このフィレンツェで最も大きな工房の主、画家にして彫刻家、建築家にして鋳造家、そして 優れた教師であるアンドレア・デル・ヴェロッキオが 彼の工房に戻ってきたのは、そんな時だった。
多種多様な作品が ごちゃごちゃ置かれている作業場に、俺が天使と二人きりでいるのを見て、稀代の良師は、一瞬 眉をひそめた。
俺は一応 裕福な貴族の恰好をしていたし――庶民の恰好はしていなかったし――人相も そう悪くはないつもりなんだが、ヴェロッキオは、露骨に怪しい者を見るような目を俺に向けてきた。
少なくとも、上機嫌で 俺を歓迎しているようには見えなかった。

俺が 用向きを伝えると、ヴェロッキオの 不審人物を見る目が馬鹿者を見る目に変わる。
同情心に満ち満ちた心優しい天使とは違って、稀代の良師ヴェロッキオは、
「ロシアは遠すぎる。どれほどの報酬を約束されても、あんな辺境の地に行きたがる者がいるとは思えん」
と、はっきり言ってきた。
まあ、この場合は、それも優しさだな。
「だが、腕のいい肖像画家を連れて帰らないと、俺の首が飛ぶ。それ以前に、腕のいい肖像画家と一緒でないと、俺は故国に帰れない」
「ならば、いっそ 帰国を諦めてしまえばいい。貴殿は、若く健康、頑健そうな身体を持っている。その上、美貌で 金もありそうだ。この町は――ロレンツォ様は 貴殿のような男を喜んで迎え入れるだろう。何か芸はないのか。絵画、彫塑でなくても、古典に精通しているとか、ギリシャ語やアラビア語ができるとか」

『ロレンツォ様』というのは、メディチ家の当主のことか。
豪華王ロレンツォ・デ・メディチ。共和国フィレンツェの実質的支配者。
ロレンツォは、欧州一とも言われる財力を背景に、多くの学者や芸術家のパトロンを気取っているそうだが、多分 俺は関わり合いにならない方がいい相手だ。
ギリシャ語は母国語並みに操れるが、それでプラトンやアリストテレスの翻訳作業なんかさせられては敵わない。
俺は頭脳労働より肉体労働の男だ。

「あいにく俺は、この顔の他に 取りえらしい取りえはない。俺が もし、この工房にいる職人の誰かを口説き落とすことができたら、師は その者にロシアに行く許しを与えてくれるか」
「当人が生きたいというのなら、無理に引き止めはせぬが……」
ヴェロッキオは、相変わらず 馬鹿者を見る目で俺を見ている。
俺は、その視線に気付いていない振りをして、彼に頷いてみせた。
「では、俺は どうにかして この工房の画家の誰かを口説き落とそう。辺境の後進国でも故国は捨てられない」
「好きになさるがよい」

俺の努力は必ず徒労に終わる。
そう信じている顔で、だが、ヴェロッキオは 俺の仕事を邪魔するつもりはないと伝えてきた。
それほど俺の望みは実現不可能なものなんだろうか。
俺が故国を愛しているのは 紛う方なき事実だったから――ヴェロッキオの態度に、俺は少なからず傷付いた。
野蛮人の住む辺境の地。文化的超後進国。
俺の故国は、イタリア人たちに そう思われているわけだ。
この俺も――野蛮人とまではいかなくても田舎者とは思われているんだろうな。
だが、誰にどう思われようと、とにかく この工房に出入りする許可を得られたのは幸いだった。
それは、この工房にいる天使に、いつでも自由に会いに来れるということだから。

ヴェロッキオの工房を辞去する際、俺は、見送りに出てくれた天使に名を訊いた。
天使の名前はシュン。
シュンは、『ヒョウガ』という俺の名を聞いて、最初、イタリア語の『ウーゴ』(“賢明”という意味だ)と聞き間違えたようだった。
『ヒョウガ』だと訂正したら、シュンは、どこか不思議な響きのする名だと、優しい目をして言ってくれた。






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