その日、俺は、聖人との対面を済ませると早速、聖人奪取のための計画を立て、その実行に取りかかった。 聖人奪取計画の実行といっても、特段 物騒なことをしたわけじゃない。 俺が聖人奪取という目的を遂行するために最初に実行したのは、レオブルク公国の城下にある市場に行って、聖人への贈り物を見繕うことだった。 俺の聖人のところに 手ぶらで行って脱獄を薦めても、あの可憐な聖人は それを罠か何かと疑うかもしれないからな。 なにしろ俺は、聖人を石牢に閉じ込めた当人であるカイザーの同行者として 聖人との初対面を果たしてしまったわけだから、聖人が俺の提案を信じられなかったとしても、それは致し方のないことだ。 俺はまず、あの可愛い聖人に、俺が味方だということを信じてもらわなければならない。 とはいえ、俺が可憐な聖人のために選んだ贈り物は 宝石や上等の絹の服なんかじゃなく、食い物だった。 あの牢で、聖人は ろくなものを食わせてもらっていないに違いないからな。 パンとチーズとワイン、そして、新鮮な果物。 牢に閉じ込められ、不自由な生活を強いられている人間には、そういうものが いちばん有難い贈り物だろう。 ちなみに、レオブルク城下の市場は、小国の市場にしては かなり賑わっていて、売買されている品の種類も量も豊富だった。 そこにいる民の表情も比較的 明るかったから、獣レベルの あのカイザーが(一応)いい領主の部類という話は、(一応)事実なんだろう。 いや、ここは『(一応)いい領主だった』と言うべきか。 この冬の凍死者をどれだけ少なく抑えられるか。 それが、今後の奴の領主としての真価を決定することになるだろうと、俺は思った。 そんなことを考えながら、市場で買い物を済ませた俺は、その足で 噂のアジールに行ってみた。 古い教会を改造して 冬場の貧民の避難場所にしたらしい その建物の周辺にいた子供たちは、心の拠りどころだった聖人を奪われたせいか、皆 一様に不安そうな顔をしていた。 子供に こんな不安そうな表情をさせる領主の評価が、“(一応)いい領主”から“最低最悪の領主”に変わるのは時間の問題。 カイザーは、一度 ここに視察に来るべきだな。 そして、自分の行動を改めるべきだ。 アジールにいる子供たちの様子を見て、俺は そう思った。 異邦人の俺が カイザーにそんな注進をしたりしたら、それは内政干渉になってしまうから、俺は軽率なことはできないが。 ともかく、そうして俺は、その夜、市場で調達した贈り物を携えて、俺の可憐な聖人が囚われている石牢に忍び込んだんだ。 見張りの兵たちは、買収するつもりだった。 それが無理だったら、申し訳ないが、彼等には しばらく眠っていてもらおうと考えていた。 カイザーの命令で見張りに立たされているだけの兵たちに罪はないが、俺の清らかな聖人を救うためだ。 多少の無体には耐えてもらわなければならない。 俺を親切で優しい男と印象づけて、まず あの可愛い聖人に俺への好意と信頼を抱いてもらう。 脱獄計画の実行はそれからだと、俺は、俺にしては堅実に考えていたんだ。 だが、俺の計画は、しょっぱなから躓いた。 それを 躓きと言っていいのかどうかは微妙なところだが。 というのは、他でもない。 俺は、聖人が囚われている石牢に忍び込むための最初の障害であるはずの牢の見張りの兵たちを買収することができなかったんだ。 彼等に しばらく眠っていてもらうこともできなかった。 彼等が、彼等のいるべき場所にいてくれなかったから。 彼等は、彼等がいるべき場所にはおらず、彼等がいるべきではない場所にいた。 つまり、見張りの兵の不在を訝りつつ俺が下りていった 兵士用の待機所に、彼等はいた。 見張りの兵たちだけでなく――そこには、そこにいるべきではない多くの人間が ひしめきあっていた。 本来なら牢の入り口に立っているべき見張りの兵たち、城内にいるべき衛兵たち、女官や事務官、城で下働きをしているのだろう男や女。 様々な役職の老若男女が30人はいただろうか。 驚いたことに、そこには、本来は冷たい石牢の中に閉じ込められているべき 俺の可愛い聖人や、あの化け猫までがいた。 で、彼等が そこで何をしているのかというと、これがどう見ても“宴会”と言っていいもの。 彼等はそこで、飲めや歌えの――もとい、食えや歌えの大宴会を繰り広げていたんだ。 思ってもいなかった その光景を見て、俺はあっけにとられた。 俺は、冷たく寂しい石牢に、たった一人(と一匹)で閉じ込められている聖人の ただ一人の頼もしい味方として 颯爽と登場するはずだったのに――俺が その場に下りていくと、辺りに緊張感が走り、場の空気が凍りついてしまったんだ。 まるで、草原で平和に草を食んでいたガゼルの群れが、飢えたライオンの気配に気付いた時のように。 幸い、城の女官らしき中年の女が、俺の持っているものを認めて、 「ギリシャからの お客人も、瞬ちゃんの味方のようだよ」 と言ってくれたおかげで、凍りついた その場の空気は すぐに元の和やかなものに戻ってくれたんだが。 そのこと自体は有難かった。 聖人の名が『瞬』というらしいことがわかったのも、俺には収穫だった。 しかし、尊い聖人様を『瞬ちゃん』とは。 また随分と砕けた呼び名で呼んでくれたもんだ。 これだから女というやつは、僭越というか、不作法というか、厚顔で図々しいというか。 が、今回ばかりは、その不作法な図々しさに助けられたわけだから、俺は ここで文句を言うべきではないだろう。 その女が、俺が手にしていた籠の中を覗き込んで、 「だめだめ。瞬ちゃんはお酒は飲めないんだよ」 と、駄目だしをしてくれる。 まあ、彼女は すぐに、 「あ、でも、オレンジがある。この季節、高かったろう。私等には到底 手が出ない」 と言って、俺の贈り物(むしろ、この場合は差し入れというべきか)に、一応 及第点をつけてくれたから、かろうじて俺の面目は立ったというところか。 彼女の評価は妥当なものだったろう。 なにしろ そこには、宴会参加者が持ち寄ってきたらしいパンやチーズが山のようにあったんだ。 パンやチーズだけじゃない。 スープも肉料理も魚料理も、ミルクや果汁、ジャムやバターまで、そこにはあった。 食料だけじゃなく、防寒具も着替えもあった。 お湯にタオルまである。 暖炉に火は入っていなかったが、かなりの広さがあるとはいえ、巨大猫と30人以上の人間が ひしめき合っているんだ。 待機所内は、宴会参加者たちの体温だけで十分に暖かい――むしろ、暑いくらいだった。 宴会場の中央にいるのは(カイザーにしか懐かないはずの)巨大猫と聖人――瞬。 化け猫は、“瞬ちゃん”の味方は自分の味方とでも思っているのか、その凶悪な顔を 完全に緩ませていた。 魔性の化け猫の この顔を、あの偉そうなカイザーに見せてやりたいと、俺は思ったぞ。 「ギリシャから来た にいさん。せっかくだから、瞬ちゃんの側においきよ。ゴールディは恐くないから。以前は公爵様以外の人間には牙を剥いてたんだけど、ゴールディは 今はもう みんなのアイドルだよ」 そう言って、俺を瞬の側に押しやってくれた僭越で不作法で厚顔で図々しい女官に、俺は多大な好意を抱いた。 実に親切で 気が利く女性だ。 「ありがとうございます。ギリシャからいらした方」 尊い聖人が、俺に丁寧に礼を言ってくる。 至近距離で見ると、また一段と可憐だ。 澄んだ瞳、乳色の なめらかな肌、その面立ちも文句なく美しい。 そして、本当に可愛らしい。 まさに、天使だ、天使。 にもかかわらず、聖人は確かに人間で、その全身に人間らしい温かさをまとっていた。 「氷河だ」 この可愛らしい聖人に名を呼んでほしくて、俺は自分の名を名乗ったんだ。 聖人は、すぐに俺の希望を叶えてくれた。 「氷河さん。ありがとうございます。僕のために、こんな危険なこと……。公爵様に知れたら、どんな目に合わされるかわからないのに。僕のことは瞬と呼んでください」 聖人の瞬が、そう言って 俺を見上げ、感謝の色をたたえた瞳で、俺を見詰める。 「瞬……」 可愛い。 とにかく可愛い。 俺は その可愛らしさに見惚れ、心を奪われ、自分が天国の雲の上にいるような気分に囚われた。 寒風が吹きすさぶ牢獄だと思っていたのに、ここは天上の楽園だったのか。 「あの……どうか?」 その名を呟いたきり、ぼーっと阿呆のように瞬に見とれている俺に戸惑ったらしい聖人が、俺に尋ねてくる。 「こんなに綺麗な目をした人に、俺は初めて会った」 ぼーっとしたまま、俺は答えた。 「えっ」 誰もが そう思っているに違いないのに、だが、だからこそ誰も、あえてその事実を瞬に告げることをしなかったんだろうか。 俺の言葉を聞いて、瞬は 一瞬 驚いたように瞳を見開き、それから少し恥ずかしそうに その瞼を伏せた。 本当に、何なんだ、これは。 俺は、もちろん、本物の天使なんか見たことはない。 だが、本物の天使だって、ここまで可愛くはないだろう。 自信をもって、俺は そう断言できるぞ。 「目だけじゃない。亡くなったマ……母より美しい人はいないと思っていたのに」 「いやだ。僕が氷河さんみたいに綺麗な方のお母様より美しいはずがないでしょう」 天使は、綺麗なだけでなく、極めて謙虚。 これだけ多くの者に慕われているのなら、心根も その姿同様 美しく清らかなのに違いない。 化け猫退治なんてアテナの聖闘士のすることじゃないと不満たらたらでいた昨日までの自分を、俺は殴り倒してやりたくなった。 俺に化け猫退治を命じてくれたアテナに、今は 心から感謝するぞ。 ドイツの片田舎くんだりまでやってきて 本当によかった。 俺は この運命の出会いを果たすために ここにやってきたんだ。 一片の疑いもなく、俺は そう信じるぞ。 「公爵様もねえ、ゴールディが瞬ちゃんに懐くまでは いいご領主様だったのに……。私が思うに、あれは奥方様がいないせいだね。男の嫉妬は見苦しいよ。さっさと気立てのいい奥方様をもらって、子供でも こしらえればいいんだ」 運命の出会いに感動しまくっている俺の背後で、不作法で厚顔だが 実に気の利く女官が、同僚の誰かに愚痴っている声が聞こえてきた。 考えることは誰も同じらしいな。 |