結局 その日はシュンとろくに話ができなかった。
またシュンに逃げられたらどうしよう――と、問題解決能力のない子供みたいな不安を胸に、翌日も俺はヴェロッキオの工房に赴いた。
自覚のない恋の告白の翌日、幸い 俺は 昨日のようにシュンに逃げられることはなかった。
というか、それ以前の問題。
その日、俺は、シュンの側に近付くことができなかったんだ。
俺とシュンの間に立ちふさがったもの。
それは、ヴェロッキオの工房にいる何十人という職人たちだった。
そいつらが 雲霞のようにシュンの周りに群がって、食い入るようにシュンを見詰め、シュンの姿を描いていた。

いったい何が起こったのかと、職人の一人を捕まえて尋ねたら、こうなったのは サン・サルヴィ修道院の依頼で制作されることになった『キリストの洗礼』の祭壇画のせいらしい。
『キリストの洗礼』――ヨルダン河で 洗礼者ヨハネから洗礼を受けるイエスの図。
もちろんイエスやヨハネはヴェロッキオが描くんだが、彼は、救世主の洗礼を見守る天使の一人を、工房の弟子たちの誰かに描かせると決めたらしい。
誰に描かせるかは、希望者に シュンを描いたドローイングを提出させ、それを見て決めると。
それで、工房で修行中のほとんど全員が 気負い込んでシュンの写生を始めたということのようだった。

サン・サルヴィ修道院の祭壇画、それもヴェロッキオ工房をあげての大作となれば、フィレンツェ市民の注目を集めること必至。
画家の名を売る絶好の機会だ。
それで、工房の職人たちは、紙と板と黒チョークを手にして シュンの周りに群がることになったわけだ。
正面から、左右それぞれから、上方から下方から――誰もが 天使を描いているとは思えないような血走った目をして、シュンの姿を描いている。

それは、実に興味深い状況だった。
ヴェロッキオに師事する者たちが皆、同じ道具で同じものを描いている。
俺は、それらの素描を一つ一つ見てまわり――おかげで、シュンが言っていた肖像画の意義と出来を実際に理解することができたんだ。
なるほど、歴然と力量の差が出るものだ。
姿形を的確に捉えられていない者は論外だが、どれほど外見が正確に描かれていても、職人たちの誰も シュンの本当の美しさを描き切れていない。
黒チョークだけでシュンの澄んだ瞳を紙に描き出すのは、確かに至難のわざなんだろうが――絵を見る目を持たない俺にもわかるほど、どれも駄目。
俺の心の目は、そう判断せざるを得なかった。

少々 気が抜けて――俺は画家たちの側を離れた。
そして、気付いたんだ。
工房の南の窓際で――シュンを中心にした人だかりから離れた場所で――静かに紙にチョークを走らせている一人の若い男がいることに。
光の中で、同僚たちと違って静かな目で――彼は チョークを動かす動作も 実にゆったりしたものだった。
顔はシュンの方に向けているが、ほとんどシュンを見てはいない。
この男もシュンを描いているんだろうかと訝りながら、俺は横から その男の作品を覗き込み――そして、息を呑んだ。

「美しい……」
絵心も 批評眼も持たず、語彙も貧弱な俺に、他に何が言えただろう。
彼が 静かな目で ゆったりと描いているものは、天使の絵で――シュンの姿で――紙に描かれた姿形は、多分 実物より美しかった。
黒チョーク1本。
黒チョーク1本で、彼は、シュンの澄んだ瞳も、シュンの優しさも、シュンの清らかさも、シュンの聡明も――すべてを描き切っていた。

「君は――名は……」
「レオナルド」
俺の誰何(すいか)に、短い答えが返ってくる。
ああ、この20になるかならずの男が、シュンの言っていたレオナルドか。
シュンの推薦は当然のこと、さすがにシュンの見る目は確かだ。
肖像画というものは――真に優れた人物画というものは、こういうものを言うんだ。
目に見える形ではなく、心が見るものを紙に描き出すもの――。

「美しい」
俺は、もう一度 その言葉を呟いた。
レオナルドが、浅く頷く。
「シュンは 優しくて清らかだから、天使のように描こうとしなくても、自然に美しくなる」
「人の内面を見る目と、それを描き切るだけの力量が、君にはあるというわけだ。シュンの言っていた通りだな」
「シュンが……?」
天使の称賛は、こんな天才にも嬉しく感じられるものなんだろうか。
それまで ほぼ無表情だったレオナルドの目と唇が 微笑の形を作る。

画家を羨ましいと思ったのは初めてだ。
いや、むしろ 妬ましい
シュンをこれほど美しく描けるのなら、俺だって画家になりたい。
昨日 シュンと気まずい別れ方をしたことを忘れ、俺は、モデルの仕事から解放されたシュンに そう言ったんだ。
レオナルドに なれるものならなりたいと、かなり興奮気味に。
突然 馬鹿なことを言いだした俺に戸惑っているようだったが、シュンは やがて その口許に 小さな苦笑を浮かべた。

「レオナルドさんは、絵だけでなく、いろんなことに好奇心旺盛なんです。化学、物理、植物、動物、そして もちろん人間――。彼は 世界中のすべての謎を解き明かしてやりたいって考えているみたい。熱心に お願いすれば、ロシアにだって行く気になってくれるかもしれませんよ」
「……来られても困る」
「え?」
つい本音が出て――俺は慌てて、その場をごまかした。
「いや、あれほど優れた描き手、ヴェロッキオ師が手放すまい」
「そうですね。多分、今度の『キリストの洗礼』の天使を描くのは レオナルドさんでしょう」
その意見には、俺も全面的に賛同する。
俺がシュンにそう告げた時。
「レオナルド? あの生意気な若造が 天使を描くだと? それは無理な話だな。奴に描けるのは人間だけだ。それも、現実には存在しない人間ばかり」
突然、妙に しゃがれた男の声が 作業場の入り口から響いてきた。
ヴェロッキオの工房では初めて聞く声、初めて見る顔だ。

「サンドロさん……」
シュンが その男の名を呼んだので、その しゃがれ声の持ち主が何者なのか、俺にもわかった。
この男が、ボッティチェリか。
確か、以前 この工房にいて、今は独立し 自分の工房を持つようになったと、シュンが言っていたな。
想像していたより若い。
まだ30にはなっていないだろう。

『だが、レオナルドは、確かに天使を描いていたぞ』と、俺は言おうとしたんだが、ボッティチェリは 俺に その言葉を言わせなかった。
その前に、ずかずかと俺とシュンの側にやってきて、真正面から俺の顔を睨み――いや、観察してきた。
「ふん。アポロンのモデルにしたいくらい見事な造作だな。シュンに異国の男がつきまとっていると聞いて、様子を見に来たんだが」
「……」
俺の嫌いな神の名を口にする その男が、もちろん俺は気に入らなかった。
野心 剥き出しで、変に尖っていて、攻撃的。
優れた芸術家というものは、レオナルドのように 静かで思慮深く(少なくとも表面上は)攻撃的でない人物のことをいうのだという考えができてしまっていた俺には、その作品を見る前から ボッティチェリの腕を大したことがないと決めつけてしまっていた。

その気に入らない男が、ひそりと 俺の耳に聞き捨てならない言葉を流し込んでくる。
「シュンには近付かない方がいい。親しくなりすぎると、メディチに睨まれるぞ」
「なに?」
それは いったいどういうことだ?
俺が尋ねる前に、ボッティチェリは作業場の奥の部屋に続く扉に向かって歩き出していた。
まるで、俺への忠告(それとも、脅しか?)を言わなかったことにしようとしているかのように。


そのことがあってから、俺はシュンだけでなく、シュンの周囲にも目を向けるようになったんだ。
そして、気付いた。
シュンが、いつも誰かに見られていることに。
そのこと自体は、これまでも 薄々感じ取れていたことで、俺は さほど不思議なこととは思っていなかった。
シュンは美しい。
人としても、画家としても、シュンに目が向くのは至って自然なことだ。
俺だって、シュンから目を離せない。
気がつくと、俺の目は シュンの姿を求め、追っている。

だが、もし彼等の目が、ただ美しいものに惹かれているだけのものではなかったとしたら。
シュンに出会って一ヶ月弱、俺は初めて、シュンはいったい何者なのかということに 考えを及ばせることになった。
天使のようなシュンは、いったい何者なのか。
俺が そのことを真剣に考えるようになったのは、シュンへの恋心を自覚した俺が、シュンを この町から連れ出したいと――俺と一緒に来てほしいと願うようになっていたからだったろう。
その頃には 俺は、俺に課せられた使命のことなど、綺麗さっぱり忘れ去っていた。






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