暖かい春の微風。
花園の中に 小さな城館。
その城館の前、咲き乱れる花の中で、水の空を見上げて立つ瞬の姿。
不吉な影の色をしたハーデスの姿は、もう そこにはない。
だが、もし そこにハーデスの姿があったとしても、氷河は同じことをしていたに違いない。
「瞬……!」
以前来た時と全く同じ光景に出会った氷河は、たが、以前に来た時のような逡巡も覚えずに 瞬の側に駆け寄り、その勢いのまま 瞬の身体を強く抱きしめていた。

「氷河……?」
氷河の勢いと振舞いに驚き戸惑ったような瞬の声。
それでも構わず、氷河は瞬を離さなかった。
強く抱きしめ続けた。
「もう会えないかと思った……!」
生きる世界が違うから どうだというのだろう。
ならば 世界を一つにしてやるとさえ、氷河は瞬の細い肩を抱きしめながら思ったのである。
「もう会えないなんて、そんな……。つい さっきまで一緒にいたのに」
ついに巡り会った母親に 二度と離れるまいと訴えて しがみついているような氷河の振舞いが 解せないというように、瞬が 氷河の胸の中で呟く。

どうやら泉の色が薄墨色に変わるのは ハーデスが この世界にいる間だけの一時的な現象で、泉が再び瞬の姿を氷河に見せてくれたのは、ハーデスが この世界から立ち去ったから――だったらしい。
瞬が水の空を見上げていたのは、この世界を立ち去る際にハーデスが水の空に残していった波紋が消える様を見詰めていたからで、もしかしたら 瞬は、氷河がしばらく地上世界に戻っていたことにも気付いていなかったのかもしれない。
氷河には100年にも感じられた長い時間は、実は ほんの数刻のことだったのだ。
だが、その数刻で、氷河は瞬への100年分の恋心を募らせ終えていた。
しかも、その恋心は、再会が叶ったことで、更に強まるばかり。
100年も恋し続けた人に 秘密を持ってはいられない――自分の すべてをさらけ出し、少しでも自分を理解してほしい。
その思いが、氷河に、彼が何者であるのかを瞬に語らせることになった。

「瞬。俺は、知恵と戦いの女神アテナに従う者、アテナの聖闘士だ。地上を滅ぼそうとするハーデス軍と戦っている。ハーデスの敵だ」
瞬を抱きしめていた腕を そっと解き、だが その手は離さずに、瞬を花の中に座らせる。
できる限り視線の高さを瞬と同じにして、氷河は、その事実を瞬に告げた。
「え……」
瞬が僅かに その瞳を見開き、氷河の顔を見上げてくる。
氷河にとっては幸いなことに、氷河が何者であるのかを知っても、瞬の瞳の中に 憎悪や恐怖の色が浮かぶことはなかった。
「俺は、ハーデスの言葉を借りて言えば、花を枯らす害虫なんだ。地上世界で生きている人間は皆、そうしないと生きていけないから。地上で生きている人間たちは、花を枯らしながら、それでも生きていたいと叫び、わめき、ハーデスへの抵抗を続けている」

瞬は、ハーデスの意に沿うべく生きている者。
ハーデスを悪しざまに言われれば、傷付くことになるだろう。
そして、自分たち二人は敵同士なのだという意識を強くすることになるかもしれない。
そうならないように、氷河は かなり慎重に言葉を選び、アテナの聖闘士たちの立場を 瞬に訴えた。
そのつもりだった。
瞬が――ハーデスの陣営にいるはずの瞬が、地上の人間たちとアテナの聖闘士に、氷河には思いがけなく感じられるほどの同情を示してくれる。
「氷河は、氷河の世界と そこで生きている人たちを守りたいよね……」
自分自身と、地上世界ではない この世界に言いきかせるように しみじみと、瞬が小さな声で呟く。
地上世界の害虫の心と立場を、瞬は理解してくれているようだった。
おそらく、瞬も かつては その世界で生きている人間の一人だったから。
氷河は、瞬の手を握りしめたまま、瞬に尋ねた。

「おまえはなぜ、ここに連れてこられたんだ。おまえは その訳を知らされていないのか?」
「地上で最も清らかな人間だから、僕が地上世界にいて汚れていくのを見るのは忍びなかった――って、ハーデスは言ってた」
「……」
“地上で”最も清らかな人間。
やはり瞬は、元は 氷河と同じ世界の住人だったらしい。
心や精神の次元のことは さておき、物理的には。
しかし、“地上で最も清らか”とは。
地上の人間が皆こうなら、確かにハーデスは地上を滅ぼそうとは考えなかったのかもしれない――と、氷河は思ったのである。
だが、汚れた人間たちとて、好きで汚れたわけではない。
彼等は、瞬のような強さや 確固たる理想を持たず、弱かったために、楽な方に――汚れを受け入れる方に――流されただけなのだ。

それが、瞬が生きる世界と 瞬以外の人間が生きる世界を分ける大きな――巨大で強固な――空であり、水であることは わかるのだが、それでも氷河は願わずにはいられなかったのである。
瞬を地上世界に連れていくことはできないだろうかと。
だが、そうすれば、ハーデスの言う通り、瞬もまた汚れることになるのだろうか。
あるいは、瞬は あくまでも自らの清らかさを守り続け、そのために、汚れた地上と そこに住む人々のために傷付くことになるのだろうか。
氷河には、後者の可能性の方が高い――ように思われた。
だからこそ、言いにくかったのである。
『この平和な花園を出て、俺と共に 地上世界に来てくれ』とは。
その言葉を言ってしまえずにいる氷河に、瞬が切なげな目をして尋ねてくる。

「氷河は ずっと この世界にいることはできないの? 元の世界に戻らなければならないの?」
住む世界が違う鳥と魚は、全く同じことを――だが、真逆のことを、考えていたらしい。
鳥は、魚に空の世界に来てほしいと。
魚は、鳥に水の世界に来てほしいと。
だが、それは叶わぬ夢なのだ。
「ここはハーデスが作った世界なんだろう? ハーデスがそれを許すとは思えないな。俺はハーデスの敵、ハーデスにとっては招かれざる客だから」
「……ハーデスが許しても、きっと氷河は自分の意思で地上に戻っていく……。氷河は、氷河の世界と そこに生きている人たちを守りたいから……」
「瞬……」

瞬の瞳には涙がにじんでいた。
ハーデスが作った平和で汚れのない この世界で、瞬はずっと一人きりだったに違いない。
実体を この世界に運ばない(運べない?)ハーデスは、一人ぽっちの瞬を抱きしめてやることもせず(できず)、瞬が この世界で 人と触れ合ったのは―― 一人ぽっちの瞬を抱きしめてやったのは、おそらく 白鳥座の聖闘士が初めてだったのだろう。
瞬は この平和な世界で ハーデスの敵に出会ったことで、自分が孤独であることに気付いてしまったのかもしれなかった。

「ハーデスに……僕が本当は何者なのかを教えてって頼んだの。この世界に来る前、僕はどこにいて何をしていたのか、教えてって。でも、ハーデスは教えることはできないって……」
「そうか……」
冥府の王ハーデスの孤独な囚われ人。
ハーデスは、瞬の清らかさを守るために、瞬が一人の人間としての尊厳を持って生きることを許さない。
それがハーデスの――神の――意思なのだから、瞬はハーデスのその言葉を受け入れるのだろう。
少なくとも、受け入れようとはする。
だが、心というものを持ち、自らの意思というものを持つ一人の人間が、孤独で清らかな人形として生き続けることは、どれほど つらいことか。
瞬の瞳が潤むのは、当然のことだった。
「瞬、泣かないでくれ」

清らかで心優しく、かわいそうな瞬。
ふいに、水の精ルサルカの死の口付けの言い伝えが、氷河の脳裏をよぎる。
だが、それで死んでも――今 瞬に口付けることができないのなら、生きていても無意味だと、氷河は思ったのである。
瞬の唇は 優しく 甘く、やわらかく 苦く、氷河の唇に快さと苦しさを 同時に運んできた。

「すまん。一緒にいてやりたいんだ。叶うことなら。いや、叶うことなら、俺は おまえを俺の世界に連れていきたい」
ハーデスが、そんなことを許すとは思えない。
ハーデスにとって瞬は、こんな世界を作って 地上の汚れから遠ざけようとするほど 特別な存在なのだ。
瞬も、神に逆らってまで、自分の望みを叶えようとは思わないだろう。
瞬は、たとえ孤独であっても、平和な世界を望んでいる――争いのない世界での暮らしを望んでいるに違いないのだ。

鳥と魚の恋。
鳥は 魚に空の世界に来てほしいと望み、魚は 鳥に水の世界に来てほしいと望む。
だが、二人には そうすることができない。
二人は 生きていられる世界が違う。
氷河は、瞬が望むように、この世界で生きることはできなかった。
ここは氷河の世界ではないから。
瞬も、それは同じなのだろう。
鳥と魚の恋は決して結ばれない恋。
諦めるしかない恋なのだ。

そう思い、氷河が この恋を諦めようとした時だった。
瞬が、ふいに、違う願いを口にしたのは。
「僕は、氷河と行きたい。氷河と一緒にいたい」
瞬は、氷河に そう言ったのだ。
『ずっと、この世界にいて』ではなく、『僕は、氷河の世界に行きたい』と、瞬は氷河に そう言った――そう言ってくれたのだ。
「そ……んなことをすれば、おまえは、ハーデスの言うように、地上の汚れに染まってしまうかもしれない。そうならなければ、清らかであることで、おまえは つらい思いをすることになるだろう。地上は、汚れた人間と争乱で満ちているんだ」
「それでも、僕は氷河と一緒にいたい」
「瞬……」

地上で最も清らか。
神に従順であることを是とし、平和で美しい世界をしか 知らない瞬が、そんなことを願い、そんな願いを口にするには――願うだけでも、口にするだけでも、尋常でない勇気を必要としたことだろう。
そんなことを願わなければ、瞬は 清らかなまま、平和で美しい世界で 憂いのない暮らしを続けることができるのに、瞬は、清らかでも平和でもない世界で 汚れと血に染まった男と共に生きることの方を望み、願ってくれたのだ――。

アテナなら 力を貸してくれるかもしれない――と、氷河は思ったのである。
アテナが神の身でありながら 人間たちに味方してくれているのは、彼女が 平和や人類の存続を望んでいるからではない。
彼女は、『生きたい』と望み、そのためになら神との戦いも辞さない人間の“足掻き”が好きなのだ。
その“足掻き”を生むものが 愛と希望であることを知っているから。
愛する人を守りたい。
神に比して どれほど弱い存在であっても、希望を捨てたくない。
だから、神にも抗う。
アナテは、神のくせに、人間の そういう面に好意を抱き、それが神の力にも勝る力なのではないかと考えている。
アテナなら、瞬の勇気に価値を認め、瞬の願いを叶えるために、力を貸してくれるかもしれない――。

“希望”は、アテナの聖闘士の必携物。
鳥と魚の恋も 結ばれることはあるかもしれない。
瞬に その勇気があるのなら。
瞬が それを願っていてくれるなら。
否、鳥と魚の恋は、既に成就していた――氷河の恋は 既に成就していた。
瞬が、その勇気を奮い起こしてくれた時に。


「瞬。しばらく、ここで待っていてくれ。おまえの望みを、俺が叶えてやる」
「えっ……」
「聖域のアテナなら、それができるかもしれない。アテナに――俺の命と引き換えに、おまえの望みを叶えてくれと願い出てみる」
「な……何を言っているの。僕は、氷河の命を犠牲にしてまで、自分の望みを叶えたいなんて――」
「俺が叶えたいんだ。俺の命を犠牲にしても」
「氷河! 僕の望みは、氷河と一緒にいることだよ……!」

瞬が何か言っていたが、100年の恋が実って 浮かれている氷河の耳には、今は外界の音は何一つ届いていなかった。
今 氷河に聞こえているのは――その心の中で響いているのは、『瞬をハーデスから解放し、瞬が瞬の心のままに生きていけるようにするのだ』という、氷河自身の願いのみ。
(聖域へ! アテナの許へ!)
氷河が、心の中で そう叫ぶと、次の瞬間、彼の叫びは現実のものになっていた。






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