「ないって、何がだよ!」
まさか瞬が本当にシャカに心を盗まれたわけではあるまい。
いかに人間の五感を剥奪する能力を有する黄金聖闘士といえど、そんなものをどうやって盗むというのか。
シャカの言葉より、むしろ瞬の慌て振りに、今度は星矢の方が きょとんとすることになったのである。
「これか?」
頬から血の気が失せてしまった瞬の前に、シャカが右手を差し出し、その手を広げる。
「か……返してくださいっ!」
瞬は、シャカの手の上にあるものに、それこそ 跳びかからんばかりの勢いで両手をのばしていった。
が、その手が目的のものを掴む前に、シャカは自分の手を拳に変え、まるで瞬をからかうように、その腕を上方に振り上げた。

「これは私に“最も優れた黄金聖闘士”の称号を与えるもの。その称号と引き換えになら、返してやらないこともな――おわぁっ!」
それまで余裕綽々の(てい)でいたシャカが、実に あっさり その両眼を開く。
彼の目を開かせたもの。
それは、もちろん、瞬の小宇宙だった。
「ぼ……僕を本気で怒らせると……」
シャカが瞬から盗んだものは、瞬にとって相当大事なものだったのだろう。
瞬の小宇宙は既に8割以上 本気モードに入っている。
シャカは触れてはいけないものに触れた――彼は瞬の逆鱗に触れてしまったのだ。

「瞬! おい、いきなり生身の拳かよっ!」
星矢の声が聞こえているのか いないのか。
瞬の小宇宙は、教皇の間を、聖域全体を覆い尽くさんばかりの勢いで燃え上がっている。
こうなると、鉄壁の防御力を誇るネビュラチェーンの力をもってしても、瞬の拳の力から逃れることは不可能だろう。
攻撃一辺倒の黄金聖闘士たちの死は確実。
クリスタル・ウォールという防御技を持つ牡羊座アリエスのムウが、仲間たち(仲間なのだろうか?)より少々 最期の時が遅くなる程度だろう。

「ア……アンドロメダを止めろ! 十二宮を破壊されてはたまらん」
瞬を 生身の拳に直行させた張本人が、偉そうに瞬の仲間たちに命じてくる。
無駄と知りつつ防御態勢に入っていた星矢は、乙女座の黄金聖闘士を怒鳴りつけた。
「止めろって、瞬をこんなにしたのは あんただろ! シャカ! あんた、瞬から何を盗ったんだよ!」
「その確認は あとでいい。瞬の小宇宙が爆発する前に、盗んだものを瞬に返すんだ!」
「なに? おお、そうか!」

実に適切な紫龍の指示に、シャカが光速で従う。
瞬から奪ったものを シャカが瞬の胸許目指して投じ、瞬がそれを両手で受けとめた その瞬間。
呆れるほど あっさり、そして瞬時に、瞬の小宇宙は借りてきた猫のように大人しく可愛らしいものに変化した。
九死に一生を得た形になった黄金聖闘士と青銅聖闘士たちが、瞬の小宇宙の猫化に かなり遅れて、それぞれに安堵の息を洩らす。
そんな彼等の様子など目に入っていないように、瞬は自分の手の中に戻ってきた 自分の心を両手で 大事そうにしっかりと握りしめていた。

「間一髪セーフ……」
自分たちが どれほど危険な人物をストーキングしていたのかを、今になってやっと自覚したらしい黄金聖闘士は、恐がって瞬の側に近寄ろうともしない。
瞬に ここまで我を忘れさせた“瞬の心”が何だったのかを確かめるのは、必然的に青銅聖闘士たちの仕事になった。
瞬の仲間たち(仲間だろう)が、シャカから瞬が取り戻した物の正体を見極めるべく、瞬の側に歩み寄る。
瞬の前で いったん真一文字に唇を引き結んでから、星矢は 瞬に その正体を尋ねていった。
「ったく、おまえ、黄金のおっさんたちはともかく、俺たちまで殺す気だったのかよ! 俺たちは、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間だろ。それは いったい何なんだ?」
「あ……」
そういう訊き方をされて、瞬も 自分の心の正体を隠しておけなくなったらしい。
大事そうに握りしめていた彼の心を、瞬は仲間たちの前に指し示した。

『 Yours Ever 』の文字が刻まれた、金色のペンダント。
それは、冥府の王が瞬を呪縛するために用いた、あのペンダントだった。
「これが おまえの心? これって、沙織さんに処分してもらったんじゃなかったのかよ?」
「ん……。そのつもりだったんだけど、沙織さんが、これを身につけていれば 他の大抵の神が手出しできなくなるから、捨てずに身につけておきなさいって」
「“毒をもって毒を制す”の正しい使い方だな」
それでも、普通なら処分するだろう。
さすがは知恵と戦いの女神アテナ。“使える者は敵でも使え”。アテナの徹底して合理的な姿勢に感心し、紫龍は低い呻き声を洩らした。

「でもね、ハーデスのペンダントなんて不吉で嫌だから、僕、『 Yours 』の『 you 』を別の人にする細工をしたんだよ。ペンダントの裏に 写真を焼き付け印刷して」
「写真? 一輝の写真でも印刷したのかよ? ……って、そうじゃなさそうだな」
星矢たちの目の前で くるくる回っているペンダントヘッドの裏に印刷されているのは、人間の写真ではなかった。
白と緑――それは植物の写真だった。
これがなぜ『 you 』を別の人にする細工になるのか。
首をかしげた星矢に、『 you 』の正体を教えてくれたのは、一度は そのペンダントを己が手にしていた某乙女座の黄金聖闘士だった。

「一輝の写真なら、私も、アンドロメダの心を盗めたとは考えない。相変わらずのブラコンと思うだけだ。そうではなく――それは、花の写真だ。初雪草の写真」
「花の写真? それが何で、瞬の心ってことになるんだよ」
「初雪草には色々な品種がある。そのペンダントに印刷されているのは『氷河』という品種の花なんだ」
「へっ…… !? 」






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