シュンは、俺がシュンに恋していることを知っている。 そして、シュンは、それでも俺との間に距離を置くことはなかった。 ボッティチェリの忠告を無視し、俺は毎日シュンの許に通いつめ、俺たちは親しさを増していた。好きだと言葉にして思いを伝えたことはなかったが、互いに無言で見詰め合っている時、俺とシュンの間には 言葉より熱く 優しく 切なく もどかしい思いが生まれ、二人を結びつけるようになっていたと思う。 だから、 「画家より連れ帰りたいものができた」 と告げた俺に、シュンが、 「どなた? 建築家? 彫刻家? それとも詩人か人文学者ですか」 と応じてきた時、俺は、シュンは恥ずかしがって わざとそんなことを訊き返してきたのだと思ったんだ。 だが、その時 俺は、1秒でも早くシュンを抱きしめる権利を手に入れたいという思いに強く囚われていて、シュンの羞恥に付き合っていられるだけの余裕はなかった。 俺は真顔で――いや、半分怒ったような顔で、シュンに答えた。 「建築家でも彫刻家でも詩人でも人文学者でもない。おまえだ。俺と一緒に来てくれ。俺は おまえと離れたくない」 俺は本当に――心の底から、俺に対するシュンの好意を確信していた。 まさかシュンの優しい唇から、 「それは無理です」 なんて冷たい答えが返ってくることがあるとは、思ってもいなかった。 「なぜだ !? おまえは身寄りもなく、この町で高名な画家になりたいという野心もないんだろう? おまえは俺を愛――嫌ってはいないと、俺は――すべては俺の うぬぼれだったというのか!」 我ながら、支離滅裂の極み。 長い婚約期間を経て、ついに正式な夫婦として結ばれることになった その日、婚約者に『やはり結婚はできない』と言われたことのある男なら、俺の混乱も理解できるだろう。 あとは初夜の務めを つつがなく果たすだけという段になって、花嫁に同衾を断られたことのある男でもいい。 なぜだと問うた俺に、シュンは乱れのない落ち着いた口調で、 「ヒョウガ。ヒョウガが、優れた肖像画家をロシアに連れ帰るために フィレンツェに来たというのは嘘でしょう」 と反問してきた。 「なに……」 シュンに そう問われ、俺は ぎくりと身体を強張らせた。 シュンの言う通り、俺がフィレンツェにやってきたのは肖像画家を調達するためではなかったし、俺にフィレンツェ行きを命じた人物もロシアのツァーリではなかったから。 問われたことに、俺が答えずにいると、シュンは俺に切なげな微笑を向けてきた。 まるで、俺の嘘を責めるつもりはないのだというかのように。 「まさかロシアのはずはないから――ヴェネツィアかローマ、それともミラノ? ヒョウガはどこの国のスパイなの」 「何のことだ」 何だ。スパイというのは。 それも、ヴェネツィア、ローマ、ミラノだと? その国々で、いったい何を探り合う必要があるというんだ。 所詮はメディチの金に支配されている、イタリアの内にある似たもの同士の国たちじゃないか。 「ごまかさないでくれ! 俺の気持ちはわかっているんだろう? 俺は、おまえが好きで好きでたまらないんだ。絶対に離れたくない。おまえは美しくて、優しくて、清らかで――俺が どれほど おまえを愛しても、きっと許してくれる。愛しすぎだと責めたりせず、俺を許し受け入れてくれる。おまえのような人間に、俺は二度と会うことはないだろう。俺には おまえが必要なんだ。おまえでなければ駄目だ……!」 「ヒョウガ……」 「俺は確かにロシアから来たわけじゃない。だが、それは、遠いロシアに行くほどの覚悟で 俺と共に来てくれる人を探していたからだ!」 だが、そんなことは もうどうでもいい。 シュンさえ――シュンを俺のものにできたら、他はどうでもいいんだ。 アテナもアポロンもイエスもマリアもヨハネも、俺の知ったことか! 「シュン、俺と来てくれ。俺はおまえを愛しているんだ。他には何もいらない。俺を信じてくれ……!」 本当のことは何も言わず、嘘ばかりついていた俺の何を信じろというのか。 勝手なことばかり言っていると、自分でも思う。 だが、今の俺には 他には言えることが何もなかった。 俺を信じて、俺と共に来てくれと、ただ それだけしか。 確かなことは――現実的なことは何ひとつ言っていない俺を、シュンが無言で見詰めてくる。 描こうとすれば値の張る俺の青い目を じっと見詰めて――最後には、シュンは俺に言ってくれた。 「ヒョウガの、その青い瞳を信じます」 と。 なのに、シュンは、 「なら、俺と一緒に来てくれるな?」 という俺の言葉には頷いてくれなかった。 シュンは悲しげに首を横に振り、そして、ふいに場違いな話を持ち出した。 「初めてヒョウガに会った時――僕は、絵の画料は金と青が高いという話をヒョウガにした。なぜ青が高いか、憶えてる?」 「青が高い? あ、ああ、確か青の顔料は、稀少で高価なラピスラズリからしか作れないからだとか――」 「そう。ウルトラマリンブルー。海を越えて、海の向こうからきた青。サファイアの青、紺碧の海の青、真夏の空の青――は、あの石で作った顔料を使わないと描くことができない。青色を多く使った絵の画料は当然 高くなる」 「それがどうしたというんだ。真実の愛の証に、その石を贈れというのか? なら、アフガニスタンだろうがインドだろうが、俺はすぐにでも石掘りに出掛けるぞ!」 俺は半ば本気で そう思ったんだが、シュンは俺に、その必要はないと言ってきた。 ラピスラズリの石は不要だと。 「ヒョウガに取ってきてもらわなくても――僕は、ラピスラズリがなくても青色を作ることができるんです。ごく安価に。材料は石灰岩」 「なに?」 何だ、それは。 どういうことだ。 青色を作ることができる――? 「メディチ家の息のかかった工房は、どこも僕の作った青を使ってるの。もちろん、顔料自体も――僕が作った青の顔料をヴェネツィアやローマに高く売りつけて、メディチは莫大な利益を得ている。このことが外に知れたら、青は値崩れを起こすでしょう。既に銀行業が傾き始めているメディチ家が、そのせいで破滅してしまわないとも限らない」 メディチが破滅しようが消滅しようが、そんなことは俺の知ったことじゃない。 が、それは どういうことだ。 青――高価な青をシュンが作り、メディチが莫大な利益を得ている――? 「僕はフィレンツェの町から出てはならないことになっているの。多分、一生 この町を出られない。もし出ようとしたら、メディチ家が僕を捕える。今 許されている自由も奪われ、僕は どこかに閉じ込められてしまうでしょう」 「そ……それは特殊な技術か何かなのか? ならば、それを誰かに伝えて、おまえは誰にもそれを言わないと約束して、俺と一緒に この町を出ればいい。俺は画家じゃないし、絵より おまえが欲しい。青い色なんて、空にも海にもあふれている。俺には必要のないものだ」 「そんな 守られるかどうかも わからない約束を信じるほど、メディチはお人好しではないの。銀行業は何より互いの信頼が大事。だからこそ、メディチ家は まず人を疑ってかかる。僕はメディチの――この町の囚われ人なんだ」 メディチの、フィレンツェの囚われ人――。 では、ヴェロッキオの工房で いつも誰かがシュンを見ていたのは、彼等が シュンの可憐や美しさに恋い焦がれていたからではなく――そういう奴等もいたかもしれないが、シュンがこの町から逃げ出さないように見張っていた――ということなのか? ヴェロッキオも、ペルジーノも、ギルランダイオも、ボッティチェリも? シュンの生む青が、メディチとフィレンツェを破滅から守るものだから? だとしたら――シュンがいなければ破滅するというのなら、メディチなど潔く破滅してしまえばいいんだ。 なぜシュンが――シュン一人だけが、その身を、命を、恋を、犠牲にしなければならないんだ! 「おまえが作るそれは、本来 この地上に存在すべきではないものなんだろう? そんな自然に逆らった不自然なものを生む行為を、おまえはすべきじゃない。人間には自由に生きる権利というものがある。人間を縛ることができるのは愛だけだ。おまえは自由になって、もっと自然に――自然なもののために生きるべきだ」 「自然なもの……って……?」 「もちろん、俺との恋だ!」 俺は確信に満ちて、シュンのため、俺のために、真剣に言ったのに、俺の断言を聞いたシュンは、あろうことか 小さく吹き出した。 その笑みを少し つらそうに歪めて、俺の顔をまじまじと見詰めてくる。 「ヒョウガって、どうして そんなに恐いもの知らずなの。ヒョウガには恐いものはないの」 「俺にだって、恐いものはある。だが、それはメディチじゃない」 そう、俺にだって、恐いものは いくらでもある。 さしあたって 今は、シュンを失うことが恐い。 これほど恐いことはない。 『おまえは そうじゃないのか』と、俺はシュンに訊きたかった。 俺が訊く前に、シュンは シュンが恐れているものの正体を俺に教えてくれたが。 「ヒョウガは、人が自由でいることを とても価値あることのように言うけど、それは ごく一部の強い人だけが抱く考えだよ。ヒョウガみたいに強くない人間は、孤独を恐れて、自由より帰属を選ぶ。僕が恐いのは、メディチじゃない。メディチ家に逆らって この町を追われ 自分の帰属する場所を失うこと、メディチから逃げて 自分の帰属する場所を失うことなんだ」 「帰属する場所?」 「そう。故国、故郷と置き換えてもいいかもしれない。人は――人は一人では生きていけないものだから」 故国、故郷――自分が帰属する場所。 シュンが失うことを恐れているのは それか? シュンが欲しいものは、それなのか? 俺は思い切り 気が抜けて――そして、安堵した。 シュンが欲しているものがそれなら、俺は それをシュンにいくらでも与えてやれる。 「もちろん、人は一人で生きていくことはできない。おまえの新しい故郷は、俺が与えてやる。おまえは、俺の故郷を おまえの故郷にすればいい」 「え……ロシアに?」 「ロシアより、もっと いいところだ。恐い女神サマはいるし、守らなければならない規律も もちろんあるが、その規律さえ守っていれば、個人の自由は最大限に許されている。俺が おまえをどれだけ愛しても、俺が おまえに どれだけ愛されても、誰も文句は言わない」 「ヒョウガの……故郷……?」 「おまえには見知らぬ土地だ。恐いかもしれん。だが、勇気を出してくれ。俺のために――俺たちのために」 「ヒョウガの故郷……」 シュンの心が揺れ始めているのが、俺には わかった。 俺は張り切った。 俺はシュンを手に入れられる。 こうなったら、一気に俺の方に引き寄せるだけ。 こういうことは、勢いが肝心なんだ。 ここで ためらってはいられない。 俺は、シュンを俺のものにするんだ。 |