そのわかりやすい男が 俺を連れていったのは、冷たい石の城壁で囲まれた城の敷地内にある半地下の石牢だった。 半地下というのが みそだな。 ドイツのこの辺りの気候では、多分 完全な地下牢の方が、冬は暖かく、夏は涼しい。 あえて冬の寒風が入り込むようにできている牢だ、これは。 俺をカイザーの許に案内した厚生大臣は、カイザーが 化け猫と聖人を同じ牢に収監していると言っていたが、全身を毛皮で覆われている猫はともかく、そんなものを持っていない人間に、この季節の この牢は、ただ閉じ込められているだけでも拷問だろう。 わかりやすい男は、恋敵への憎しみも 実にあからさまで わかりやすかった。 牢の入り口には見張りの兵が二人。 短い階段を下りていくと、兵士たちの待機所――かなり広くて、暖炉まである――があり、そこを突っ切った先に、鉄格子の はまった独居房が幾つか。 独居房は すべて空で、噂の化け猫と聖人は、それらの独居房の更に奥にある広い雑居房の中に閉じ込められているようだった。 『ようだった』としか言えないのは、その雑居房の鉄格子のすぐ向こうに、巨大な毛皮のカーテンが掛けられていて、俺には房の中の様子を確かめることができなかったからだ。 浮気されたとはいえ、最愛の猫。 寒さに凍えさせるのは不憫で、毛皮で寒さを防いでやっているということか。 浮気されても 最愛の猫に強く出られない男の未練がましさ、みっともなさを、他人事ながら、俺は内心で 情けなく思ったんだが、それはとんでもない誤解だった。 「ゴールディ、まだ そのガキを食っていないのか。そのガキを食ったら、ここから出してやると言っただろう。なぜ食わんのだ。美味いぞ、きっと」 毛皮のカーテンに向かって、カイザーが声をかける。 途端に、その毛皮がもっそりと揺れた。 そして、 「きゅ〜ん」 という猫の鳴き声(なのか?)らしきものが、毛皮の中から響いてくる。 カイザーの発言に、俺は少々 混乱した。 “ガキ”というのは誰のことだ。 この毛皮は 最愛の猫を凍えさせないためのものじゃなかったのか? この牢に囚われているのは 化け猫と聖人だと大臣は言っていたが、化け猫と共に この牢に閉じ込められているのは、実は パンを盗んだガキの方なのか? それとも、ここには、聖人とパンを盗んだガキと化け猫の、二人と一匹が閉じ込められているのか? あるいは――まさか、年寄りの聖人は 既にこの牢の寒さに耐えきれず、俺が来る前に死んでしまったのではないだろうな? 聖人はどこだ。 この毛皮のカーテンの向こうは、いったい どんなことになっているんだ。 俺の中に生まれた、幾つもの疑問。 その答えは、まもなくわかった。 毛皮のカーテンが ひとりでに動く。 俺が毛皮のカーテンと思ったものは、カーテンなどではなかった。 そうではなく――それはまだ毛皮を剥がれる前の、生きている巨大な獣の背中だったんだ。 おそらくは 5、6人の囚人を収監する雑居房。 無理をすれば10人の収監も可能な広い牢の およそ3分の2が、その獣の身体で埋まっていた。 見ているだけで窮屈な気分になる その光景に、俺はつい、持ち運び用のカゴの中に入れられた猫の姿を連想した。 その巨大な獣は、牢の中で、のそりと身体の向きを変え、俺の方に 顔を向けてきた。 いい歳をした男の心を惑わす魔性の化け猫。 それは さぞかし優雅で美しい肢体を持った猫なんだろうと、俺は俺なりにゴールディのイメージを脳裏に思い描いていた――想像していた。 だというのに。 優雅で美しい猫? とんでもない。 それは、正しく化け猫だった。 何よりも、その大きさが。 謹厳実直使者殿や大臣たちが言っていた『化け猫』というのは、こういう意味だったのか。 それは猫というより、巨大な山のような獅子だった。 でかい。 とにかくでかい。 これが猫だなんて、到底 信じ難い。 もしかしたら本当に猫なのかもしれないが、それなら普通の獅子より凶悪なツラをした猫だ。 口元から覗く牙は、俺の片手ほどの大きさがある。 ヒゲは尖った針金のようだし、爪は、その1本1本が鍛え抜かれた長剣のよう。 それは、体長が成人男性の4、5倍はある巨大な獣。 地獄の番犬ケルベロス、生贄の少年少女を食らいまくったというクレタ島のミノタウロス、口から吐く火炎によって山を燃え上がらせたリュキアのキマイラ――俺が毛皮のカーテンと見間違えたのは、そんな怪物たちの お仲間だった。 「公爵様。ゴールディは何も悪いことをしていない。この子だけでも、牢から出してやってください。こんな窮屈なところに閉じ込められるなんて、ゴールディがかわいそうです。どうか、ゴールディに食べ物と自由を――」 毛皮の山の中から、女の子のような声が聞こえてくる。 化け猫と共に牢に閉じ込められているのは、やはり 化け猫に懐かれた聖人ではなく、パンを盗んだ子供の方だったらしい。 そう、俺は思った。 俺がそう思ったのは、ごく自然なことだったろう。 女の子のようなその声が、年老いた老人の声なら、かなり気持ち悪いからな。 「ゴールディの食べ物なら、そこにいるだろう」 「僕を食べてと言ったんです。そうすれば、自由になれると。でも、ゴールディは食べてくれないの。お願いです。ゴールディをここから出してあげて」 「ふん。ゴールディのことより、自分の身を心配しろ。この石牢は冷えるぞ。山では既に初雪が降った。おまえは、遠からず 飢えて凍え死ぬ。ゴールディより先にな。まあ、おまえが死んでも、俺は全く困らんが」 カイザーの口調は、“ガキ”がゴールディに先んじて死ぬことを望んでいる人間のそれ。 妹のためにパンを盗んだだけの子供を、人の心を持った者が ここまで憎むものだろうか。 ここまでの憎しみは、やはり恋敵に向けられるものではないだろうか。 だとしたら、カイザーの恋敵は子供なのか? 訳がわからず混乱している俺に、カイザーは憎々しげな口調のまま告げてきた。 「ゴールディは本当は もっと美しい毛並みをしているんだが、なにしろ今は このありさまなのでな。この魔女で詐欺師で自称聖人のガキが死んだら、ゴールディも諦めがついて目が覚め、元のゴールディに戻ってくれるはずだ。そうすれば俺は、本来の美しいゴールディの姿を貴公に見せてやることができるようになるだろう。それも時間の問題。貴公の たっての望みなのでゴールディに会わせることはしたが、アテナにはぜひ、元の美しい姿に戻ったゴールディの様子を報告してくれ」 「……」 魔女で詐欺師で自称聖人のガキ? 聖人がガキなのか? この牢に化け猫と一緒に閉じ込められているのは、やはり パンを盗んだ子供ではなく、化け猫に懐かれた聖人の方なのか? その聖人が、まだ“ガキ”なのか? 頭の中で疑問符が増え続けている俺に、カイザーが指し示した“ガキ”(= 聖人)。 カイザーに同行者がいることに気付いたらしい聖人が、俺の方を見る。 その自称聖人のガキと 視線が会った時、俺は雷に打たれたような衝撃に襲われた。 俺は、しばらく 息をするのも忘れた。 聖人の姿は、何というか――巨大な化け猫より衝撃的だった。 聖人は、10代半ばの華奢な子供だった。 それだけでも十分に驚くべきことだって言うのに、その聖人は、滅茶苦可愛い子だったんだ。 もろに俺好み。 顔立ちも可愛らしく清楚だが、それ以上に、その聖人の清らかで澄みきった瞳が、俺には衝撃的だった。 アジールの聖人は 子供たちには天使と思われていると、謹厳実直使者殿は言っていたが、そう思われているのも頷ける。 まさに天使の瞳。 だが、人間だ。 人間なのに清らかだから、その存在が奇跡にも思える――。 カイザーには、見る目というものがないのか? いや、カイザーは、そもそも美意識が人間レベルにまで達していないのかもしれない。 聖人の方が、化け猫の100万倍も可愛いじゃないか。 こんな奇跡のような存在に出会っていながら、化け猫の方に執着していられるなんて、正気の人間にできることじゃない。 この子を化け猫に食わせるなんて もったいない。実にもったいない。 そんな事態を、俺は断固として阻止するぞ。 「おい。この子は聖域がもらい受ける。それで万事解決だろう。貴様は猫ひとすじの生活に戻り、俺はこの可愛い子をゲットするということで」 俺の視界の内には、もうカイザーの姿も化け猫の姿もなかった。 俺の目には、奇跡のように清らかで可愛い聖人の姿以外、何も映っていなかった。 聖人の綺麗な目を見詰めたまま、俺はカイザーに宣言したんだ。 この子は俺のものだと。 人間レベルの美意識を持っていないらしいカイザーが、俺が なぜ そんなことを言い出したのか、まるでわかっていない顔で、俺の提案を拒絶してくる。 「このガキは我が公国と公国の民に対する反逆者だ。罪人を匿った。この国の統治者として、俺は このガキを処刑せねばならん」 処刑? そんなことをさせてたまるか。 だいたい、この可愛子ちゃんが、人間レベルの美意識も持っていない馬鹿公爵に処刑されなければならない、どんな罪を犯したというんだ。 処刑なんて、させてたまるか。 「いいから、この子を牢から出せ。こんな寒いところに閉じ込めておいたら、この子はすぐに凍え死んでしまう」 「そうはいかん。貴様は何もわかっておらんのだ。こんな痩せっぽちのチビが、この牢に入れられて 既に10日。本当なら、とうの昔に凍え死んでいていいはずなんだ。なのに、死なない。このガキは悪魔と取引をした魔女に違いないんだ。無知蒙昧な民は このガキの力を 神の恩寵と信じているようだが、そんなことはあり得ない。まあ、ゴールディの毛皮に包まれているから、これまでは なんとか死なずにいられたのかもしれないが、これから この国は もっと寒さが厳しくなる。火を燃やさなければ、ゴールディでも 生きていられないほどにな。ゴールディをたぶらかした邪悪な魔女に、死は当然の報いだ!」 嫉妬に燃える男の顔ほど見苦しいものはない。 審美眼のない人間には付き合いきれない。 だが、この男に人間レベルの美意識を持たせることは不可能だろう。 もし可能だったとしても、その訓育には時間がかかるに違いない。 その間に、俺の可愛子ちゃんが死んでしまったら、俺の恋は万事休す。 そんな悠長なことはしていられない。 かといって、人間レベルの美意識も持たない獣を説得することは まず無理なことだろうし、そんなことをしている時間も惜しい。 となれば、道は一つだ。 俺は、いったい何のために聖闘士になった? 何のために、つらい修行に耐えて 聖闘士の力を手にいれた? それは、罪なき身で苦しめられている清らかで可憐な人を救うためだ。 そうだったんだ。 俺は、アテナの聖闘士になって初めて、アテナの聖闘士としての俺の存在意義を思い切り自覚した。 そして、俺は、獣レベルのカイザーの手から、清純可憐な聖人を奪取することを決意した。 |