アテナの真意を理解した私は、再び氷河と瞬の許に赴いた。 『見えてはいないけど、氷河の心があるのは感じる。氷河が側にいて、僕を思ってくれているのはわかる』 そう言っていた瞬。 それは氷河も同じなのね。 二人は、さっきの場所から動かずに、アテナ神殿のファサードに佇んでいた。 その姿は見えないけど、自分の恋人が 側にいることを感じているのかしら。 なら、見えたっていいじゃない。 「お母さんの お仕事はまだ終わらないの?」 傍迷惑なほど澄んだ瞳を持つ瞬が、私に尋ねてくる。 私は それを無視して、瞬と氷河に言った。 「あなた方は、本当は、恋人の命ではなく、地上の平和を守ることの方を選んだと聞いたわ。アテナの聖闘士としては正しい選択を為したと。あなた方が罪悪感を抱く必要はないでしょう」 小さな子供の険しい口調に、瞬は少し驚いたような顔になり――でも、すぐに寂しそうな微笑を その目許に浮かべ、首を横に振った。 「そうだったかな……。でも、同じことだよ。僕が恐れているのは、いつかやってくるだろう次の選択の時なんだ。その時、氷河の姿が見えてしまったら、僕は地上の平和を守ることより 氷河の命の方を選んでしまうかもしれない。地上の平和を守るために、氷河の命を見捨ててしまうかもしれない。その どっちも嫌だから……だから 見えない方がいいんだよ」 瞬の声は聞こえていないはずなのに、まるで瞬の告げる言葉を察し 噛みしめ、理解しているみたいに、氷河が――氷河もまた、彼の答えを私に告げてくる。 「瞬の姿が見えるようになったら、俺はまた同じ過ちを犯すだろう。でなければ、違う過ちを犯してしまうだろう。どちらを選んでも、それは過ちで、どちらを選んでも、俺は 自分の選択を後悔する。どちらかを選ぶことを恐れているんだ、俺は。次にどちらを選んでも――瞬の命ではなく 世界の平和を守ることの方を選べば、俺は 瞬の命を危うくし、世界の平和ではなく 瞬の命を選べば、俺は 地上の平和を願う瞬の心を傷付ける。だが、選ばなければならないものの一方が見えなければ、俺は選びようがなくなる――それは選択ではなくなる……」 ええ。わかってるわ。 選ぶのが恐い。 選ばなければならない事態を避けたい――その場面から逃げたい。 世界の秩序を乱す今のあなたたちの、それが本心。 でも、それじゃあ 駄目なのよ。 私は、この地上世界と 地上世界で生きている多くの人間たちに対して 誰よりも誠実な心を抱いている二人に、心から同情していたけれど、あえて厳しい口調と言葉で 二人を責め始めた。 「甘ったれたことを言わないでちょうだい。あなた方は、それでもアテナの聖闘士なの? 選ぶのが恐い? 世の中には、選ぶことができない人間もいるのよ。自分で選んだわけでもないのに、自分が望んだわけでもないのに、勝手に この世界に命を与えられ、自分で選んだわけでもないのに、自分が望んだわけでもないのに、その命を奪われた人間が、この世界には大勢いるわ。選ぶ間もなく、ふいに その人生を断ち切られてしまった人間も大勢いるのよ!」 「え?」 なぜ私が急に そんなことを言い出したのか、そんなことを言えるのか――を、氷河と瞬は考え始めたみたい。 たとえば 戦いに巻き込まれ、たとえば予期せぬ天災のせいで、たとえば完治の見込めない病のために、選ぶこともできずに命を奪われた人々――。 おそらく 瞬は、私が そういう人たちのことを言っているのだと思ったに違いない。 そして、私みたいな子供――生きている子供が、不幸にして自分の人生を選ぶことができずに死んでいった者たちの無念を なぜ弁じることができるのかと疑った。 疑って、当然。 私は ここにいるべき者じゃない。 私は 子供の口調を放棄して、訝る瞬と氷河に命じた。 「私は、あなた方が羨ましい。あなた方には選ぶことができる。選べるという幸運に恵まれている。ならば、その幸運から逃げることなく、迷って迷って迷いぬいて、のたうちまわって生きなさい」 せっかく私が命じてあげたのだから、迷わず、選ばず、黙って従えばいいものを――二人は迷い、私の命令に従うか否か、そのどちらかを選ぼうとし始めたみたい。 これは、よい傾向ね。 それは、彼等が 他人の言葉に無条件に従ってしまうほど 選択することを忌避しているわけではないということだもの。 「僕の選択のせいで 地上世界が滅んでしまったら、僕は誰に謝ればいいの」 「それが嫌なら、氷河より地上の平和を選べばいい」 「それで瞬が死んでしまったら、世界が存続することにどんな意味があるというんだ」 「それが嫌なら、地上の平和より瞬を選べばいい」 その選択で どちらを選べとまでは、私も命じてあげられないわ。 そんなことをしたら、私は二人の選ぶ権利を侵害することになる。 私にできるのは、選ぶことを恐れるあまり、この世界の秩序を乱している二人を責めることだけよ。 「あなたたちは、この地上世界に生きている人間や 恋人に対して罪を犯すことを恐れ、不実を為すことを恐れ、後悔することを恐れているようだけど、選ばずに済む道を選んで 楽をすることには 罪悪感を覚えないの?」 「楽?」 瞬が、僅かに眉根を寄せる。 まさか そんな言葉を投げつけられるとは、瞬は思っていなかったんでしょうね。 自分は こんなにつらい思いをし、懸命に苦しみに耐えている。 だから、楽なんかしていない。 瞬は、そう思っていたはず――そんなことを考えもしないほど、そう思っていたはず。 でも、それは“楽”なのよ。 人は楽ではない道に逃げることはしない。 人が何かから逃げる時、それは楽な道を選ぶことと同義。 逃げ込んだ道が どれほど つらく苦しみに満ちた場所でも、逃げずにいることが 美しく幸せな花園にいることだとしても――逃げることは、自分に楽をさせる行為に他ならないわ。 「どちらを選ぶべきなのか、迷って答えを出す。人は皆、迷って選択を重ね、そして 自分の人生を作るもの。あなた方は その幸運な権利と義務から逃げている卑怯者よ」 私に卑怯者と断じられた瞬が、悲しそうな色を その瞳に浮かべる。 わかってるのよ、私にだって。 あなたが この世界に対して、アテナの聖闘士であることに対して、誠実であろうと願い、そのために 恋人の姿が見えない世界を作ってしまったのだということは。 私に卑怯者と断じられた氷河が、憤りと やるせなさの混じった色を、その瞳に にじませる。 わかっているのよ、私には。 あなたが あなたの恋人を 悲しませ苦しませないことを願って、恋人の姿が見えない世界を作ってしまったのだということは。 でも、あなた方のしていることは、自分の人生に対して不誠実で、自分に与えられた命を貶める行為だわ。 「迷っていいのよ。そして、間違ってもいい。それは 幸運なあなた方に与えられた当然の権利なのだから。もし あなた方が選択を間違ったら、その時には あなた方の仲間たちがフォローしてくれるでしょう。人は一人で生きているのではなく、あなた方も二人きりで生きているわけではないわ」 それが、神とは違う人間の強みね。 力弱く 有限の命をしか持たない存在。 だけど、人間は神と違って一人じゃない。 散々 私に責められて、二人は冷静さを取り戻しつつあるようだった。 ああ、やっぱり 二人が求めていたのは、許されることじゃなく、責められること。 アテナの聖闘士らしいといえば、アテナの聖闘士らしいことかしら、これは。 そんな二人の気持ちが わかっていなかったはずがないのに、アテナは二人を責めることはせず、許すことだけをした。 アテナは 自分の聖闘士たちが可愛くてならないのね。 仕様のない女神様だこと。 でも二人が冷静になって まともな判断力を取り戻し始めたのは、私には ちょっと不都合。 二人は、私が ただの子供じゃないことに気付いたようだった。 「君は誰」 「おまえは何者だ」 気付かない方がおかしいか。 なら、私は そろそろ二人の前から退散しなくちゃ。 私が彼等に知覚されていることは、それこそ 世界の秩序を乱すことだもの。 「私は――私は、この地上に生きている人間ではないわ。あなたたちのようにも迷うことも選ぶこともできないものよ」 そう告げて――私は、彼等の目に見えないものになった。 これが私の正しい在り方。 私は 生きている人間の目に触れてはならないもの。 私が彼等の前から姿を消すと同時に、彼等は 彼等の世界の秩序を取り戻したようだった。 彼等の世界――彼等の正しい世界。 愛する人が 自分の傍らにいる世界、愛する人の姿が見える世界を。 |