「俺はむしろ、君のように美しい人間を見たことがないぞ。この工房に来て、最初に君を見た時、天使がいるかと思った。神を買収して 天使をモデルに雇えるほど、フィレンツェには金が余っているのかと 畏れ入った」 「そ……そんなこと、冗談でも言っちゃ駄目です。神の怒りを買ってしまいます」 そうだろうか。 そう言いたくなる俺の気持ちは、神もわかってくれると思うぞ。 もっとも、俺は、天使の上司である神の方には面識がないから、そうと断言することはできないが。 それはさておき。 この天使は どうやら敬虔な神の僕らしい。 神を畏れ、清貧・貞潔・従順の誓願を守り、ゆえに当然、うぬぼれや思い上がりといった悪徳にも縁がなく謙虚。 古代ギリシャやローマの文化が見直され、人間の力と可能性を信じ謳歌しようという運動が盛り上がっている この時代に、時流に逆らった存在といっていい。 無論、それは悪いことじゃない。 だが、今 この場に限っては 困った事態だ。 謙虚な天使は、おかげで、俺の褒め言葉を褒め言葉と認識してくれない。 俺ほど綺麗な男に『美しい』と言われたら、大抵の女は有頂天になるのに、この子は全く その気配を見せない。 この子が、心から俺をアポロンも妬むほど綺麗な男だと思っているのかどうか、実に怪しいもんだ。 この天使は、俺を 生身の人間じゃなく、絵のモデルとしてしか見ていないんじゃないだろうか。 だとしたら、がっかりだな。 いや、しかし、希望は捨てないぞ。 俺は諦めの悪い男なんだ。 「君は、ヴェロッキオ師の弟子の一人なのか?」 「え……」 そんな おかしなことを訊いたつもりはなかったんだが、天使は一瞬 答えをためらった。 短く 苦く笑ってから、首を横に振る。 「残念ながら、僕には画才はないみたいです。僕はここで、モデルや雑用をしているの」 「フィレンツェの工房には、専任のモデルがいるのか。贅沢な話だ。だが、まあ、確かに君は 天使を描くには最高のモデルだな。君は特別製の瞳を持っている。奇跡のように澄んでいて綺麗だ。とても尋常の人間のそれとは思えない。君が地上に下りることを、なぜ神が許したのか、俺には解しかねる」 「あ……あの……」 俺は事実を口にしただけだったのに――少なくとも 自分が見て感じたことを正直に告げただけだったのに、いつのまにか 俺を見る天使の眼差しは、不審人物を見る者のそれに変わっていた。 これくらい綺麗な子なら、この程度の讃辞は言われ慣れているだろうから、これは やはり、今日 初めて出会ったばかりの男を警戒している――ということなんだろうか。 ともかく、天使は あまり自分のことに言及されたくないらしく――おそらくは俺の詮索から逃れるために、話題を俺の要件の方に戻してきた。 「あなたの肖像を描くのでないなら、あなたは 誰の肖像を描かせるために、画家を雇おうとしていらっしゃるの? あなたの奥様? それとも恋人ですか」 ああ、やはり この子は自分に向けられる賛美の言葉を聞き慣れているんだ。 その賛美の言葉のあとには、誘惑の言葉がくることを、身をもって知っている。 だから、そうなる前に 俺に釘を刺してきたんだろう。 もっとも、その釘は、俺にとっては好都合なものだったが。 おかげで俺は、自分に妻や恋人がいないことを 天使に知らせることができる。 「俺には そんなものはいない。そもそも 画家を雇おうとしているのは俺じゃない。俺の主君、ロシアの皇帝イヴァン3世だ」 「ロ……ロシアのツァーリが?」 「ああ。俺は、ツァーリのための肖像画家を雇うために来た 使い走りにすぎない」 俺の言葉を聞いた天使が その瞳を大きく見開いたのは、何を意外と思ったからだったろう。 俺に妻も恋人もいないことか、それとも、辺境の野蛮人の国の皇帝が 肖像画家なんて洒落たものを雇おうとしていることの方か。 まあ、十中八九、後者だろうな。 「ツァーリは先頃、ビザンツ皇帝コンスタンティノス11世の姪に当たるソフィヤ・フォミーニチナ・パレオロークと再婚した。新皇后ソフィヤは、ギリシャ人とはいえ、亡命地ローマで育った女で――これが 困ったことに、とんでもない我儘女なんだ。しかも見栄っ張りの贅沢好き。イタリア風の宮殿を建てたいだの、イタリアの画家に肖像画を描かせたいだのと、毎日のように皇帝を せっつき続けてた。多分、今も せっついているだろう。皇后自身は、洗練されたイタリアの文化を 文化的辺境であるロシアにもたらすのは良いことだと信じきっているから、自重しようとしないし、諦めようともしない」 「あ……それは……」 「宮殿の建築は、いくらせっつかれても『はい、さいで』とはいかないからな。ツァーリは、とりあえず イタリアから腕のいい肖像画家をロシアに連れてきて 肖像画でも描かせておけば、皇后も しばらくは静かになるだろうと考えた。そこで、俺に、イタリアから優れた肖像画家を調達して ロシアに連れて来いという命令が下ったんだ」 「じゃあ、肖像画家を雇いたいというのは――ロシアまで連れて行って、そこで肖像画を描かせるということなの !? 」 驚き呆れたような声で そう言った天使は、首肯する俺に 気の毒そうな視線を向けてきた。 俺には ツァーリの命令を遂行できない。 天使は そう思ったんだろう。 本音を言えば、実は俺もそう思っている。 世界の文化の中心地から、やっと国の形を成してきたばかりの北の辺境の地に、いったい 誰が行きたがるものか。 どれだけ金を積まれても、どれだけ広い領地を与えると言われても、まず行く気にはならないだろう。 それなりの腕を持つ職人なら なおさら、このフィレンツェでこそ名を上げたいと思うはずだ。 それでなくても、ロシアは遠すぎる。 ロシアまで行ってやってもいいと考える酔狂な画家が、もし いたとしても、その画家が2000キロの長旅を無事に終えられるかどうかすらわからないんだ。 そんな無謀に挑戦する馬鹿はいない。 誰だって、命は惜しいだろう。 主君から無謀な命令を下された 哀れな使い走りの俺に、天使は 心から同情してくれたらしい。 そして、その同情の気持ちは、天使の中にあった俺への警戒心を消し去ることになったらしい。 『あなたは、絶対に その命令を遂行できない』と はっきり言うのは忍びなかったのか、天使は その薔薇色の唇を引き結んで、ただただ優しく慈しむような眼差しで、俺を見詰めるばかりだった。 |