アテナの許に戻った私は、自分が見聞きして確かめたことを彼女に報告し、彼女の前で深い溜め息をついた。
あの二人は、自身の選択を悔やみ、あるいは 未来の選択を恐れ憂えて、自分では全く意図せずに世界の秩序を乱している。
その根底に悪意がなく、あの二人が他のどんな人間より、地上世界と人類に対する強い責任感を抱いているのは明白で、あの二人に罰を与えることは どんな神にもできないだろう。
すべては あなたの言った通りだった。
――とまあ、そんなふうな私の報告を聞いたアテナは ひどく驚いて、それこそ 驚くべきことを私に告げてきた。

「地上の平和より 愛する人の命を守ることの方を優先させた……? 氷河と瞬がそう言ったの? それは違うわ。そうではないの。氷河と瞬が実際にしたことは、その逆のことよ」
「逆?」
その逆って、それは つまり、あの二人が 恋人の命より地上の平和を守ることの方を優先したということ?
え? えええええ?
それって、どういうこと?
それって、少なくとも アテナの聖闘士としては正しい選択よね?
一人の人間として見たら、称賛されていい選択だわ。
アテナの聖闘士としても、一人の人間としても、決して 良心の呵責に苛まれるようなことじゃない。
――と、私は思うんだけど。

全く訳がわからない。
なぜ二人は――瞬は、自分が 地上の平和より 氷河の命を守ることの方を優先したなんて、私に嘘をついたの。
嘘をつく必要なんかないじゃないの。
そんな必要なんか、どこにもない。
というか。
瞬の嘘の内容より、瞬が――あの澄んだ瞳の持ち主が嘘をつけたことの方に、私は驚いた。
混乱している私に、アテナが事実を告げてくる。

「氷河は――地上の平和や そこに生きている多くの人間より 瞬の方が大事だと、自分は瞬のために聖闘士になったのだと、常日頃から公言していたわ。瞬が地上の平和を望むから 自分も それを望み、瞬が私の聖闘士でいるから、自分も聖闘士でいるのだと、私の前でも堂々と口にしていたのよ。なのに、いざとなったら――氷河は地上の平和を選んでしまったの」
あら。
どちらかを選ばなければならない場面に直面したら 恋人を選ぶと言い、実際にそうしたと大口を叩いていたくせに。

「瞬は、氷河とは逆で――不幸な人間が あふれている世界では 自分は幸福になれない、自分の個人的な幸福より 地上の平和を守るために戦うことを優先させるのが聖闘士の務めだと いつも言っていたわ。そして、そのどちらかを選ばなければならない場面で――地上の平和と 氷河の命のどちらかを選ばなければならなくなった時、実際にそうしてみせた。でも、それは、地上の平和を守るために 氷河の命を見捨てることで――自分の選択の結果、瀕死の重傷を負って生死の境をさまようことになった氷河の姿を見て、瞬はそれを後悔した。いえ、後悔したというより、自分の選択は正しかったのかと 迷うことになったのかしら。瞬は、自分の幸福より、自分以外の人間の幸福を願う子よ。でも、氷河は、そんな瞬にとって、幸福でいてほしい自分以外の人間の筆頭だったから……」
なるほど。
自分の幸福より、自分以外の人間の幸福。
そして、恋人は“自分以外の人間”の一人だものね。
でも、それじゃあ――。

「じゃあ、あの二人は、どちらを選んでも後悔するということ? 彼等は、自分より、自分の恋人より、見も知らぬ赤の他人が生きている地上世界の平和を守ることの方を選んだ。実に立派なことじゃないの。なぜ罪悪感に支配される必要があるの。どこに 自分に罰を与える必要があるの」
ご立派な選択をして、罪悪感に苛まれ、あげく世界の秩序を乱す存在に なり果てた二人。
それが正しい選択なのかどうかということはさておいて、自分の幸福を犠牲にし、自分の恋人より 地上の平和を選ぶという行為は 立派な行ないではあるわよね。
その立派な行ないが招いた、よろしくない結末。
全く気に入らないわ。
これは、私の大嫌いな“理不尽”というやつよ。

「人間としての正道、恋人としての正道、聖闘士としての正道。それらが一致していれば、問題はなかったのかもしれないけど……」 
アテナは 私より深い溜め息を洩らし、そう呟いた。
溜め息しか出ないわよね、ほんと。
「二人は混乱しているんでしょう。記憶も心も。何が正しい選択なのか わからなくて。また 同じ選択を迫られることを避けたくて、その事態を避けるために、氷河と瞬は、互いを見なくて済む世界を望んだのかもしれないわ」

二人は、恋人の命より、地上の平和を守ることの方を選んだ――選んでしまった。
そして、選んでしまってから、迷い始めた。
自分がどちらを選んだのかが わからなくなるほど、それは難しい選択だったのね。
自分が どちらを選ぶべきだったのかが わからず、次に選ぶべきはどちらなのかを迷い――瞬が 事実と違うことを語ったのは、自分の選択によって傷付き倒れた氷河の姿を見るのが、それほど つらかったからに違いない。
選ばずに済むなら、そうしたかったでしょうに。
二人は、罪悪感と言うより、選ぶのが恐いから、選択肢の一方を見えなくした――というわけか。
良心や責任感、自省心に恵まれすぎている人間というのも、面倒で厄介なものね。

「もっと傲慢になればいいのに。『これが自分の選択だ。他人に文句は言わせない』と考えられるくらい傲慢になってしまえば、二人は こんなことにはならなかったはずよ」
「それはそうだけど、それは独裁者の考え方よ」
そうね。
独裁者になってしまえば、当人は傷付かないけど、周囲の人間を傷付け 苦しめる。
確かに、それは“いいこと”じゃない。

「そんなふうに、地上世界の平和と 愛する人の命を天秤にかけて選ぶことを 二人に強要したのは私よ。あの二人には どんなとがもないわ。私は、二人を元に戻したいのよ。この先も、私は 二人につらい選択を強い続ける。せめて、平和な時には、二人に幸福な気持ちでいてほしい」
アテナが――独裁者以上に傲慢でいていい神とは思えないほど つらそうな目をして、私に訴えてくる。
そうね。
それは私も同感。
いい人間が、いい人間であるせいで不幸になるなんて、とんでもない理不尽。
そういうの、私は大嫌い。
そういうのって、世界の秩序を乱すことだもの。

そうか。それで、アテナは私を ここに呼んだわけね。
まさに、秩序を回復するために。
存在するものが見えないっていう無秩序な世界を正すためじゃなく、幸福になって しかるべき人間が苦しんでいる理不尽を正すために。
私は、少し考え違いをしていたみたい。
ええ、私は秩序を乱すものが大嫌い。
アテナの望みは、私の望みでもある。
もちろん、努めさせてもらうわよ。
私は、理不尽や無秩序が、本当に、心底から、大嫌いだもの。






【next】