一瞬、氷河は、場所を移動したのは 自分なのか、それとも世界の方なのかと、本気で迷ってしまったのだった。
常識で考えれば、それは前者に決まっているのだが、なぜ そんなことになったのか、氷河には その訳がわからなかったのだ。
あの世界にいて瞬を見ているのが つらいと感じた氷河の心を感知した あの世界が、自分の中から白鳥座の聖闘士を弾き出したのだろうか。
それとも、もともと住む世界が違う二人が 束の間でも同じ世界に共に在り、言葉を交わせたこと自体が奇跡だったのか。

今 氷河にわかることは、あの世界で感じた やるせなさが、まだ自分の身体と心の中に 残っているということだけ。
そのやるせなさが、氷河の心身から力を奪っていく。
氷河は、疲れ切った老人のように その場に座り込み、ぼんやりと本物の空を眺めながら 考え始めた。

瞬は、非力な無辜の民のみならず 醜悪な人間にも同情はするが、基本的に神に対して従順であり、人は神の命令には従うべきであると考えている人間。
生きるために戦うのが当然だと考える自分とは、違う世界の住人である。
自分と瞬は、鳥と魚。
同じ世界に住むことは不可能な二人なのだ。
どれほど瞬に心惹かれても、この恋は 鳥が魚に恋するようなもの。
水の中では――それも、澄み切った水の中では――生きていることのできない鳥は、違う世界から恋しい人の姿を見ていることしかできないのだ――。
絶望的な気分で、氷河は そう思ったのである。
空に住む鳥と、水に住む魚。
決して触れ合うことができないのなら――住む世界が違うのなら、いっそ どちらの世界も壊れてしまえばいいとさえ。

もちろん、氷河はすぐに、自分は“世界”の存続を守るために戦うアテナの聖闘士だということを思い出し、自分の中に生まれた 世界の破滅を願う心を打ち消すことをしたのだが。
そもそも“世界”が壊れてしまったら、そこに住む瞬までが消えてしまうかもしれない。
そんなことになってしまったら、自分は、恋する人の姿を見ているという、ささやかな喜びさえ失ってしまうではないか。
住む世界は違っても、同じ考え方をすることはできなくても、せめて その姿だけは見ていたい――。
その思いに突き動かされて 立ち上がり、氷河は再び泉の岸から、瞬の住む世界を覗き込んだのである。
そして、次の瞬間、氷河の頬からは血の気が引いていった。

最初に覗き込んだ時には 澄み切っていた泉の水が、今は 墨を流し込まれたような薄墨色になっていて、氷河は 瞬のいた花園の様子を確かめることができなかったのである。
まさか、自分は もう二度と瞬に会うことはできないのか――。
その可能性を考えただけで、氷河の心は冷たく凍りついてしまった。
異世界への扉だったニューサの野の泉。
もしかしたら、その扉は、あのアレトゥーサの泉のように場所を変えてしまったのだろうか。
あるいは、これは、あの世界にハーデスがいる間だけの一時的な現象なのだろうか――?

きっとそうだ、そうであってくれと願いながら、氷河は懸命に目を凝らした。
だが、泉は いつまで待っても薄墨色のままで、瞬と瞬のいる世界を映し出してはくれない。
氷河は慌て、混乱し、ほとんど恐慌状態に陥ってしまったのである。
聖域に戻り アテナの助力を仰ぐことを考えもしたのだが、もし この泉の岸を離れている間に 瞬のいる世界への扉が再び一瞬でも開かれることがあったならと思うと、どうしても泉の岸を離れることができない。
その一瞬を逃したくなくて――氷河は そこから動くことができなかった。
いっそ この薄墨色の泉の中に飛び込んでみようかとも思ったのだが、それで 瞬のいる世界とは全く違う世界に運ばれてしまったら、それこそ 取り返しのつかないことになる。

なぜ 自分は、二人は住む世界が違うなどと思ってしまったのか。
せっかく束の間でも 瞬と同じ世界にいることができたのに、住む世界が違う瞬の姿を見ているのが つらいなどと、なぜ思ってしまったのか――。
住む世界が違っても――価値観が違い、考え方が違い、大切なものが違い、信じるものが違っても、瞬の姿を見ていたい。
瞬の側にいたい。
瞬の許に行きたい。
氷河は、心の底から そう思った。
心底から、そう願った。
願いながら――まるで大馬鹿者の代名詞ナルキッソスのように、氷河は 泉の中を見詰め続けたのである。

いったい どれほどの時間、そうしていたのか。
1日か2日か10日か1年か、あるいは それは ほんの数刻にすぎなかったのか――。
まさか、結ばれぬ恋に苦悩する氷河に同情したわけではないだろうが、やがて 泉は徐々に透き通り始め、再び 瞬の花園、瞬のいる世界、瞬の姿を、氷河に見せてくれた。
「見えた!」
瞬の姿――会うことはおろか、二度と見ることさえできないかもしれないと恐れた瞬の姿。
その姿を認めることのできた次の瞬間、氷河は あとさきも考えず、泉の中に我が身を躍らせていた。






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