、世界を守ろうとしているアテナの命を救うため、瞬もまた、南太平洋の柱に向かって駆けていたのである。
そんな瞬の前に現われ、その行く手を遮ったのは、ポセイドンの海将軍ではなく、海闘士マーメイドのテティスだった。
察しの悪い子供に呆れたように、彼女は 僅かに唇の端を歪めていた。

「テティス……」
「あなたは あなた自身の力で聖闘士になったのじゃないわよね。あなたがアテナの聖闘士になれたのは、誰のおかげ? いいえ、何のおかげ? 人間界と違って 義理堅い海の世界のルールのおかげでしょ。言ってみれば、海界を支配するポセイドン様のおかげ。そのポセイドン様に逆らおうなんて、それこそ恩を仇で返す行為よ。大人しく、この戦いから手を引きなさい」
瞬とて、できることなら そうしたかったのである。
親切にしてくれた人には感謝の気持ちを返したい。
誰とも戦いたくなかったし、誰も傷付けたくなかった。
だが、その親切な人が地上に住む多くの人々の命を、アテナの命を、奪おうとしている。
自分に 戦う力、生き続ける力を与えてくれた人だからといって、その暴挙を 手をこまねいて眺めているわけにはいかないではないか。
地上の平和と安寧を守るために存在するアテナの聖闘士が。

「ポセイドンが地上を滅ぼそうとする限り、そんなことはできない」
瞬は、テティスに そう答えるしかなかった。
「そこをどいてください。僕の仲間たちは、地上の人々とアテナを守るために 命をかけて戦っている。僕だけ、こんなところで のんびり あなたとお喋りをしているわけにはいきません。あくまで僕の邪魔をするというのなら、僕はここで あなたを倒さなければならない」
そんなことをさせないでくれという瞬の訴えに気付かなかったわけではないだろうに――むしろ、気付いていたから? ――テティスは、その手でチェーンを握りしめた瞬に、皮肉の色の濃い笑みを投げてきた。

「あなたの仲間たち? そんなものがどこにいるの。あなたは彼等の仲間なんかじゃない。あなたはアテナの聖闘士じゃない。偽者よ。仲間を騙す仲間が、どこの世界にいるものかしら」
「テティス……」
「それとも あなたは、自分がこれまで 彼等と命がけの戦いを共に戦ってきたから、自分は彼等の仲間になったのだとでも言うつもり? それらの戦いを共にすることによって、信頼や絆が生まれたのだと? それは、でも、詭弁よ。もし、あなたと他の聖闘士たちの間に 仲間同士の信頼や絆があるのだとしても、それは 偽りという名の大地の上に咲いた花。あなたが仲間たちとの間に真の信頼や絆を築きたかったのなら、彼等の本当の仲間になりたかったのなら、あなたは 最初に 本当のことを仲間たちに打ち明けるべきだった。自分は自分の力でアテナの聖闘士になったのではないのだと。その上で 彼等があなたを受け入れてくれたのであれば、あなたと彼等は真の仲間同士になれていたでしょう。でも、あなたは それをしなかったのよね?」
「僕は……」

瞬は、確かに、それをしなかった――真実を仲間たちに告げなかった。
告白しておけばよかったと、今なら思う。
星矢や紫龍は、案外 瞬を責めずに、卑劣なやり方でアテナの聖闘士になった瞬を許してくれていたかもしれない。
『とにかく、おまえが生きててよかった』
『大事なことは、これから アテナの聖闘士として、おまえがどういう戦いをしていくかだろう』
そう言って。
兄は、アンドロメダ座の聖闘士の卑怯を情けなく思い、一生 許してはくれないかもしれないが、そうまでして生きて帰りたかった弟の気持ちを哀れむことはしてくれるだろう。

氷河は――氷河は、そんな“瞬”の卑劣をどう思うだろうか。
軽蔑するのか、無視するのか。
少なくとも好意を持ってはくれなかっただろう。
まして恋など――偽の聖闘士に 彼が恋をすることは決してない。
「氷河は……」

生気を失って その場に棒立ちになった瞬に、テティスが微笑を投げてくる。
“大人の言うことをきく いい子”に対するように、彼女は瞬の側に歩み寄り、その髪を撫でてきた。
そして、幼い子供を あやすような口調で、瞬の耳許に そっと囁く。
「大丈夫よ。私は秘密を守るわ。彼は あなたをいつまでも大切な仲間だと信じ続ける。あなたが口をすべらせるようなことをしなければ、彼は あなたのことを忘れたりしない。あなたは ただ、黙っていればいいの。何もしなければいいのよ」

「何もしない……?」
「ええ。私は、『仲間たちを裏切れ』なんて、ひどいことは言わないわ。『仲間たちを倒せ』ともね」
「で……でも、そうしたら、アテナが……地上が……」
「アテナ? 地上? それが何なの。アテナなんかいない方が せいせいするわよ。醜悪な人間たちが闊歩する地上世界なんて滅びても構わないじゃない。あなたの恋人が、あなたを愛してくれているのなら、世界なんて どうなったって構うことはないわ!」

苛立ち激しているようなテティスの訴えに驚き、瞬は大きく その目を見開いたのである。
「テティス……」
瞬がテティスに アンドロメダ島の海辺で出会った時、彼女は人魚の姿をしていた。
その姿を見た時、彼女は人魚姫のような恋をしているのだろうかと思ったことを、瞬は憶えていた。
だが、そうではなかったらしい。
愛する王子の幸福のために自分の恋を諦めて、海の泡となった人魚姫。
テティスの恋は そんな 儚い、そんな健気なものではないらしい。
世界の何もかもすべてより、恋した人が大切、恋した人に愛されていることが大切。
テティスは、そういう恋をしているようだった。

もちろん、人が(人魚が?)どういう恋をしようと、それは その人の自由である。
テティスのような恋をする人は、テティスの他にも多くいるのかもしれない。
むしろ、世界には、そういう恋をする人の方が多いのかもしれなかった。
だが、氷河はそうではない。
氷河は、瞬がアテナの聖闘士だから好きになったのだと言っていた。
それは つまり、瞬が地上の平和を守るために戦う聖闘士だから―― 共に戦っていける聖闘士だから、瞬を恋するようになったということだろう。
氷河は、テティスのように、自分の恋さえ成れば 世界がどうなってもいいとは思っていない。
おそらく、氷河はテティスよりも欲張りなのだ。
恋だけでなく――恋も 地上の平和も欲しい。
それが、氷河の恋の仕方なのに違いない。
そして、瞬は――瞬にも、テティスのような恋はできなかった。

「テティス。あなたには心から感謝しています。あなたのおかげで、僕は聖闘士になれた。でも、その経緯はどうあれ、僕はアテナの聖闘士になりたいと望み、現にアテナの聖闘士になった。だから、地上の平和を守るために戦う。僕は、自分の恋が成れば それだけでいいとは思わない……!」
瞬は、激している つもりはなかった。少なくとも、テティスほどには。
アテナの聖闘士として戦うという決意をテティスに告げた声も、あまり抑揚のない、“穏やか”といっていいものだった。
にもかかわらず、瞬の小宇宙が、瞬自身にも信じられないほど激しく強く燃え上がる。
それは一瞬で、海皇ポセイドンが海底に作った世界の空全体を――つまりは海を――早朝の朝焼けの色に染めてしまった。

「な……なに? これがアンドロメダの小宇宙? 青銅聖闘士の小宇宙だというの……?」
青銅聖闘士の生む小宇宙としても、それは異常なほどの強大さを備えていたが、瞬が偽りの聖闘士だということを知っているテティスには なおさら、その小宇宙の大きさ強さが信じられなかったのかもしれない。
「ポセイドン様に従わぬ者は――」
瞬の小宇宙に圧倒され、だが それでも海皇ポセイドンの海闘士として 彼女は瞬を倒すために拳を放とうとした。
実際、放ったのかもしれない。
テティスの拳は、瞬に僅かなダメージを与えることもできなかったが。

「だ……だめ。私の力は、この小宇宙に呑み込まれるだけで……ああっ!」
瞬には 彼女を傷付ける意図はなかった。
ただ アテナの聖闘士として戦い続けることを、テティスに許し認めてもらいたいだけで。
だから瞬は、自身の小宇宙によってチェーンや拳を操ろうともしていなかったのである。
瞬は何もしていなかったのだが、その小宇宙に圧せられるように、テティスの身体は その場に崩れ落ちた――崩れ落ちそうになった。
テティスが その場に倒れてしまわなかったのは、瞬の小宇宙に抗する力を持った者が、倒れ伏す寸前のテティスの身体を抱きとめたからで――その途端、もはや その身にどんな力も残っていないように見えていたテティスの身体は 再び力を持ち始めた。






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