「それで、おまえ、結局、その女たちとの正式なお付き合いは諦めたのかよ?」
星矢が大車輪を30回でやめたのは、それが彼の限界だからではなく、星の子学園の 遊技場に面した宿舎の窓に園長の影が見えたから。
そして、星矢が大車輪を行なっていた遊具が鉄棒ではなく ブランコの支柱だったから――だった。
『本来の使用方法以外のやり方で 遊具や運動器具を使い、それで怪我をする者が出るようなことが起きると、私と学園は 監督責任を問われ、その遊具を遊技場から撤去しなければならなくなるんです。子供たちが真似をしたがるような悪い遊び方は、決してしないように。特に、星矢』
と名指しで、星矢は、星の子学園の園長先生に 厳しく釘を刺されていたのだ。
『学園を出た君たちが しばしば学園に遊びに来てくれるのは とても嬉しいんですけどね。子供たちも喜んでいますし。でも、いつ どこで 誰が 何を見て、児童相談所にクレームを入れるか わからない ご時勢なんですよ、今は』
星矢たちが この学園にいた頃には、『子供は 少しくらいは無茶をして、痛い思いを経験しておいた方がいい』を教育方針にし、星矢の多少の腕白も大目に見てくれていた園長先生に そう言われ、寂しそうに微笑まれると、星矢としても、彼女の前では いい子にならざるを得なかったのだ。

綺麗に着地を決めた星矢に、一瞬 首をかしげるようにして、瞬が頷き返す。
「そりゃあ……。兄さんが駄目だって言うんだもの。仕方ないから、ジュネさんたちとは非公式のお友だちとして付き合ってもらってるよ」
「非公式のお友だち? 友だちに、正式な友だちと非公式の友だちがいるのかよ?」
「兄さんの許可をもらえれば 正式で公式なお友だち。もらえなければ 略式で非公式のお友だちだよ。兄さんも、正式に お付き合いするんでなく、ただの友だちならいいって言ってたし」

「略式、非公式か。結局 友だち付き合いは続けているのか」
論理的に破綻しているわけではないし、国語の文法的にも間違いはない。
だが、『論理的に破綻していなければ、理論として正しい』と言うことはできない。
紫龍の呟きには そういう意味が込められていたのだが、そんな紫龍に、瞬は 瞬の理論で答えてきた。
「だって、お友だちだもの。ジュネさんもヒルダさんもパンドラさんも、みんな 親切で 優しい人たちだよ」
星矢、紫龍、瞬、一輝、そして、今はまだ この場に来ていない氷河は、この星の子学園の出身者である。
より正確に言えば、幼い頃の一時期を 共に この学園で生活を共にした仲間同士だった。
共通点は両親がないことのみ。他は 性格も姿も家庭環境も かなり違う五人が、なぜか意気投合。
学園を出たあとも、この学園で定期的に会合を持ち、その友情は既に10年超の長きに渡っている。
現在は、星矢は 姉と、紫龍は 血の繋がらない祖父と、氷河は 親権者に提供されたマンションで一人暮らしをしていた。

「だって、お友だちだもの――ってさあ……」
瞬は“正式なお付き合い”の意味を取り違えているような気がしてならない。
星矢と紫龍が、瞬の理論を一般的なものだと思うことができないのは、そこに引っかかりを覚えるからだった。
「なあ、おまえ、“正式な お付き合い”って、どういうことかわかってんのか?」
「わかってるよ。男子と女子が 周囲の承認を得て 親交を深めることだって、僕に教えてくれたのは星矢じゃない」
「いや、それは間違ってないと思うんだけどさあ」
それでも、瞬の言動は どこかが“普通”と ずれている。
その“ずれ”を、だが、星矢は うまく言葉にして説明することができなかった。
そんな星矢と瞬の間に、紫龍が 別の問題を提起してくる。

「しかし、一輝も少々 過保護が過ぎるんじゃないか? 瞬はもう小さな子供ではないんだし、瞬の意思と判断を もう少し尊重してくれてもいいと思うんだが」
「一輝の奴、案外、誰と面接しても NGを出すつもりなのかもしれないぜ。我が最愛の弟を 女になんか渡してたまるかーっ、てんでさ」
「まさか」
「まあ、それは冗談だけど。でも、友だちって、そういうもんなのかよ? 付き合うのに、兄貴の許可が必要なんて」
「でも、兄さんは僕のためにしてくれてるんだし」
「でもよ。そんなふうにしてたら、おまえ、一輝の許可なしには 何もできないことにならないか? 何をするにも一輝の許可が必要ってことになったら、おまえだって あれこれ いろんなことを我慢する羽目になるだろうし」
「僕、何かを我慢したことなんかないよ?」
「……」
瞬は完全に本気で そう思い、そう言っている。
瞬のそれが、諦めでも 開き直りでもなく、本心からの素直かつ正直な発言だということが わかるから、星矢と紫龍は、瞬の精神の強靭さ――なのだろうか? ――に、感嘆せずにいられなかった。

「そういや、俺たちは 一輝の面接 受けてないけど、それは問題ないのかよ? 俺たちは これまで通りに おまえのオトモダチでいていいのか?」
「星矢たちは、兄さんも子供の頃から知ってるし 今更面接試験も何もないでしょう」
「まあ、面接に来いって言われても、行く気はねーけどさー。それで不合格通知なんか渡されたら、一輝と 取っ組み合いの喧嘩になっちまいそうだし。あ、氷河の奴、やっと来たぜ」
『俺は群れるのは嫌いだ』を口癖にしている一輝が 星の子学園での この会合に来ることは滅多になかったので、氷河の登場で予定メンバー全員集合である。
彼等は、今日はこれから 星の子学園の春の遠足候補地3ヶ所の下見に出掛ける予定になっていた。
そんな予定のことなど忘れているかのように、遅刻して到着した氷河が なぜか突然 仲間たちの前に(というより、瞬一人に)、自分の遠足計画を持ち出してくる。

「瞬、今度の日曜、“家具と雑貨のフレンチ・アンティーク展”というのが、HSホールであるそうなんだ。一緒に行かないか?」
「フレンチ・アンティーク展?」
「ああ。18世紀19世紀のフランスの田舎家をテーマにした 家具や雑貨の展示会だそうだ。食器なんかもあるらしい」
「へえ……。素朴で おしゃれで可愛いものがいっぱいありそうだね。僕は行きたいけど、そういうの好きだけど、でも、氷河も そういうのに興味があったの?」
「あったわけではないんだが……先週、俺の部屋に来た時、俺の部屋の殺風景なのに、おまえが呆れていたようだったから」
「そんなことないよ。お掃除が楽すぎて、気が抜けちゃっただけ。家具より、調理器具が少なくて困ったかな」
「なら、おまえのために それも買い揃えよう」

氷河が周囲の空気や人間の存在を無視して 自分のしたいことだけをし、自分の話したいことだけを話すのは いつものことなので、星矢と紫龍は、自分たちを無視して展開される氷河と瞬のやりとりに不快を感じることはなかった。
不快を感じることはなかったのだが、しかし。
氷河と瞬の そのやりとりは、不快を感じないからといって すんなり聞き流してしまえるようなものではなかったのである。

氷河は現在、顔も知らない親権者から生活費を渡されて、都内のマンションで一人暮らしをしている。
氷河に生活費を出している彼の“顔も知らない親権者”というのは、実は氷河の実父なのではないかと、星矢たちは疑っていたのだが、彼等はその件を氷河に確認したことはない。
氷河が『俺の父だ』と言わないのだから、その人物は 氷河にとっては父ではない誰かなのだろうと、星矢たちは思っていた。

氷河の その一人暮らしの部屋に、どうやら ごく最近、瞬が出掛けていったらしい。
そして、部屋の掃除やら食事の支度やらをしてやったらしい。
世話好きの瞬が、一人暮らしの仲間の暮らし振りを案じたというのなら、それは さほど不思議なことでも 不自然なことでもない。
遊びに出掛けたのではなく 家事の手伝いに行ったというのであれば、他の仲間たちを誘わなかったことにも合点はいく。
氷河と瞬のやりとりが それだけだったなら、星矢と紫龍も何も思わなかっただろう。
氷河と瞬のやりとりが それだけでは終わらなかったから、星矢と紫龍は 平静でいられなくなってしまったのである。

「俺は、自分の周りに余計なものはおかない主義だったんだが、少しは おまえの好みの可愛いものを置いた方がいいのかと思ってな。その方が おまえもリラックスできるだろう」
「僕のために?」
「キス一つに、あんなに緊張されると、俺としても次のステップに進みにくいんだ」
「やだ。氷河ってば」
氷河のフレンチ・アンティーク物色の理由を知らされた瞬が、その頬を ぽっと薄紅色に染める。
そうしてから 瞬は、その場に 自分たち以外の人間がいることを思い出したのか、二人の部外者の上に一瞬 視線を走らせ、だが すぐに恥ずかしそうに その顔を伏せてしまった。

「い……いつのまに……」
星矢の その呟きには、『仲間たちに知らせず、いつのまに 二人の仲は そこまで進展していたのか』という意味合いより、『遅刻常習、色恋を含んで人間一般に無関心といっていいところのある氷河が、いつのまに、しかも これほど迅速に、瞬との仲を そこまで進展させていたのか』という意味合いの方が強かっただろう。
だが、星矢は まもなく、今は氷河の素早い仕事振りに感心している場合ではないということに気付いたのである。
「こ……このことを、一輝は知っているのか !? 」
星矢より先に その大問題に気付いていたらしい紫龍の声には、隠しようもない動揺と焦慮と恐怖の響きが たたえられていた。
「そ……そーだ! おまえら、一輝のお許しはもらったのかよ !? 」

いくら この世に二人きりの兄弟とはいえ、同性の兄弟を 臆面もなく“我が最愛の弟”と枕詞つきで呼び、その弟の幸せだけが俺の願いと言ってのける あの一輝は、このことを知っているのか。
おそらく知らないからこそ、氷河はまだ生きているのだろうが、もし このことを知ったら、一輝はどうするのか――どうなるのか。
そして、瞬は、その辺りのことをどう思っているのか――。
それは、光あふれる地上世界の存続をさえ 揺るがしかねない超大問題だった。
美しかった地上世界が大参事に見舞われる様を想像して、頬のみならず全身から血の気が失せてしまったような星矢と紫龍の様子を、瞬が不思議そうに見詰めてくる。

「兄さんのお許し……って、どうして? 氷河だよ? 僕たち、小学校に入る前から いつも一緒だったのに、今更 兄さんの許可なんて もらう必要はないでしょう。兄さんも、氷河のことはよく知ってるし、僕たちは全員、10年来の親友同士じゃない。今更 人となりのチェックなんて、そんなことして、何の意味があるの」
「……」
もちろん、今更 そんなことをしても何の意味もない。
今更 氷河の人となりをチェックなどしなくても、瞬の兄は それを熟知しているのだ。
氷河の無愛想、氷河の不作法、協調性皆無、人間不信、更には 人間への無関心。
その氷河が、瞬にだけは好意を抱き、瞬だけは信じ、瞬にだけ執着していること――。

瞬は、兄と氷河が仲のいい親友同士だと信じているようだったが、二人の仲は決して そんな穏やかで平和的なものではなかった。
二人が10年来の知り合い同士ということは事実だが、氷河と一輝は 常に反目し合い 反発し合い、互いに互いを邪魔な障害物だと思っていた。
二人の間に、瞬という存在があるせいで。
そんな二人が これまで表立って争うことがなかったのも、二人の間に瞬という存在があったせい。
瞬の前で見苦しい 角突き合いをすることはできないから、彼等は表面上は 何の問題もない知り合い同士という役柄を演じ続けていたにすぎないのだ。
自分と一輝の そんな関係を知らないはずのない氷河が、星矢と紫龍に(その実、瞬に聞かせるために)実に堂々とした大嘘を吐く。

「俺と一輝の間で、今更 許可も何もないだろう。俺と一輝は10年来の大親友だぞ。俺たち五人は、人生の最も苦しかった時期、最も孤独だった時期を、互いに助け合い、支え合い、信じ合って耐え抜いてきた仲間同士。たとえ この世界が滅亡するようなことがあっても、俺たちの友情と信頼は決して滅することはないだろう」
「……」
氷河は自分の感情に正直すぎるせいで、好きでもない他人に愛想を振りまくことができず、嘘をつくこともできず、どうしても他者との間に距離を置いてしまう男――。
これまで、星矢と紫龍は そう思っていた。
だが、それはどうやら 大変な誤解だったらしい。
正直すぎるどころか――氷河は、自分の欲しいものを手に入れるためになら、平気で神の前でも嘘をつける男だったらしい。

もちろん瞬は、氷河の言葉が嘘だけでできていることになど気付きもしない。
瞬は、氷河の その言葉に、罪のない笑顔で こっくりと頷いた。
「そうだよねえ。改めて 正式なお付き合いの許可なんてもらいに行ったら、きっと兄さん、氷河の他人行儀を悲しむと思うの。水臭いって言って、残念に思うに決まってるよ」
「そりゃ、悲しむだろうし、残念がるだろうけど」
「僕と氷河の仲が悪かったら、一輝兄さんも心配するだろうけど、僕たちの仲がいいのなら 何の問題もないでしょう? 兄さんも 安心して 喜ぶだけだよ」
「一輝が喜ぶ……かなー……」
つまり、一輝は 今現在、何も知らないのだ。
瞬が氷河の一人暮らしの部屋に行って、掃除をし、食事の支度をし、緊張しながらキスをして、あまつさえ、その先のステップに進むために二人でフレンチ・アンティークの購入を計画している――という驚愕の事実を。

ここで、その驚愕の事実を一輝に教えてやるのが10年来の親友の務めだろうか?
星矢と紫龍は、ふと そんなことを考えた。
もしかしたら そうなのかもしれない――と、一瞬だけ。
だが、そんな親切をして、10年来の親友に殴り飛ばされるのは、割りに合わない話である。
最愛の弟を 世界で最も嫌いな男に奪われてしまったことを知らされ、怒り狂い、正気を失った一輝なら、たとえ相手が10年来の親友たちでも、手加減を忘れ 殴り殺してしまわないとも限らない。
10年来の親友を殺人犯にしないために――星矢と紫龍は、この件に関しては 命がけの沈黙を貫くことを、その時 その場で 無言のうちに、固く固く決意したのだった。






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