ヴィルロワ侯爵邸は、パリとベルサイユの ほぼ中間地点にあった。
パリにもベルサイユにも行きやすいところを選んで その場所なのか、パリからもベルサイユからも距離を置くために その場所なのか。
場所の選択理由は そのどちらともとれたが、パリ市内のルーブル宮の近くにも館があるのに、数年前に あえて この場所に新しい城館を建てたという話だったので、やはり 二つの都から距離を置くための この場所なのだろう。
ベルサイユが黄金の宮殿なら、ヴィルロワ侯爵邸は純白の城だった。
ゴシック様式とルネサンス様式が混在した城館は、イッキの居城にしては重厚さに欠けるが、野の百合の隠れ家には ふさわしい風情をたたえている。
イッキは、野の百合のために、あえて自分の好みではない姿を選んで、この城を建てたのだろう。
ヒョウガは、そう察した。

それにしても、その城館は、そのことごとくがベルサイユとは対照的な城だった。
庭の花や樹林は、計算された幾何学模様を描いて植えられておらず、自然のまま。
それこそ本物の野の百合が咲いていても おかしくないほどで、ヴィルロワ侯爵邸の庭の風情は、自然より人工を選ぶベルサイユの一般的な館の庭とは、まるで様子が違っていた。
その庭を、わざとらくシャンタル伯爵家の紋章付きの馬車で通り抜け、城の正面に馬車を停める。
イッキに取り次ぎを求めて、留守を理由に断られるのは予定通り。
『では、親族のどなたかに』と、これまた予定通りのセリフを、ヒョウガは口にした。

ヴィルロワ侯爵家の家令や召使いたちは、滅多な客人は城内に通さないよう厳命を受けていたのだろう。
その上、来客は悪名高いシャンタル伯爵なのだ。
その突然の訪問に驚き、ヴィルロワ侯爵家の家令たちはヒョウガを城の中に通すことに難色を示したが、結局 ヒョウガの強引とシャンタル伯爵家の名に負けて、彼等はヒョウガを城の客間に案内してくれた。
まずは 第一関門突破というところである。

ベルサイユ宮殿のそれとは違って、飾り気がなく 素っ気ない客間――不必要なものは何もない部屋。
派手な形や色の調度や家具もなければ、目を引く絵画等も飾られていない。
しかし、客のための円卓や椅子等、必要なものは すべて最上等。
それは、素っ気ないのではなく、見た目の華やかさより 実用性と快適さを追求した部屋だった。
採光も考えられていて、鏡の位置の工夫で、強くもなく弱くもない暖かい光が 室内を明るく満たしている。

「兄のお知り合いだとか。兄はあいにく不在なのですが、お急ぎの ご用件でしょうか」
ヒョウガは椅子には着かず、窓際で、どこかに百合の花の咲いていそうな庭を眺めていた。
そのヒョウガを振り向かせる声。
イッキを兄と呼ぶ、噂の野の百合の声。
声は甘く涼しげだった。
ヒョウガは無造作に、その声の方を振り返ったのである――本当に無造作に。
あのイッキの身内となれば、野の百合が噂通りに清廉潔白な人間であることは大いにあり得る。
だが、その姿までが噂通りであることは、ヒョウガは期待していなかったから。
期待のしようがなかったのである。
イッキは決して醜い男ではなかったが――むしろ 顔立ち自体は整っている男なのだが、彼の持つ美は あくまでも軍人にこそ ふさわしい それで、彼の肉親が“花の風情”を備えているとは非常に考えにくいことだったのだ。
だが――。

その場に登場したのは、素晴らしい美少女だった。
確かに“花の風情”をしていた。
噂通り――否、噂は所詮 噂にすぎないと思える、噂から想像できる領域を はるかに超えて、清純そのものの姿、その印象。
まだ10代半ば。
澄んだ瞳、やわらかい髪。
肢体は華奢だが、その動作には 無駄がなく、ほどよい緊張感をたたえている。
へたな兵士より隙のない その佇まいが やわらかく優しいものに感じられるのは、野の百合の眼差し、表情が やわらかく優しいから。
化粧気がなく――そもそも 飾り気がなく、イッキには まるで似ていない。
この美少女は、いかなる罪も知らず、告解なしでも堂々と神の御前に立てるに違いないと、ヒョウガは一抹の疑いもなく信じることになったのである。
それほど澄んだ瞳の持ち主だったのだ、噂の野の百合は。
こんな人間が、この人間世界にいるのかと、ヒョウガは 一瞬 あっけにとられてしまったのである。
噂の君は、まさに純白の百合の姿をしていた。

「あの……」
いつまでも無言で(実際は、意図して無言でいたのではなく、野の百合の清楚な姿のせいで 声も言葉も失わされていたのだが)その場に棒立ちになっているヒョウガに困惑したのか、野の百合が ヒョウガを見詰めながら首をかしげる。
百合の花の声に はっと我にかえり、ヒョウガは慌てて自らに活を入れた。
これから 手練手管の限りを尽くして手折り、虚飾に満ちたベルサイユに飾るに ふさわしいものに変貌させようとしている花に、ぼうっと見とれていてどうするのだ。
10万リーブルの賭け金はさておき、この賭けに負けることは、自分の力がイッキの力に及ばないという事実を認めなければならないということである。
この賭けに、俺は何としても勝たなければならないのだ――。
ヒョウガは、自分に そう言いきかせたのである。

その段になって、ヒョウガは、野の百合が男装していることに気付いた。
野の百合の澄んだ瞳、優しい面差しにばかり気を取られていて、ヒョウガは そのとんでもない事実に、それまで気付かずにいたのだ。
野の百合のガードが堅いだろうことは察していたが、まさか男装させているとは。
男子の衣装ごときが鎧の代わりになるものかと、ヒョウガは、イッキの浅はかさを――当然、野の百合の男装はイッキの指示だろう――胸中で嘲笑った。

「シャンタル伯爵だ。ヒョウガと呼んでくれ。君の兄上とは、士官学校で共に学んだ仲だ。俺は、父の急死で爵位を継がなければならなくなり、士官学校を途中でやめたんだが、在学中は 兄君とは親しくさせてもらった」
用意しておいた自己紹介文を一気に読み上げてから、その自己紹介が いかにも取ってつけたように響き、いかにも不自然なことに、内心で慌てる。
説明的すぎる自己紹介を不審がられるのではないかと案じたのだが、野の百合は そもそも人を疑うことを知らない人間のようだった。
野の百合は、やわらかな微笑をヒョウガに向けてきた。

「そうだったんですか。すみません。自分の交友関係とか、そういったことを、兄は僕には ほとんど話してくれなくて……」
どうやら野の百合は、ヒョウガ――シャンタル伯爵――の名を聞いたのは今日が初めてだったらしい。
ということは、野の百合は、ベルサイユ一のドンファン、ベルサイユ一の放蕩児というシャンタル伯爵の異名も知らないということで、それはヒョウガには大いに都合のいい事態だった。
「親しくしてもらったと言っても、俺は落ちこぼれだったから、君の兄君には、長く記憶しておくほどの者でもなかったろうが」
その言葉を、自虐的で卑屈――と、発言したヒョウガ自身は思ったのだが、野の百合は それをヒョウガの謙遜と解したらしい。
微かに左右に髪を揺らし、野の百合は 人間としての自分の名をヒョウガに教えてくれた。

「名前も名乗らず、失礼しました。僕はシュンといいます。兄は今、王命でストラスブールに赴任していて、この館には もう3ヶ月近く帰ってきていないんです」
「それは、俺をここに案内してきた家令に聞いた。ふと思い立って、懐かしさにかられ、つい立ち寄ってしまったんだが、少々 分別に欠けた行為だったな。失礼した」
「いいえ、こちらこそ。せっかく いらしてくださったのに、申し訳ありません」
野の百合――シュンは、虚礼ではなく、心から申し訳なさそうに そう言って、こころもち瞼を伏せた。
シュンの所作は、何をしても花の風情に見える。
ともすれば その姿に意識を奪われそうになる自分の緊張感を保つのに、ヒョウガは必死だった。

「いや、イッキの在宅も確かめずに押しかけてきた俺が礼を欠いていたんだ。……だが、そうか。それは残念だ。当時の思い出を語り合って 昔を懐かしみたいと思っていたんだが、それは またの機会に――」
ここでシュンに引きとめてもらえないと、この訪問が無駄足になる。
『頼む、引きとめてくれ』と、神に――というよりシュンに――祈りながら、ヒョウガは辞去の合図に 軽い会釈をしたのである。
これが運命の分かれ道、緊張の一瞬。
その一瞬ののち、ヒョウガは胸中で、『主を褒め称えよ(ハレルヤ)!』と叫んでいた。
花の姿をしたヒョウガの神は、ヒョウガの願いを聞き届けてくれたのだ。

「あ……せっかく いらしてくださったのですから、他にご用がないのであれば、その お話、僕に聞かせてくださいませんか? 兄は 本当に 必要なことしか話さない人で……僕、士官学校で 兄が どんなふうだったのか、全く知らないんです。ですから、ぜひ。すぐ、お茶の用意をさせます。それとも、ワインの方がいいですか?」
「いや、お茶で」
ここで遠慮をしてみせる余裕は、さすがにない。
ヒョウガが お茶を所望すると、シュンは嬉しそうな笑顔を浮かべて、小間使いを呼ぶ鈴を鳴らした。






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