星矢たちの嫌な予感は、もちろん 自然の摂理にのっとって現実のものとなった。
歌を忘れたカナリヤではなくなったアイドルに、氷河は、
「さあ、貴様はアイドル稼業に戻れ。城戸邸を出ていけ」
と要求し、氷河にそう求められたアイドルは、
「瞬さんの側を離れると、また歌えなくなりそうで恐いんです」
と言って、城戸邸を出ることを頑として拒んだのである。

アイドルは、徐々に仕事に復帰して、マスコミが望むような露出も それなりに行なうようになっていたため、城戸邸周辺に陣取っていたマスコミ関係者たちは それぞれの巣に帰っていた。
だが肝心のアイドルは 一向に元の巣に戻ろうとはせず、それどころか 生活費を入れるから 当分の間 城戸邸での暮らしを続けたいと、沙織に願い出たらしい。
『母のいない家に帰るのは つらい』と言われれば、さすがのグラード財団総帥も彼の申し出を断ることはできなかったのだろう。
その辺りの事情がアテナの聖闘士たちに知らされることはなかったが、ともかく歌を歌えるようになってからも アイドルが城戸邸に居座り続けたのは厳然たる事実だった。

恋は人を驚異的に強くするものらしく、歌声を取り戻したアイドルは、普通の人間なら ひと睨みされただけでも背筋を凍りつかせる氷河の睥睨にも 全く ひるむ様子を見せなかった。
それどころか、彼は、氷河や星矢たちのいるところで堂々と、
「瞬さんが女の子だったなら、すぐにプロポーズして、ずっと僕の側にいてもらう。そうすれば、もう二度と歌えなくなることはなくなって、僕は一生 幸せな人間でいられるでしょう」
などと、命知らずなことを言うことさえしてのけたのである。

ここで彼を冷たく拒絶すれば、彼はせっかく思い出した歌を、再び忘れてしまうかもしれない。
そうなることを恐れる瞬は、彼のプロポーズもどきにも 困ったように顔を伏せることしかできない。
彼に 歌う術を忘れられて困るのは氷河も同様だったので、氷河もまた、正面からアイドル排斥運動に乗り出すことはできずにいた。
とはいえ、もともと持ち合わせの少ない氷河の忍耐力が いつまで もつかのかは、氷河自身にも見当がつかない。
城戸邸は、まさに一触即発状態。
毎日毎日の1分1秒が緊張の連続で、星矢や紫龍は いっそ地上の平和を脅かす強大な敵が現われてくれれば、男同士の不毛な恋の鞘当てを見ずに済むようになるのではないかと、地上世界に危機が到来することを願うようになる始末だった。

アテナの聖闘士たちの住まいにして本拠地、隠れ家でもある城戸邸内が そういう状況にあることを最も憂えていたのは、その一触即発状態の嵐を生み出している当事者の一人、白鳥座の聖闘士その人だった。
なにしろ彼は、自分の忍耐力の限界が奈辺にあるのかを 誰よりもよく知っている人間だったのだ。
氷河が沙織への直訴に及んだのは、アイドルが見事な復活を成し遂げてから10日ほどが経った ある日のことだった。

「沙織さん! あのアイドルを ここから追い出してくれ! あの野郎、夕べ、不安だから瞬と一緒に寝たいとか言って、瞬の部屋に押しかけてきやがった! あいつは 2、3歳のガキじゃないんだぞ。あのアイドル野郎は、瞬に甘やかされすぎて、アウストラロピテクスにまで退化しやがったんじゃないのかっ!」
もともと礼儀正しい人間ではなかったが、それでも尊敬できる目上の人間に対しては それなりに振舞うこともできていた氷河が、到底 アテナに対する言葉使いとは思えないほど乱暴な声と言葉で、沙織に訴える。
氷河に怒鳴りつけられるまでもなく――沙織は沙織で この状況を憂えてはいたらしい。
だが、彼女は、彼女にしては婉曲的な論法で、氷河の訴えを はぐらしてきた。

「あなたたちが まだ事に及ぶ前だったのなら、本当によかったわ。真っ最中に入ってこられたら、あなたでも萎えるでしょう」
「沙織さん! 俺は真面目に言っているんだ! 現状は、奴のためにもよくない!」
「そうね。瞬が彼のライナスの安心毛布になってしまっているような現状は、確かに彼にとってもよくないことだわ。でも、今 彼を無理に瞬から引き離すと、彼は また歌えなくなって、結局 ここに逆戻りすることになるかもしれない。それは誰にも益をもたらさないことだわ。現状の根本的な解決は、彼が誰にも依存することなく、自分の力で歌えるほどに強くなることでしか為されないの。そして、彼がそれほどの強さを取り戻せるようになるには もう少し時間が必要なのよ」

だから もうしばらく我慢してと、沙織は言う。
彼女に そう言われてしまっては、氷河も引き下がるしかなかった。
否、氷河が引き下がるしかなかったのは、『母を失った喪失感を 瞬の愛情で埋めようとしているアイドルとあなたとで、何が違うの』と、言葉にはせず、沙織の瞳が白鳥座の聖闘士に問いかけていることに、彼が気付いたからだった。
同じように瞬を求めている自分とアイドルとで何が違うのか、氷河自身にも その答えがわからなかったからだったのである。






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