完全に失われかけていた力を、再びテティスの中に甦らせたのは、ほとんど瞬の小宇宙に屈してしまっていたテティスを抱きとめた人間ではなく、テティスの意思の力のようだった。
「ジュリア――ポセイドン様」
彼女が仕える主君、海皇ポセイドン。
彼の目に 無様な姿は さらせないという思いが、テティスに力を生ませたのだろうか。
テティスは、ふらつきながらも 一度 自分の足で その場に立ち上がり、そうしてから、ポセイドンの前に跪いた。

「この小宇宙は何だ。人間のものにしては強大な……ほんの数秒ではあったが、この小宇宙はメインブレドウィナでアテナの上に注がれている水を止めたぞ」
「は。ですが、ポセイドン様のお力には及びません。この者は、ポセイドン様の お情けで聖闘士になったような者。ポセイドン様に跪くために生きている者です」
「では、私に逆らうのはやめよ。この小宇宙は鬱陶しい」
「ポセイドン様に従うよう、説得していたところだったのですが――」
「刃向かってきたというのか」
「申し訳ございません。私の力が足りず。ですが、この者は 必ずポセイドン様に従わせますので――」
アンドロメダ座の聖闘士の姿を その視界に映し、ポセイドンが 不愉快そうに 僅かに片眉を歪める。
ポセイドンが一瞬 垣間見せた その不快が、恐ろしかったのか、つらかったのか、悲しかったのか――テティスは、切なげな目でポセイドンの顔を見上げ、自分の告げた言葉を実行するために、再び その場に立ち上がった。

だが、ポセイドンは、そんなテティスの様子が見えていないかのように――懸命に その場に立ち上がったテティスを無視して――手にしていた三叉の鉾を上方に 振りかざした。
「たかが人間の分際で」
憎々しげな呟きと共に、ポセイドンの小宇宙が瞬に襲いかかってくる。
その力は強大至極。
“人間にしては強大”な瞬の小宇宙は、神であるポセイドンには、不快ではあっても脅威と呼べるほどのものではなかったのだろう。
海皇ポセイドンの小宇宙は、苦もなく瞬の身体を宙に舞い上げ、そして大地に――海底に――叩きつけた。

「うわあっ!」
瞬が、ポセイドンの力に抗う術もなく翻弄されることになったのは、もちろんポセイドンの小宇宙が強大なものだったからではあったが、その時 瞬の小宇宙が力を減じていたからでもあった。
瞬の小宇宙は 弱まっていた。
あることに気付いてしまったせいで。

世界の何もかもすべてより、恋した人が大切――恋した人に愛されていることが大切。
そんなテティスの恋の相手が誰なのかということに、瞬は気付いてしまったのだ。
テティスが恋している その人が、ポセイドンなのか ジュリアン・ソロなのか、そこまでは瞬にも わからなかったが。
突然 その場に現れたポセイドンに 身体を抱きとめられた時、自分がポセイドンの期待に添えない人間であることを自覚させられた時、ポセイドンに無視された時――ポセイドンの一挙一動に 輝き、燃え、打ち沈むテティスの瞳。
それは、傍で見ているだけの瞬の胸が あまりの切なさに苦しくなるほどで――瞬は、暫時、テティスの恋している人が アテナと地上世界を滅ぼそうとしている邪神だということを 忘れてしまったのである。

同時に、瞬は気付いた。
恋した王子の幸せのために、自らの恋を諦め、その身を引いた人魚姫。
彼女の恋が 優しく穏やかなものであったはずがないこと――優しく穏やかなだけのものであったはずがないということに。
テティスの恋は、やはり人魚姫のそれに似ているのだ。
愛する人の望みを叶えたいと――テティスは、そのためになら どんなことでもする覚悟でいる。
その切ない決意に、瞬は胸を打たれ――しかし、すぐに瞬は そんな自分に活を入れた。

アンドロメダ座の聖闘士は、海闘士テティスとポセイドンの力でアテナの聖闘士になったのかもしれない。
ならば、アンドロメダ座の聖闘士が彼等に逆らうことは、道に外れたことなのかもしれない。
だが、神によって創造された人間が、神とは異なるものとして 世界に存在するようになった瞬間から自分の意思を持つように、親によって生み出された命が、親とは違う心を持って自分の生を生き始めるように――人には自分の意思で自分の生を生きる権利があるのだ。
瞬は、アテナの聖闘士として生きることを決めた――アテナの聖闘士として戦うことを決意した。
自分の決意に従って、瞬はポセイドンを倒さなければならなかった。
倒すことは無理でも――ここで敵わないまでも戦って、少しでもポセイドンの力を殺ぐことができたなら、仲間たちが自分の意思を継ぎ、必ず アテナと地上を守ってくれるに違いない――。

「あくまで 刃向うか」
立ち上がり、再び その小宇宙を燃やし始めた瞬に、ポセイドンの容赦ない力が襲いかかってくる。
さすがはアテナと並ぶオリュンポス12神の1柱、ポセイドンの生む小宇宙の力は強大だった。
アンドロメダ聖衣のチェーンなど、彼にダメージを与えるどころか、ジュリアン・ソロの身体に触れることさえできない。
逆に瞬の身体は、ポセイドンの小宇宙に翻弄されたチェーンごと、巨大な造礁サンゴに叩きつけられた。

「とどめだ」
この海底の世界に君臨しているジュリアン・ソロは、海皇ポセイドンの魂を宿すまでは 普通の人間だったはずである。
小宇宙を生む術も知らず、他者と命のやりとりをするような戦いをすら知らない、もしかしたら 人を思い遣る優しい心を持った、ごく普通の人間だったのかもしれない。
きっとそうだったに違いないと、瞬は思ったのである。
無慈悲なまでに強大な力を持っているだけの存在に、人は、恐れを抱くことはあっても、愛情を抱くことはできない――恋することはできない。
テティスが恋した人は、ポセイドンの魂に出会うまでは きっと優しい人間だったのだ。
その優しかった人が、今は僅かな ためらいもなく、冷たい目をして、一つの命を消し去ろうとしている。

恋ゆえに、テティスは、彼の冷たい目をも許し、愛しく思わずにはいられないのだろうか――。
アテナの聖闘士の命を奪おうとするポセイドンの拳が 自分に向かって放たれた瞬間に、瞬は なぜか そんなことを考えていた。
時間の進む時間が異様に遅く感じられる。
死の直前の一瞬間に、人は その脳裏に 自分の人生のすべての出来事を走馬灯のように思い描くというが、これは その現象なのだろうか。
だから、自分は これほど 時間の流れをゆっくりと感じているのだろうか。
だとしたら、自分は まもなく死ぬのだ――。
そう思い、
(ごめん、みんな……。僕は何もできなかった……)
瞬が、自身の無力を 心の中で仲間たちに詫びた、まさに その瞬間。






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