翌日から 俺は ヴェロッキオの工房に日参し、画家たちの仕事振りを見学観察する振りをして、その実 時間のほとんどをシュンの見学と観察に費やしていた。 肖像画家を調達することなんかより、目の保養の方が大事。 シュンは、まさに眼福だった。 芸術なんてものに全く興味がなく、当然 知識もない俺に、シュンはいろいろなことを教えてくれたしな。 もしかしたら 俺がシュンに教えてもらった事柄は、町全体が芸術品のような このフィレンツェでは 子供でも知っているようなことだったかもしれないが、シュンは嫌な顔ひとつせず、常に親切で優しかった。 「そもそも俺は、肖像画なんてものを残して何になるのかがわからないんだ。画家の技量を見極められる自信もない。やはり、描く人物を実際より美化して描ける画家が 腕がいい画家だということになるのか?」 多分、俺は変なことを訊いたんだろう。 「美化?」 シュンは、不思議そうな目を俺に向けてきた。 「肖像画というのは、モデルを実物より綺麗に描いて、それを他国の王室に送り、縁談をまとめるのに使うものだろう。で、実際にやって来た花嫁は とんでもない不細工で、夫になる男は自分の人生に失望する。腕のいい肖像画家の仕事は 上手い嘘をつくことだと、俺は思っているんだが。ただ自邸に飾っておくだけの肖像画でも、画家は、それを見た者の気分がよくなる絵に仕上げなければならないだろう。絵に描かれた実際の人物が、側に入るだけで反吐が出るような嫌な奴だったとしても」 「肖像画家と その作品には、確かにそういう側面もあります」 俺の変な質問に、シュンは まず頷いた。 頷いて、肖像画家を嘘つきだと決めてかかっている俺の目を見詰めてくる。 「でも、少なくとも、このフィレンツェで、人物を ただ美化しただけの肖像画を描いたら、その画家は皆に笑われ、侮られ、無能無才のレッテルを貼られることになります。このフィレンツェでは、誰もが芸術の批評家なんです。貴族も、商人も、貧しい労働者でさえも。制作された作品は 多くの人々の目にさらされ、厳しく批評される。だからこそ、この町では優れた芸術品が数多く生まれることになったんです。嘘をついてばかりの画家は、芸術家としての評価が下がり、信用を失い、注文が入らなくなる。かといって、批判を恐れて作品を公開しなければ、その存在を市民に認知してもらえない。当然、仕事の注文も入らない。この町では、力のない画家は消えていくしかないんです」 シュンが俺に教えてくれたのは、この町で優れた芸術品が多く生まれることになった仕組みだった。 市民が皆、批評家の目を有していること。 作品の公開性。 力量のない芸術家の淘汰。 それらの要因は、物理的な距離や 身分という厳粛な壁によって情報が遮断されているロシアでは望むべくもない“自由”だった。 「画家の力量によりますけど、本当に素晴らしい肖像画家は、モデルの心や価値観や、時には その人の生活の内容まで絵の上に写し取りますよ。だから、肖像画に描かれた人物の姿が目に見える姿と違ってしまったとしても、それは必ずしも嘘だとは限らないんです」 では、つまり――それが嘘でできた美化なのか、モデルの内面を写し取ったがゆえの美化なのか、その違いを見極められるだけの眼力を持つ者でないと、誰が腕のいい肖像画家なのか、正しい判断を下すことはできないということか。 俺は、残念ながら、そんな眼力は持っていない。 だから、俺はシュンに訊いたんだ。 「おまえの目で見て、この工房の お薦め画家は誰だ」 と。 シュンは、少し考え込んでから、 「そうですね。この工房で 先生に次ぐ実力者というと、真っ先にサンドロさんの名を挙げるところなんですけど――」 と答えてきた。 「サンドロ?」 「サンドロ・ボッティチェリさん。先年 独立して自分の工房を持ってしまったので、今 この工房にはいないんですが、時々 大きな仕事が入った時には 先生の手伝いに来てくれるんです」 「自分の工房を持ってしまった親方では、ロシアまで来てはくれないだろうな」 「そうですね……。じゃあ、ピエトロ――ピエトロ・ペルジーノさん、ドメニコ・ギルランダイオさん」 「その画家たちは どんな絵を描くんだ」 「描きかけですけど、作品がありますよ」 シュンはそう言って、作業場内の 未完成の板絵が並べられている一画に、俺を案内してくれた。 その中にある 2枚の聖母子像を指し示す。 「右がペルジーノさん、左がギルランダイオさんの作品です。ペルジーノさんは、とても優美で上品な絵を描く人です。ちょっと感傷的で類型的な作品になるきらいはあるんですけど、ご本人の いかつい顔からは想像できないほど甘くて優しい絵を描くの。 ギルランダイオさんは、宗教画が得意で、その中に実在の人物や日常の生活を巧みに描き込むんです。厳粛さよりは世俗性が勝っているんですけど、ギルランダイオさんの絵の魅力は、まさに その世俗性。生きている人間の体温を感じさせるところなんです」 作業場 兼 展示場。 なるほど、絵の制作を依頼したい人間には 便利な場所だ。 実際の作品を見て、好みの画家を選ぶことができる。 しかも、天使の解説付きだ。 「俺の顔が いかついことと、俺の作品との間に どんな関係があるっていうんだ」 「世俗性のどこが悪い。天上の神聖は、地上の俗性 あればこそのものだ」 シュンの評価は、客観的で冷静で妥当なものだったんだろう。 シュンに推薦された二人の画家が、向きになって 横から口を挟んできたところを見ると。 言葉では文句の形を作っていたが、二人の画家の目は嬉しそうに笑っていた。 それも当然のこと。 シュンの批評は、欠点より美点を見るものだ。 絵を見詰めるシュンの目は優しい。 絵を見る視点そのものが優しいんだ。 手放しの称賛ではないのに、画家たちには 自分の作品が褒められているように感じられるんだろう。 「すみません。ペルジーノさん、ギルランダイオさん。でも、僕、先生に、依頼を考えているお客様には 嘘をついちゃ駄目だって言われているんです」 そう言って、シュンが 褒められて上機嫌の二人の画家の側から、俺の手を引いて退散する。 ペルジーノの絵より甘く、ギルランダイオの絵より温かいシュンの手。 工房の外に出ると、シュンは 少し真面目な顔になって、 「僕は、でも、今 この工房で いちばん魅力的な絵を描くのは、まだ20歳そこそこなんですけど、レオナルドさんだと思います」 と、俺に告げてきた。 「そのレオナルドとやらは、モデルの心まで写し取る技量を持っている男なのか」 「持っています」 優しい口調で、だが、シュンはきっぱりと言い切った。 シュンがそこまで言うなら、きっと そうなんだろう。 「本当に優れた画家が、もしモデルを実物より美しく描いたのなら、それは そのモデルの心の美しさをも描き出したために、作品の姿も自然に美しくなったんです。優しい人は 美しく見えるものでしょう? 人が人に抱く印象は、その人物の 人となりを知っているか否かで違ってくる。その人の どういう部分を見ているかでも違ってくる。同じ人の印象が、昨日と京都で違うこともある。モデルのどこを切り取って描くかは 画家の心次第。肖像画は、モデルの外見だけを写し取るものではなく、画家の心の目に映った一人の人間を描くものなんです」 心の目。 心の目ね。 だとしたら、シュンには、この世界に生きている人間のすべてが、この世界そのものも、素晴らしく美しく見えているんだろう。 シュンの目は、とても綺麗だから。 俺の心の目には そう映るから。 「では、俺の記憶の中の母が美しいのは、そのせいか」 俺が そんなことを口にしたのは、ここで『おまえの目は綺麗だ』なんてことを言い出したら、『僕は そんなことを言っているんじゃありません』と、シュンに叱られてしまいそうだったからだ。 シュンの丁寧で熱心な説明・教示は有難かったが、『ペルジーノもギルランダイオも 今ひとつ俺の好みじゃない』とは言いにくかったせいもある。 俺が母の印象に言及した途端、それでなくても優しげだったシュンの瞳に、同情と、そして憧憬のような色が浮かび、その眼差しは 一層優しく切なげなものになった。 「ヒョウガさんのお母様は ロシアでヒョウガさんの帰りを待っているんですか? ヒョウガさんのお母様なら、きっととても美しい方ですよね。早く 帰りたいでしょう」 「ヒョウガさんでなく、ヒョウガだ。俺の母は亡くなった」 「え……あ、ごめんなさい。僕……」 素直に、正直に、『おまえの目は綺麗だ』と言っておいた方がよかったか。 シュンが つらそうに眉根を寄せる様を見て、俺はそう思った。 俺の母のことなど、シュンには何の関わりもないことだ。 それでシュンの心を傷めるつもりはなかったのに。 「もう10年以上前のことだ。気にすることはない。俺自身、忘れていた」 「嘘ばっかり」 シュンが一瞬の逡巡も見せず、即座に言い切る。 嘘つきの子供の嘘を見透かす母親のように。 俺のマザコンは 知らぬ者とてない厳然たる事実だが、まさか その噂が この町まで届いているはずはないのに。 だが、シュンは その噂を知っているかのように――優しく 俺を たしなめてきた。 「駄目です。そんな、心にもないこと言っちゃ。僕は母の顔も父の顔も知らない孤児ですけど、それでも いつも両親を慕わしく思っています。ヒョウガさ……ヒョウガは、お母様を――生きている お母様を――きっと もっと愛したかったんでしょう。だから、忘れられない。記憶の中のお母様の姿は美しさを増していく――。無理に忘れることはないでしょう。それが亡くなった人でも……きっと、人が人を愛しすぎるということはない――」 「……」 シュンの その言葉に俺は少なからず、驚き――というか、軽い衝撃のようなものを覚えた。 俺のマザコン振りは有名で、周囲の人間は 俺が母のことに言及するたび、『いい加減に忘れろ』とか『いつまでも死んだ者のことを引きずるな』とか、そんなことばかりを俺に言った。 彼等が 俺のために そう言ってくれているのはわかっているんだ。 だが、彼等の親切心からの助言に、俺の心は反発するばかりで――こんなふうに言ってくれたのは、シュンが初めてだ。 ――シュンだけだ。 そう。 俺はもっともっとマーマを愛したかったんだ。 誰よりも俺を愛し慈しんでくれたひとに、せめて同じだけの愛を返したかったという未練が、俺にマーマを忘れさせない。 『それが亡くなった人でも……きっと、人が人を愛しすぎるということはない――』 マーマへの思いを許してくれるシュンの言葉が、俺には天から降ってくる神の言葉より美しく 価値あるものに思われた。 |