さしものカイザーが音を上げ、暖かい場所を求めて 瞬のいる石牢にやってきたのは、それから3時間ほどが経ってから。太陽が ほぼ中天にかかった頃だった。
カイザー以外の人間のことを考えて、俺は(一応)手加減して凍気を生んでいたんだが、それでなくても冷たい石造りの城での零下25度は、ドイツの冬をしか知らないカイザーには 冥界の氷地獄に放り込まれたようなものだったろう。
カイザーが3時間も意地を張り続けられたことが、俺には むしろ奇跡に思えた。
嫉妬の炎というものは、かなり熱いものらしいな。
が、そんなものは、瞬の優しく温かな心のようには長続きしないし、命の存亡という大事の前には無力。そして、無益だ。

「公爵様……」
城の者たち全員が、瞬の許に避難してきていた。
全員が牢の中に入るのは無理だったから、瞬は牢の外に出て 城の庭で その小宇宙を燃やしていた。
まかり間違って 本当にカイザーに死なれてしまっては困るから、瞬の許にくれば命が助かることを奴に気付かせるために、カイザーの目につくところで小宇宙を燃やせと、俺が 瞬に指示したんだ。

瞬の小宇宙の中は、春のように暖かい。
避難民たちは、暖炉の火が燃えている暖かい部屋の中から 雪景色を眺めている気分だったろう。
俺がカイザーの城に降らせているものは、雪ではなく――雪より もっと苛酷で美しいダイヤモンドダストだったが。
城の住人全員が2時間以上前に避難済みの瞬の許に、カイザーは いちばん最後にやってきた。
歯をがちがち言わせている公爵の姿に気付いた瞬が 奴の側に行こうとするのを、俺は止めた。
瞬はこれまでずっとカイザーに歩み寄ろうとしていたんだ。
カイザーは、そんな瞬をずっと拒絶していた。
ここは――今は――カイザーの方が、奴自身の意思で、奴自身の足で、瞬に歩み寄ってこなければならない。
まあ、俺が瞬を引き止めるまでもなく、カイザーの側に移動しようとした瞬を、カイザーの大馬鹿野郎は、
「俺に近寄るな!」
と、偉そうに制止しやがったんだが。

カイザーに拒絶の言葉を投げつけられて、瞬が悲しそうに眉根を寄せる。
おい。詰まらん意地を張っていると、貴様は本当に自分の城の中で凍え死ぬことになるぞ。
俺は頑固な公爵殿を、胸中で揶揄していた。
そんな俺の脇を すり抜けて、カイザーの側に駆け寄る者が一人――否、一頭。
『近寄るな』という言葉の意味は わからなくても、その命令の意図するところはわかっているはずなのに、ゴールディは自分の主人の命令を無視してカイザーの側に のそのそと歩いていった。
そして、歯をがちがち言わせているカイザーの身体を、その全身で くるりと包み込む。

「ゴールディ……俺は、こんな冷たい石牢に おまえを閉じ込めたのに……」
ゴールディが何をしようとしているのかは、瞬の側を離れた途端に霜が降り始めたゴールディの身体を間近で見ることになったカイザーには、もちろんすぐに わかっただろう。
ゴールディが、死に瀕している主人を見捨てることができず、我が身をもって 主人の命を救おうとしていることは。
だが、俺の凍気は そんなに生ぬるいものじゃない。
ゴールディの体温は どんどん下がっていく。
そうなれば、カイザーの身体を温めるどころか、カイザーは冷たい氷の塊に抱きしめられているも同然の状態になるだろう。
それは、絶命の時を早めるだけの行為だぞ。
まあ、ゴールディの凍りついた身体の方が、ダイヤモンドダストを舞わせている外気より温かいのは確かだが。

「瞬の側に行かないと、貴様だけでなくゴールディも凍え死ぬぞ。貴様は それでいいのか」
それでいいわけがない。
しかし、頑固な男は どこまでも頑固だった。
「ゴールディ。おまえは瞬の側に行け。俺といると、おまえまで凍え死んでしまう」
そして、頑固な主人に飼われている化け猫は、どこまでも健気。
「きゅ〜ん」
ゴールディは、悲しげな声を喉の奥から漏らし、だが、決して馬鹿な主人を見捨てようとはしなかった。
「ゴールディ。俺はいいんだ。このままでは、おまえまで死んでしまう。おまえだけは生きてくれ……!」

頑固な人間は、その心までが冷たく硬いわけではないらしい。
ゴールディの命をかけた忠誠心に、カイザーは無感動ではいられなかったらしい。
馬鹿。いい歳をした大の男が、公衆の面前で だらだら泣くんじゃない。
この気温の中で泣いたら、涙が凍りついて目を開けていられなくなるぞ。
仕方なく、俺は少し凍気を弱めようとしたんだが――頑固な男は どこまでも頑固だな。
そして、馬鹿だ。
賢明な人間なら、ここで大人しく降参し、二人(一人と一頭)が生き延びる道を選ぶだろうに、カイザーの大馬鹿野郎は、どこまでも自分の意思を通そうとした。
「俺が先に死ねば、ゴールディも皆も助かるのか。アテナの使いよ。俺を殺し、皆を救ってくれ……!」

ったく、どうして『ごめんなさい。俺が馬鹿でした』の一言が言えないんだ、この頑固者は。
立場上、俺はここで貴様を許すわけにはいかないのに!
「アテナの使いよ、俺を殺せ」
「きゅ〜ん」
「ゴールディ、おまえは俺の分も生きるんだ」
「きゅ〜ん」
「ゴールディ! 俺の命令がきけないのか!」
「きゅ〜ん」

えーい、いい加減にしろ、この大馬鹿主従!
泣くなと言っているのが わからんのかっ。
あああああ、猫まで泣き出しやがった。
こうなると もう滅茶苦茶だ。
正義の聖闘士である俺が、頑固な馬鹿者たちに折れるしかない。
苛立ちながら、俺がそう決意した時だった。
「誰も死なせません」
そう言うや否や、瞬が春の小宇宙を爆発させ、レオブルクの城を春そのものの暖かさで包んでしまったのは。

瞬の小宇宙のすごいところは、恐ろしく強い力を持っているのに熱くならないところ、あくまでも“暖かい”状態をキープするところだ。
強さと抑制。
その2つを両立できないと燃やすことのできない春の小宇宙。
それは、すべてを焼き尽くす炎ではなく、すべての命の活動を止める超低温でもなく、凍える冬の中で一度は死んだ命を復活させる、強く優しい春の力だ。
だから、カイザーも負けるしかない。
俺の凍気には死んでも屈しようとしなかったカイザーが、暖かい春の中で、
「俺が間違っていた」
と 自らの非を認めたのは、結局のところ、奴が 小宇宙の力ではなく、瞬とゴールディの優しい心に揺り動かされたからだったろう。






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