ふいに、瞬の時間の流れは、本来の速さを取り戻したのである。
どうして、そこに彼がいるのか――。
瞬は、まだ生きていた。
いつのまにか そこにやってきていた氷河が、我が身を盾にして、ポセイドンの拳から瞬を庇ってくれたから。
「氷河……」
たった今、ここで、いったい何が起こったのかを すぐには理解できず、呆然として、瞬は自分の代わりに 地に倒れている仲間の名を呟いたのである。
時を置かず、我にかえり、氷河の側に駆け寄って、その上体を抱き起す。
「氷河! 氷河、どうしてっ !? 」
地上に降り注ぐはずの雨を その身に受け 地上を守っているアテナの命を救うため、7つの海の柱を倒すべく、それぞれの目的地に向かったアテナの聖闘士たち。
にもかかわらず、氷河は なぜここにいるのか。
瞬が半ば叫んでいるような声で問うと、氷河は少し つらそうな声で、その訳を瞬に教えてくれた。
「おまえの小宇宙が――恐ろしく強大なのに悲鳴のようで、俺を呼んでいるように感じたんだ」
「氷河……」

そうだったのだろうか。
自分は仲間を――氷河を呼んでいたのだろうか。
だとしたら、何のために?
アテナの聖闘士として戦う決意を仲間に知ってもらいたかったのか、アテナの聖闘士になるために 自身が犯してしまった卑劣を許してもらいたかったのか。
自分の恋が成れば 世界のすべてがどうなっても構わないというテティスの恋を許せないという気持ちに 誰かに賛同してもらいたかったのか、自分の恋の仕方はテティスのそれとは違うのだということを 誰かに――氷河に訴えたかったのか。
自分のことだというのに、瞬には わからなかった。
なぜ自分が仲間を――氷河を呼んだのかは。

自分自身に訝り、戸惑っている瞬の瞳を見詰め、氷河が尋ねてくる。
「おまえは無事か」
「うん……」
「なら、よかった」
ポセイドンの直撃を受けた氷河の方が、ポセイドンの攻撃を免れた瞬の身を案じ、立ち上がり、なおも瞬を庇おうとして、瞬の前に立ち ポセイドンに対峙する。
(え……?)
いったい氷河は何をしているのか。
瞬には、それがわからなかったのである。

ここに二人のアテナの聖闘士がいる。
一方は、強大な敵の力を まともに その身に受け、立っているのがやっとの状態。
もう一方は、仲間に庇ってもらったおかげで、さほどダメージを負ってはいない。
どちらかがどちらかを庇うとしたら、よりダメージの少ない方が、より大きなダメージを受けた者を庇うのが 道理というものだろう。
だというのに、氷河は全く逆のことをしている。

いったいなぜ?
瞬は、氷河にではなく自分自身に問うた。
まもなく、『氷河は、彼が恋した人の命を守ろうとしているのだ』という答えが、瞬の許に返ってくる。
氷河の無茶の訳がわかった途端、瞬の身体は一瞬 硬く強張り――否、凍りついてしまったのである。
氷河にこんなことをさせてはならない。
偽の聖闘士のために、彼が傷付くようなことがあってはならないのだ。
「やめて、氷河!」
『やめて』と氷河の背に向かって叫んでから、自分は むしろポセイドンに対して その言葉を告げるべきだったのかもしれないと、瞬は思ったのである。

冷たい目をしたポセイドンは、その攻撃の標的を、アンドロメダ座の聖闘士から白鳥座の聖闘士へと移したらしい。
彼は、アンドロメダ座の聖闘士を倒すことを邪魔してきた男に向かって、拳を放とうとしていた。ポセイドンが何をしようとしているのかは わかっているのだろうに、それでも氷河は その場から動こうとしない――瞬を庇うことをやめようとしない。
どうすれば、氷河に この無謀をやめさせることができるのか。
彼が庇い守ろうとしている恋人が、その価値のない人間だということを、どうすれば 氷河に知らせることができるのか。
冷たい目をしたポセイドンの傍らに立つテティスの姿が、瞬に その方法を気付かせてくれた。
気付いた途端、瞬時のためらいもなく、瞬は氷河に向かって叫んでいた。

「氷河、聞いて! 僕は――僕は、自分の力じゃなく、人魚の魔法の力で――ポセイドンの力で、聖闘士になったの! 僕は、ポセイドンに命を奪われても仕方のない聖闘士なんだよ! 僕には、氷河が 自分の命を盾にして庇う価値なんかないんだ!」
氷河がアンドロメダ座の聖闘士のことを忘れてしまえばいいのだ。
彼が庇い守ろうとしている人間が 偽の聖闘士だということを氷河に知らせ、彼に 彼の恋した人のことを忘れさせれば、彼は偽の聖闘士を庇おうとすることをやめるはず。
氷河に生きていてもらいたい。
その一心で、瞬は叫んだのである。
だというのに――。
「おまえは 何を言っているんだ。瞬」
だというのに、氷河は瞬を忘れてはくれなかった。

テティスとの約束は、実現するまでに 幾許かの時間がかかるものなのだろうか。
ならば、その時間を稼がなければならない。
ポセイドンが次の攻撃を繰り出す前に、氷河に偽の聖闘士のことを忘れてもらわなければならない。
瞬は焦った。
そして、瞬は必死だった。
「僕は ひ弱で、人と争うことができなくて、僕は自分の力では とても聖闘士にはなれそうになかった。死にたくなくて、兄さんとの約束を守りたくて、だから、僕はテティスと取引きをしたんだ」
「なぜ、こんな時に――今、それを言う」
ポセイドンが、次の攻撃を繰り出さないのは、彼が氷河と同じ疑念を抱いたからのようだった。
テティスは、彼女と“瞬”の約束を、ポセイドンに知らせていなかったらしい。
アンドロメダ座の聖闘士が 人魚の力で聖闘士になったことが 余人の知るところとなった時、アンドロメダ座の聖闘士の恋人は その恋人のことを忘れてしまう――という約束事を。

「こんな時だから! 氷河に僕を忘れてもらうために! テティスは、僕に言った。僕の卑劣が誰かに知れたら、僕が恋した人は僕を忘れるって!」
「なに……?」
こんな時だというのに――強大な力を持った敵が すぐそこにいて、自身の命が窮地に置かれているというのに、そして 瞬の焦慮にもかかわらず、氷河の反応は鈍かった。
瞬の言葉が咄嗟に理解できなかったのか、それとも信じられなかったのか、必死の形相の瞬を、氷河が 不思議そうな目をして見詰めてくる。
氷河の その様子は、瞬には悠長に感じられるほど ゆったりしたもので、それゆえ 一層、瞬の焦りは募ったのである。

「氷河、僕を庇ったりしないで! 僕には そんな価値はない。僕を忘れて!」
「忘れろと言われても――」
忘れるという行為は、『忘れろ』と命じられたからといって成し遂げられるものではない。
氷河の目は そう言っていた。
それは そうである。
通常の、尋常の、正常な世界でなら。
魔法の力を持った人魚が、アテナの聖闘士になる力を持たない人間を アテナの聖闘士にできるような 不思議な世界の外でなら。
氷河の疑念は 自然で当然のものだった。
しかし、ここは 不思議な世界の内ではなかったのか――。
瞬は、ポセイドンの傍らに立つテティスに訴えた。

「テティス、僕は氷河が好きだよ! お願い、氷河に僕を忘れさせて!」
なぜ 人魚の魔法は発動しないのか。
なぜ氷河は 熱を帯びた目で 偽の聖闘士を見詰めたままなのか。
テティスに向けられた瞬の視線は、約束を守ってくれない人を責める人間の それになっていた。
瞬の視線の先で、テティスが顔を強張らせている。
彼女は、母親に いたずらを咎められ、今にも泣き出しそうな子供のような目で、瞬を、そしてポセイドンを、その視界に映していた。
その時。
まるで それ以上 テティスを追い詰めるなと囁くかのように、アテナの声――歌声が、海の底の都に響き渡ったのである。

女神アテナの、それは歌声だったのだろうか。
祈りのような歌。
歌のような祈り。
アテナの声に、最初に反応を示したのは海皇ポセイドンだった。
「アテナ……あくまで 私に逆らうか……!」
彼には、卑小な人間の恋の成り行きより、アテナの祈りの方が――アテナが どこまでも自分の邪魔をしようとすることの方が、はるかに重大で 捨て置けないことだったらしい。
忌々しげに唇を歪め――次の瞬間には、ポセイドンの姿は その場から消えていた。
たった今までポセイドンの姿があった場所を、テティスが切なげに見詰めている。

テティスの恋する人は、海皇ポセイドンなのか、それとも ジュリアン・ソロなのか。
いずれにしても、その人には テティスより気にかかる人がいるのだ。
テティスを見やる瞬の瞳は、我知らず哀れみの光を帯びたものになってしまっていたのかもしれない。
一度 瞬を きつく睨み、そして唇を噛んで――やがて ポセイドンのあとを追うように、テティスの姿は その場から消えていってしまった。






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