「そうと決まったら、この町を抜け出す算段をしよう。フィレンツェは城塞都市じゃないし、見張りの目さえ逃れることができれば、脱出は容易だ」 シュンには悩み考える時間を与えない方がいい。 そう考えた俺は、シュンのフィレンツェ脱出を既定の事柄にして、話を一足飛びに俺たちの脱出計画にまで持っていった。 シュンが、不安そうな目を俺に向けてくる。 「でも、僕――僕も知らないの。誰がメディチの命を受けて、僕を見張っているのか。それに、月に一度の顔料生成の作業日が近付いているから、今は見張りも厳重になっていると思う」 「月に一度の作業日?」 よし、いいぞ。 シュンは もうフィレンツェ脱出計画を前提にして ものを考えるようになっている。 それも これも、俺の愛の力のたまものだ。 「うん……。僕は、月に一度、メディチ家の城の奥にある隠し部屋に連れていかれるの。そこには大量の石灰岩が運び込まれていて、僕は その石灰岩を熱して青い石に変化させる。そうして、山のような青の顔料の元を作るの」 「熱して? 石灰岩を燃やすのか?」 石灰岩を燃やしたら、セメントができるだけだろう。 青い顔料なんてものが できあがるはずがない。 俺の疑念を察したらしく、シュンは――シュンも事情がよくわかっていない顔で、シュンが知っていることを話してくれた。 「僕、以前 レオナルドさんに それとなく聞いたことがあるの。ラピスラズリの石以外に、青い顔料を作れる材料はないのかって。レオナルドさんは、おそらくあるだろうって言ってた。銅やリンを熱すると青い炎が出るでしょう。あれは、銅の中に青色の成分があって、それが高温で燃やされた時だけ化学変化を起こして、炎の形で姿を現わすんだろうって。だから、石灰岩でも そういうことがあるんだと思う」 「しかし……石を高温で熱するだけなら、おまえでなくても、誰にでも――」 「それが……よくわからないの。僕は、何か不思議な力を発することができるの。僕には きっと、何か呪われた力が備わっている……」 「不思議な――呪われた力?」 シュンに そう告げられた時、俺は妙な胸騒ぎを覚えた。 不思議な力――呪われた力。 それは、もしかしたら――。 「僕は トスカーナの東端にある小さな村の生まれで――僕がまだ小さな子供だった頃、奪うものなんか何もなかった貧しい小さな村に、どういうわけか 急にトルコの軍が攻め入ってきたことがあったんだ。村人はみんな、僕の両親も、トルコ兵に殺された。大きな剣を持ったトルコ兵に追いかけられて、僕は村の端にあった石灰岩の切り出し場に逃げ込んで――その時、いったい僕が何をしたのか、僕自身も憶えていない。ただ、どういうわけか、トルコ兵は僕を殺さずに逃げていった。翌日、トルコの襲撃に気付いた役人が、石切り場で倒れている僕を見付けた時、僕の周囲にあった白い石灰岩はみんな 青い色に変わって 輝いていた……って」 「それは――」 それは 小宇宙だ。 なんてことだ。 アテナが 俺を この町に送り込んだのは、シュンを見付けるためだったのか。 何もかもが うまくいく予感に――アテナの命令を果たさずに聖域に帰って アテナに嫌味を言われずに済みそうだという予感に――俺の胸は弾んだ。 そんな俺とは対照的に、自分の呪われた力のことを思い出してしまったシュンの胸の中では、ひっそりと生まれかけていた勇気と希望が しぼみ始めた――んだろう。 シュンは悲しそうに、力なく、二度三度 頭を横に振った。 「僕だって、できるものならヒョウガと行きたい。でも、それは やっぱり無理なことだよ……。僕がこの町を出ることができるのは、きっと 死体になった時だけなんだ……」 「死体? それは いい考えかもしれないな」 「ヒョウガ……」 死体という言葉のせいで、絶望を通り越し、恐いものがなくなったような目で、シュンが俺の顔を見上げてくる。 俺と一緒に この町を出ることができるのなら死体になっても構わない――死体になっても、俺と離れたくない。 シュンが、その眼差しで、俺に そう訴えてくる。 シュンにその勇気と決意があるのなら、話は早かった。 俺は、俺もまた 呪われた力の持ち主であることをシュンに知らせるために、ちょうど そこに飛んできた蝶を、俺の凍気で凍りつかせてみせた。 同じようにシュンを俺の凍気で凍りつかせ、仮死状態にし、その身体を聖域に運んで アテナに生き返らせてもらう――つもりだったんだ、俺は。 だが、アテナの力に頼らなくても 俺たちの計画は完遂可能だということを、すぐに俺は知ることになった。 「あ……あ……」 俺の凍気で凍りつき動けなくなった蝶――俺にそんな目に合わされなかったとしても、せいぜい あと10日の命だ――の姿に、シュンは まるで自分自身が傷付けられでもしたかのように つらそうに その顔を歪めた。 そして、俺の手の中にいる蝶に、シュンが その両手をかざす。 シュンの手は温かい小宇宙を生み、その小宇宙によって生き返った蝶は 再び白い羽根を動かし始めた。 シュンは、頭のいい子だ。 もしかしなくても、俺よりずっと。 ただ、少し慎重すぎ、決断までに時間がかかるだけで。 一度 死に、だが 甦り、自由に生き生きと青い空の中に飛び立った蝶の姿を見て、シュンは俺の計画の概要を察してくれた。 そして、俺に何も問わず、俺に何も言わずに、決意してくれた。 「信じるよ、ヒョウガ。僕は自由になれる、幸せになれるって」 俺に そう告げた時のシュンの瞳の輝き。 それは もう天使の瞳ではなく、希望の光をたたえた人間の瞳だった。 天使より――人間の方が、はるかに美しいな。 |