仲間たちの予想通り、生まれて この方、料理らしい料理を作ったことは一度もないという瞬が、レシピ本を見ながら 生まれて初めて作ったオムレツは、少なくとも 見た目は完璧だった。
形が美しい葉型をしているだけでなく、焼け具合も均一、焦げ目ひとつなく、全体的に ふっくらしていて、中がほどよく レア状態なのだろうことが察せられる見事な造形のオムレツが3つ。
「ど……どうかな……。本に書いてあった通りに作ったんだけど。せっかく苦労して形を整えたから、味見をして形を崩したくなくて」
ダイニングルームのテーブルに着いた仲間たちの前にオムレツの載った皿を並べる瞬の態度は ひどく自信なさげだったが、幾多の戦いを経験して少々考え方が捻くれていた瞬の仲間たちは、瞬の自信のなさを 逆に美味フラグだろうと思ったのである。
『美味しいかどうか わからない』と自信なさそうな料理人に提供された料理が、その言葉通りに美味しくなかったら、それは当たり前すぎてドラマにならないではないか。

「オムレツは やはり形を整えるのが いちばん難しいだろうから、そこがクリアされているということは期待が持てるかもしれんな」
「ここまで完璧な形のオムレツは 初めて見たかもしれん。これなら十分に商品として 金をとることもできるぞ」
これほど美しい形を持つオムレツなら、味に多少の難があっても 許されるのではないか。
紫龍と氷河は半ば以上本気で そう思ったのである。
瞬が生まれて初めて作ったオムレツの形は それほど――芸術的といっていいほど理想的な曲線で絵がられていたのだ。
味見のために形を崩したくないという瞬の気持ちが、彼等には よくわかった。
よくわかったのだが、その形を崩さないことには、肝心の味を確かめることができない。
紫龍と氷河は、それこそ断腸の思いで、そのオムレツにスプーンをさし込んだのである。

その快い感触。
数秒後、とろりと ほどよい半熟状態の卵が姿を現わす。
控えめに広がる、卵独特の優しい香り。
それは、実に見事なレアオムレツ。
瞬の仲間たちの期待は、否が応にも高まることになったのである。
そうして、彼等は運命の一口に挑んだ。
それは、まさに運命の一口だった。
瞬が生まれて初めて作ったという、完璧な形のオムレツ。
それを一口 舌の上に乗せた瞬間、紫龍と氷河は、最も神に近い男・乙女座バルゴのシャカが、死んだ身をおして、現世どころか過去世にまで出張し、瞬を乙女座の黄金聖闘士に指名した訳がわかったのである。
シャカは、万難を排しても、瞬を乙女座の黄金聖闘士に指名しなければならなかった。
瞬は、どうしても乙女座の黄金聖闘士にならなければならなかったのだ。

聖闘士に限らず一般人も――自らに害意を持つ敵対者からの攻撃を その身に受けたいとは思わないだろう。
その人物がマゾヒスティックな欲望に支配されているのでもない限り。
氷河と紫龍は 仕事柄 苦痛には慣れていた。
しかし、彼等は決して被虐趣味の持ち主ではない。
痛みに慣れ、他の人間より苦痛に対する耐性が発達しているだけだった。
そんな彼等が、瞬のオムレツを一口食べた その瞬間、何が何でも天舞宝輪を その身に受けたいと心の底から願ってしまったのである。

天舞宝輪。
乙女座の黄金聖闘士シャカの、ある意味、異様に えげつない攻撃技。
それは、対峙する人間から五感を奪い、更に第六感までを奪うことで、敵の無力化を図る攻防一体の戦陣である。
瞬のオムレツの真実に触れた途端、その技を我が身に受けたいと、氷河と紫龍は痛切に思った。
味覚を奪われるだけでは、瞬のオムレツに太刀打ちできないことを、彼等は、幾多の戦いを戦い生き延びてきた聖闘士の直感で感じ取ることができてしまっていたから。

視覚。
そもそも、その美しい形が元凶なのだ。
聴覚。
“とろり”と、オムレツの理想を体現したような その音が、もはや 悪夢のようである。
触覚。
張り詰めた表層、ふんわりと やわらかい その感触が、食する者を惑わせる。
嗅覚。
強く主張はしていないが、それゆえに ほどよく食する者を誘う、火を通した卵の甘い香りが、食する者に錯覚を生じさせる。
そして、味覚。
食する者たちの視覚、聴覚、触覚、嗅覚に訴えるものが完璧すぎるほど完璧であるがゆえに、瞬のオムレツは最凶にして最悪だった。
その完璧さが、食する者の味覚を狂わせるのだ。
更には、人の心をも――第六感までをも。

氷河は絶句した。
紫龍も絶句した。
何を言うこともできなかった。
これを単に『不味い』の一言で言い表わしていいのだろうか。
それは、一般的な(?)不味さへの冒涜なのではないだろうか。
料理を不得手とする世界中の人間が、瞬のオムレツの不味さと自分の料理の不味さを同列に語られることを、断固として拒否するだろう。
『不味い』と言うのも はばかられるほどの不味さ。
瞬のオムレツの不味さは、まさに究極、まさに至高、まさに芸術。
それは、神の小宇宙をすら無力化する、世界創造時のカオスより更に 謎めいた、虚無のごとき不味さだったのだ。
氷河たちが悲鳴を上げなかったのは、鍛え抜かれた聖闘士の心身のゆえではなく、そうするだけの力を瞬のオムレツによって奪われてしまったからに他ならなかった。

「美味しい?」
「あ……ああ、なかなか いけるんじゃないか。なあ、氷河」
「う……うむ。初めてにしては上出来……なのかもしれん」
力を奪われ、悲鳴をあげることさえできなかった彼等が、かろうじて そう答えることができたのは、それでも やはり、彼等が鍛え抜かれた心身を持つ聖闘士だったからだったろう。
食した人間に天舞宝輪を受けたいと切望させるほど、異様な力を持つ瞬のオムレツ。
天舞宝輪の更に上をいく瞬のオムレツを、一口だけとはいえ食してしまったのである。
常人であれば、五感を剥奪された廃人同様の ありさまになっていたかもしれない。
彼等が生きて、瞬の告げる言葉の意味を解し、それだけでなく一応 意味の通る答えを返すことができたのは、ただただ彼等がアテナの聖闘士だったから――幾度も死の危機に直面し、その中で希望を捨てずに戦い抜き、常に勝利し 生き延びてきたアテナの聖闘士であればこそだったろう。

「ほんと? 僕、氷河と二人暮らしできそう?」
一般に 料理の腕前というものは、へたであるより上手であった方がいいものである。
城戸邸を出ることには気乗りしていないようだったが、生まれて初めて作った料理に及第点をつけてもらえたことは、瞬には喜ばしいことだったのだろう。
瞬は ひどく嬉しそうに、氷河と紫龍に明るい笑顔を向けてきた。
「こ……これなら余裕でできる――と思う」
嬉しそうな笑顔を浮かべている瞬に 他に何が言えるのか。
こんな笑顔を作らせてしまって、今更、『おまえの料理は殺人的に不味い』という残念な事実を瞬に伝えることは、紫龍には死んでもできなかった。
何といっても、瞬と二人暮らしをするのは 自分ではなく白鳥座の聖闘士なのだ。
混乱のあまり、平生の自分を見失った紫龍は、無責任にも、瞬に そう答えてしまっていた。
答えてしまってから、言い訳がましく、氷河に低く囁く。

「も……もちろん、決めるのはおまえだが、俺としては、命と精神の健康を保ちたいなら、二人暮らしは諦めた方がいいのではないかと――」
それは言い訳なのか、忠告なのか、あるいは慰めだったのか――いずれにしても紫龍は 彼が氷河に告げようとした言葉を最後まで言うことはできなかった。
彼がその言葉を告げようとしたキグナス氷河はその時、幻魔拳をかけられたわけでもないのに、地獄を――まさに地獄を――見ていたのだ。
城戸邸に留まることにすれば、瞬は白鳥座の聖闘士との同衾を拒否し続けるだろう。
かといって、城戸邸を出れば、瞬の手料理という 一日三度の天舞宝輪希求の運命が待っている。
これは まさに“前門の虎、後門の狼”状態。
今 氷河は、逃げ場のない虚無の ただ中にいた。
しかも それは、幻魔拳と違って解けることのない技 覚めることのない悪夢。
そして、永遠の地獄なのだ。

愛も恋も命あっての物種。
命がなければ、人は欲望を感じることもできない。
その時 氷河は、命と瞬の両方を失わないために、事実を知らせて瞬の繊細な心を傷付けないために、永遠のプラトニックに生きることを決意した。
決意するしかなかったのだ。
彼は、命も 瞬も失うことはできなかったから。
が、その時。
氷河の苦渋の決意を無にし、瞬の繊細な心を傷付ける残酷な男が一人、アテナの聖闘士たちの前に登場したのである。

「まっずーっ!」
言ってはならない その一言を ダイニングルーム中に響き渡らせたのは、瞬のピンクの小宇宙の最大の被害者。
冥府の王ハーデスの美しい肉体に傷を負わせるという快挙を成し遂げた者の聖衣を継ぐ男。
瞬の仲間にして、幼馴染みでもある某天馬座の聖闘士だった。






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