翌朝、瞬を目覚めさせたのは、朝の陽光ではなかった。
瞬を目覚めさせたものは、冴えて冷たく、それでいて、ひどく熱っぽい王の視線の力だった。
氷河と同じ色の瞳で、王が彼の恋人(?)を見詰めている。
その瞳に出会った途端、王が後悔していることを知り、瞬は泣き出してしまいそうになったのである。
王は、昨夜の情熱を後悔しているのだ。
にもかかわらず、涙を耐えるために引き結んだ瞬の頬に触れてくる王の手は温かく、優しかった。
彼は、昨夜 彼が翻弄し貪り尽くした瞬の身体を いたわるように その肌に触れ、それから これ以上 自分を抑えていることができないと訴えるように、瞬の裸の身体を抱きしめた。
そのまま低い声で、彼の苦悩の訳を瞬に語り始める。

「1年前――俺は、イスの都の王になれという天の神からの声を聞いた。『王とは何をする者だ』と問うた俺に、天の声は言ったんだ。王の務めは、この都の水門の鍵を守ること。ただ それだけだと。この都は神の恩寵によって、いつまでも豊かで平和であり続けるから、他にすべきことはないと。水門の鍵を守る義務さえ果たしていれば、王は、王としての権力を行使でき、贅沢も思いのまま。王になる条件は、イスの国を守る神以外の神を受け入れないことのみ。そして、一度 王になれば、イスの都が滅び去る その時まで、王位は返上できない――」
「そうして、陛下は、神からイスの都の水門の鍵を渡されたんですか?」
どうやら、王は 神にイスの都の水門の鍵を授かっていたらしい。
鍵を見付けられないことで 王は焦慮しているのかもしれないという、瞬の考えは 見当違いなものだったらしい。
瞬は、よくない可能性が一つ消えたことに安堵したのだが、王は そんな瞬に後悔の色を更に濃くした眼差しを向けてきた。

「陛下……?」
「この都の水門の鍵は、この国の王が最も愛する人。王が誰かを愛せば、その人が この都の水門の鍵になる。王は、神が求めたらすぐに、水門の鍵を生贄として神に差し出さなければならない。神が いつそれを王に命じてくるのかは わからない。100年後かもしれない。明日かもしれない――」
「王が最も愛する人が、水門の鍵になる……?」
イスの都の王が変わるたび、水門の鍵に新たな名が付される訳――それは、そういうことだったのだ。
「俺は、その時 誰かを――おそらく 母を亡くしたばかりだった。人を愛することは二度とないと思っていた。だから、深く考えずに王になると答えたんだ。俺が王になっても、愛する人はいないんだから、俺が失うものはない。愛する者を生贄に捧げるなんて、そんなつらいことを他の誰かにさせることもないだろうと思った。だというのに、俺は王として この城の主になった途端、おまえに会ってしまった」
「陛下……」

「愛すまいと思ったんだ……! おまえを この都を守るための生贄になどできない。おまえをわざと遠ざけようともした。だが、俺は その時にはもう、おまえなしでは生きているのも つらい状態になっていて――」
「あ……」
自分は王に愛されていた。
出会いの時から 愛されていた。
王の告白は、瞬には 心が震えるほど嬉しいものだった。
彼に身体を貫かれた その時より、王の愛を知らされた今の方が、瞬の心と身体は歓喜に震えていたかもしれない。
だが、それは、イスの都の王にとっては、悲嘆と苦渋だけで できている事実のようだった。

「すまん。瞬。おまえは 俺に愛されて、この都の水門の鍵になってしまったんだ……」
瞬に そう告げてくる王の声には、人を愛した喜びの片鱗さえなく、ただ苦い響きを帯びているばかりで、瞬を悲しくさせたのである。
「僕が……イスの水門の鍵……」
瞬が悲しいのは、自分が水門の鍵として生贄にされることではなく、自分の存在が王を悲しませていることだった。
他に悲しいことは何もない。
「おまえを愛する気持ちは止められない。消すこともできない。悩んだ俺は、神に王位を返上したいと願い出たんだ。だが、神は、それはできないと 取りつく島もなかった」

『そなたもか』
と、イスの都を作った神は 王に言ったのだそうだった。
『余が選んだ これまでの王は、誰もが同じことを言ってきた。王になることの意味、その務めが どんなものであるか承知して王になっておきながら、あとになって ぐずぐずと見苦しく。王にしてやった余への感謝の念も持たず。なぜ神よりも、王の地位、権威、権力よりも、たった一人の詰まらぬ人間への愛を選ぶのだ、そなたたちは!』
神は そう言ってイスの王を責めてきた――らしい。

「これまでの王が誰もが同じことを言ってきた……?」
500人を超える歴代のイスの都の王たち。
瞬は、イスの都の王の数の多さの訳が やっとわかったのである。
500人の王が30年の治世を持ったとして、15000年。
それは一つの王国が存続するには あり得ない長さだが、王が即位後1年で恋をしたなら500年。
王国の存続期間として、それは決して あり得ない時間ではない。

『そのような勝手は許されぬ。今になって余に そのようなことを言い出すとは、神への不敬。そなたは、余にイスの都の王として選ばれた時、なぜ 拒まなかったのだ!』
神に そうなじられ、王は返す言葉もなかったらしい。
「俺は、恋がこれほど突然 生まれるものだとは知らなかった。これほど強く、消し去り難いものだとは知らなかったんだ」
王が、己れの無知を悔いて呻く。
瞬は、王を責める気にはならなかった。
“瞬”が“氷河”への恋に落ちた時もそうだった。
“恋に落ちる”とは、よく言ったもの。
それは本当に一瞬の出来事だったのだ。
それまで 信頼できる仲間の一人だった人が、突然 違う何かに一変する――。

『余が そうせよと命じた時、そなたが水門の鍵を余に差し出さぬなら――イスの都の王が水門の鍵を使うことを拒んだ時、この都は海中に没する』
『余に生贄を捧げれば――人への愛を捨て、神への忠誠を示せば、そなたは、いつまでも理想の国イスの王として、この都に君臨し続けることができるのだ。よくよく考えよ』
そう言い残して、神の声は消えていったらしい。

「俺は、イスの都の王でいることなど望まない。おまえを失いたくない。これが俺一人だけのことなら、迷うことなく神に逆らう。おまえが生きていてくれるなら、俺の命など今すぐ失われてしまっても構わない。イスの都が海の底に沈んでも どうでもいい。イスの都の民が 俺を恨んで死んでいくことにさえ耐えられると思う。だが、今の俺には、おまえを救う術がないんだ……!」
「陛下……」
王の優しさ、王の苛立ち、王の苦渋――すべては、たった一人の ちっぽけな人間のためだったのだ。
その事実を知った時、なぜだろう、瞬は心も身体も――気が遠くなりそうなほど強い幸福感に支配されたのである。
自分の命が、存在が失われることなど、この幸福感を知ってしまった今 どれほどのものだろうと、瞬は思った。
イスの民に死はない。
神の従順なしもべでいる限り。
だが、神ならぬ身の自分、その命も存在も いつかは消え去る時がくる。
その時が、思っていたより少し早くなるだけのことなのだ。

「陛下。どうか、苦しまないでください。僕は――」
氷河に愛されないことと、ふいに 命を絶たれることの どちらかを選べと言われたら、迷うことなく死を選ぶ。
瞬は、王に そう告げようとした。
『僕は、喜んで死を選ぶ』と。
それで王の心が少しでも軽くなるのなら、明るく笑うことさえしてみせようと、瞬は思った。

そんな瞬の上に、
『それが、そなたの水門の鍵か』
という、聞き慣れない声が降ってくる。
王が 彼の水門の鍵を庇い守るように、その胸の中に抱きしめたので、それがイスの都を作った神の声なのだということが、瞬にもわかった。
神――神というものは、無限の慈愛を感じさせるもの、もしくは 犯し難い尊厳を感じさせるものなのだろうと、瞬は思っていたのだが、イスの神の声は どこか人間的で――地上的。
この神は 人間同様、感情というものを持っているのだと感じさせる声を、イスの都の神は持っていた。

『王位の返上など許さぬ。今日だ。今日、水門の鍵を余に捧げよ。そして、王はイスの神に忠誠を誓い、王として生き続けるのだ。それで、イスの都も安泰。そなた、よもや 己れ一人の恋のために、このイスの都と この都の住人すべての命を消し去ろうなどとは思うまいな。それは畜生にも劣る行為だ。よいか。今日だ。今日の正午、そなたは そなたの水門の鍵を イスの浜の犠牲の岩に捧げるのだ』
「き……今日だと !? ま……待て。頼む、瞬の代わりに、この俺を――」
王が神に食い下がろうとした時には既に、神の声の気配は消えていた。
王が――昨夜は、瞬の四肢を か弱く細い木の枝にも思わせていた たくましい肩を震わせる。
その肩に頬を押しつけて、瞬は微笑み、告げた。

「陛下、そんなに苦しまないでください。僕、生贄になります」
「駄目だ!」
言下に返ってきた王の怒りに燃えている声も、だが、今の瞬には 少しも恐くなかった。
「陛下。僕は――僕は、自分がすっかり陛下に嫌われてしまったのだと思っていた。そんな僕には生きて存在する価値もないと思った。そうでなかったことがわかっただけで――陛下に愛してもらえたことで、僕はもう 他の人の一生分の幸福を知りました。心残りはないんです」
「駄目だ。おまえなしでは、俺も――俺が生きていられない!」
「でも、陛下。僕は陛下に生きていてほしいんです。僕を生贄に捧げなければ、この都は海中に沈んでしまうんでしょう? イスの都の人々諸共、僕も陛下も。陛下が僕を生贄に捧げても 捧げなくても、僕は死ぬ。それなら、犠牲は僕だけで済ませた方がいいでしょう? 簡単で わかりきったこと、考えるまでもないことです」
「簡単なことじゃない!」
「簡単なことです。何の罪もないイスの都の人たちの命は守られなければなりません」
これが二人の命だけで片付く問題なのであれば、瞬は神とでも戦うつもりだった。
だが、そうではないのだ。
瞬の採るべき道は、一つしかなかった。
『瞬は、神や恋より、イスの都の住人の命を最優先しそうだ』
シガン岬の岩頭で、氷河が言っていたように。

「逃げよう。この国から。二人で」
「駄目です。水門の鍵である僕が この国から逃げ出してしまったら、神は、王の約束が成されなかったと見なして、イスの都と都の住人を海の底に沈めてしまうでしょう」
「ならば、俺も おまえと共に犠牲の岩に立つ」
「それも駄目です。神は 陛下に、神への忠誠と 人間への愛の どちらかを選べと言っているんです。陛下が僕と死んでしまったら、陛下は 神を選んだことにならない。陛下の選択を知った神は、イスの都を海の底に沈めてしまうに決まっている」
「だが俺は、どうしても おまえ一人を死なせることはできない。おまえに、この運命を与えてしまったのは、この俺だ!」
「僕は、その運命を喜んでいます」
「おまえが喜んでいても駄目だ。俺はちっとも嬉しくないんだから! おまえは神のものなんかじゃない。おまえは俺のものだ!」
「陛下……」

瞬に それ以上 分別のある言葉を言わせまいと考えたのか、王が、昨夜とは 打って変わって躊躇のない愛撫を 瞬の身体の中心に加えてくる。
「ああっ……」
『おまえは俺のものだ』という自分の言葉が、『水門の鍵を神に捧げよ』という神の命令と同じように身勝手な暴言だということに、王は気付いていない。
幼い子供のように、欲しいものを欲しいと言い張るイスの都の王。
そんな子供を愛してしまった恋人は、我儘な子供の分も大人にならなければならない。
瞬は王の愛撫に屈した振りをして、胸中で静かに計算を始めた。
これから正午直前まで 王をこの身体に引きつけさせ、力を使い果たさせ、神が命じた その時には、王が目を開けることもできないほど満足しきって眠っている状態にするには どうすればいいのかを。
王が眠っているのは、ほんの短い時間でいいのだ。
その隙に、王の水門の鍵が 犠牲の岩に向えばいい。
その計算を完璧に遂行する自信が、瞬にはあった。






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