当初 俺が立てていた計画とは かなり様相が違ってしまったが、そういう経緯で、俺は無事にレオブルク公国に残った唯一のアジールの聖人と お近づきになることができた。
で、その翌日から 俺は、レオブルク公国を視察する振りをして、昼は町に出て瞬への贈り物を物色、夜は瞬のいる牢屋に直行という日々を過ごすことになったんだ。
瞬が可愛いこと、清らかで優しい心を持っていることは 最初の出会いの際に確認できていたし、俺個人としては さっさと瞬を冷たい石牢から救い出して カイザーの手の届かないところに(できれば、アテナに守られている聖域に)連れていきたかったんだが、それは瞬の望むところではないようだったから。

瞬は もちろん、石牢からは出たがっているようだったが、カイザーの手から逃げることを望んではいない――ように見えた。
より正しく言えば、カイザーの手から逃げられればいいと、それだけを考えてはいないようだった。
瞬の望みは、瞬のアジールが これまで通りに機能して、寒さや貧しさに苦しむ人々の救済活動が続くこと、そして、ゴールディとカイザーの和解。
こんな目に合わされても、ゴールディは 獣レベルの公爵に愛想を尽かしていないらしい。
ゴールディは以前と変わらず公爵を慕っているのだと、瞬は俺に言った。

難民救済の重要性必要性は 俺も認めるが、獣レベルのカイザーと化け猫のことなど放っておけばいいのにと、本音を言えば 俺は思ったんだ。
嫉妬に狂って自国の民に必要とされている聖人を投獄するような馬鹿な男と そのペットの仲を、瞬が心配してやることはないじゃないかと。
だが、自分をひどい目に合わせた男の幸せや安寧までを願うような人間だからこそ、瞬は聖人と言われ、天使と呼ばれているんだろう。
カイザーや化け猫はどうでもよかったが、俺は瞬の その優しさを好ましいと思ったし、瞬の望みを叶えてやりたいとも思った。
そうすることが 瞬の好意を勝ち得る最も有効な方法のようだったし、人間、どうせ惚れるなら、やはり善良で優しい人に惚れるに限るな。
その人の心に添える人間になりたいと思うことで、俺自身も“いい人”になれるから。
それに――カイザー以外のすべての人間が瞬の味方という今の状況では、瞬が冷たい石牢で飢え死に 凍え死にすることを心配する必要はなさそうだったから――焦ることなく厄介な問題を解決して 瞬の憂いを すべて晴らしてからの方が、瞬も 俺との恋を より楽しめるだろうと、俺は思った。

そう。
冷たい石牢での瞬の飢死や凍死を心配しなくてもいいということが わかったのは大きかった。
瞬の周りは いつも暖かかった。
俺は、それを最初のうちは、ゴールディの体温、多くの人間の人いきれのせいだと思っていたんだが、夜毎の宴会への参加を重ねるうちに、瞬の周囲が暖かいのは ゴールディたちのせいじゃないことがわかってきた。
瞬の周囲は暖かい――暖かいのは、文字通り、瞬の周囲だった。
猫やライオンの体温は人間のそれより高いはずだが、ゴールディの側にいるより、瞬の側にいる方が より暖かい――より暖かさを感じることになるんだ。
それは 俺だけのことじゃなく、俺以外の誰もが――ゴールディでさえ、そうらしい。
これは奇妙なことだった。

「ここは、どうして こんなに暖かいんだ」
不思議に思って、俺は ある夜、例の不作法で気が利く女官に訊いてみたんだ。
彼女は、俺が奇異に思っていることを奇異に思ってはいないらしく、ごく自然な顔をして、
「瞬ちゃんの力だよ。瞬ちゃんは神様に愛されているんだ」
と答えてきた。
が、もちろん、俺は そんなことを信じなかった。
俺はアテナに愛されているが(あれが愛かどうかは極めて怪しいところだが、少なくとも神の加護を得てはいる)、俺の周囲は寒いからな。

それで、俺は瞬に確かめてみたんだ。
「その力、もっと燃やすことは――いや、強くすることはできるか」
と。
「氷河、寒いんですか?」
瞬は そう言って、俺を温めてくれた――俺の周囲の空気の温度を上げてくれた。
その瞬間、俺は悟ったんだ。
神に愛されている瞬の温かさ。
確かに、瞬は神に愛されているだろう。
しかし、瞬を愛している神は、このドイツを中心に拡散した例の宗教改革に関わる神じゃなく、ここから1800キロも離れた聖域にいる女神アテナだ。
瞬の生む温かさは強大な小宇宙――アテナの聖闘士の小宇宙だった。
それも かなり稀有な小宇宙だ。
それは 暑くなりすぎない春のような温もりを生む小宇宙で、強く小宇宙を燃やすと 暖かさの範囲が広がる。
瞬なら、この国全体を国中を春にすることもできそうだった。

「君はギリシャに――聖域に来るべきだ。この力は小宇宙――アテナの聖闘士が持つ力だ」
「え」
俺がギリシャから来たこと、異郷の神に関わりのある人間だということは聞いていたらしいが、聖闘士や小宇宙という言葉は 瞬には初耳だったらしい。
俺はてっとり早く聖闘士の力を瞬に理解してもらうために、その場で小宇宙を燃やし、ごく ささやかに――他の者たちを凍えさせることがないように、ごく ささやかに――凍気を生んでみせたんだ。
「これも小宇宙だ。俺の小宇宙は凍気を生む」
瞬は俺の力に ひどく驚いたようだった。
俺と瞬の周囲にいた者たちも。

「小宇宙? アテナの聖闘士? でも、公爵様はこの力を魔女のものだと……」
魔女?
なんだ、それは。
もしかしたら瞬は――アテナの聖闘士なら こんな牢、自力ですぐに脱出できるはずなのに、瞬がそうせずにいたのは、もしかしたら瞬が 自分の力を邪悪なものと思っていたからなのか?
瞬の不安そうな目。
それは、大いに あり得そうなことだった。
自分は神に背いた存在で、だが その力は多くの人々を救う。
力は使わないわけにはいかないが、自分は邪悪な存在なんだと思うから、公爵に対して自分の正当性を訴えることもできず、牢に閉じ込められても どんな反撃もしない――。
だが、瞬のこの力は正義を行なうためにある力だ。

「魔女? なら、俺も魔女か? 違う。この力は地上の平和を守るために使うべき力だ。地上を滅ぼそうとする邪悪が現われた時、その邪悪と戦うのが、俺たちアテナの聖闘士だ」
「に……にいさん。ギリシャから来た にいさん。じゃあ、瞬ちゃんは魔女じゃないのかい?」
俺に確認を入れてきたのは、瞬ではなく、例の不作法で気の利く女官だった。
どうやら彼女も――もしかしたら、この場にいる者たち全員が――内心では その疑いを抱いていたのかもしれない。
瞬の力は 邪悪な力なのではないかと。
俺は、彼女の疑いを即座に否定した。

「そんなものじゃない。そもそも魔女なんてものは、この世に存在しない。魔女というのは悪魔と契約した人間のことだろう。悪魔がいないのに、魔女がいるはずがない。魔女というのは、キリスト教が欧州に入ってきた時、布教に邪魔だった土着の宗教を否定するために、キリスト者が作りあげた幻想だ」
あの宗教の推進者たちは、アテナでさえ邪教の神扱いをするからな。
たかが人間に作られた新興の成り上がり宗教の分際で。
あげく、宗教改革だ、聖地奪還だと争いと流血ばかりを求めている新興宗教の方が、ギリシャの神々より よほど邪教だと、俺は思うぞ。
布教者、聖職者たちと違って、素朴な信者たちはわりとまともなんだが。

「あたしら、瞬ちゃんが魔女でもいいと思ってたんだよ。魔女は、以前はどこの村にでもいたからね。薬草使いの婆さんや産婆さん、魔女は いてもらわなきゃならないものだった。にいさんは瞬ちゃんが好きみたいだし、瞬ちゃんの安全が守られるなら、ギリシャでも どこにでも連れてってほしいと思ったりもした。でも、瞬ちゃんがいなくなると、困る者が この国には大勢いるし、今のままじゃ、公爵様はどうあっても、瞬ちゃんを牢から出してくれそうにないし、八方ふさがりで……」
それまで賑やかに騒いでいた宴会参加者たちが、不作法女官の言葉に同感したように、揃って黙り込む。
ここにいる奴等は皆――いや、この国の民は皆、そういうジレンマを抱えて迷っていたらしい。
なぜ 神に背いた存在であるはずの魔女の力が、これほど優しく温かいのか――。
そうしようと思えば 瞬をこの牢から逃がすことは容易なことなのに そうせずにいたのも、そのあたりの迷いに邪魔されてのこと。

この問題は、やはり、瞬を牢から出すだけでは解決しないんだ。
彼等にとっては(一応)いい領主だったカイザーが 瞬と和解し、瞬を邪悪なものでないと認めなければ、皆の心はいつまでも迷いを抱えたままでいる。
公爵も、ゴールディを惑わした邪悪なものとして、いつまでも瞬を憎み、追い、その力を消し去ろうとし続けるに違いない。
(一応)いい領主のカイザーがネックだ。
あの男が、瞬の清らかさを認め受け入れることができるようになりさえすれば、すべては丸く収まる。
俺の恋も、次のステップに進むことができる。
となれば、俺がすべきことも、おのずと決まってくるな。


「公爵は俺が説得する――改心させる」
「改心させるって、どうやってだい? 公爵様は どうしようもなく頑固だよ」
その上、嫉妬に狂っているしな。
だが、自分の命を守るためとなったら、どんな頑固な人間も、多少は己れの信念を曲げなければならなくなるだろう。
そこが狙いだ。
「俺が この城を俺の小宇宙で凍りつかせる。皆、瞬の許に逃げ込め。死にたくなかったら、公爵もここに逃げてくるしかなくなる。そこで説得する。公爵も、己れの命が惜しかったら、少しは柔軟になって、俺の話を聞くくらいのことはしてくれるだろう」
「氷河さん……。どうして、魔女なのかもしれない僕のために そこまで――」
瞬は、こんなに綺麗で善良で優しいのに、自分の価値がわかっていないんだろう。
だから、自分を迷惑な存在だと信じているような目で、俺にそんなことを尋ねてくる。
だが、俺にはちゃんと瞬の価値がわかっているんだ。

「おまえのその清らかな瞳を見たら、誰だって心を動かされる。誰だって おまえの命を救いたいと思う。誰だって おまえに幸福でいてほしいと願うだろう。おまえが、同じことを、自分以外の人間に対して望んでくれていることがわかるから」
そういうことだ。
だから皆が、魔女なのかもしれないと疑いながら、瞬を慕い続けてきた。
俺も同じ。
ここにいる奴等と同じ。
こいつらと俺が違うのは、俺がアテナの聖闘士で、瞬を救って正義を行なうための特別な力を有しているということだけだ。

瞬のために――翌朝 早速、俺はカイザー説得の仕事にとりかかった。






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