「俺は本当は、イッキ――君の兄君の学友だったと偉そうに言える立場の人間じゃないんだ。そんな自分を認めることができず、昨日は君に嘘をついてしまった。すまない」
「え……?」
翌日、ヴィルロワ侯爵邸を再訪したヒョウガは、来訪の挨拶も そこそこに、シュンへの謝罪から入った。
『ご機嫌いかが』も無しに、ヒョウガに突然 頭を下げられたシュンが、彼の言葉と行動に戸惑ったように 二度三度 瞬きをする。
シュンの困惑を無視して、ヒョウガが 彼の言葉を続ける。
「君の兄君は 己れの初志を見失うことなく、自身の選んだ道を歩み、今はフランス王国軍で最も高い地位に就いている。それに比して、この俺は、腐った宮廷で すっかり堕落し、何を為すでもなく怠惰な時を過ごしている。そんな現実を認めるのが つらくて、昨日は嘘をついてしまったんだ。士官学校在学中、あらゆることで 君の兄君と競り合っていた あの頃が、俺の人生の中で唯一 充実し輝いていた時間だったから」
「あ……」
「今の俺は、宮廷の悪習に染まって 堕落しきった、生きて存在することに 何の意味もない塵芥のようなものだ」
「そんなことは……」

それは謙遜でも何でもない、ただの事実である。
認めることが つらい現実であることも、紛う方なき事実だった。
もちろん、そんな事実を認めたくはない。
人に そんなことを語ることも不快で、屈辱を感じる。
だが、その屈辱も、イッキの大切な弟を堕落させることで、イッキを怒らせ、あるいは嘆かせるための方便と思えば、ヒョウガは いっそ楽しんで耐えることができた。

イッキには何の恨みもない。
彼の栄達を羨ましいとも思わない。
ただ、彼の輝かしい成功によって、自分の現在の みじめな立場を思い知らさせることが不愉快でならないのだ。
イッキの掌中の珠であるシュンを汚すこと、堕落させること、そうすることによってイッキが味わうことになるだろう屈辱、その姿。
ヒョウガは、それが見たかった。
そんなイッキの姿を見られれば、自分は 今の自分の みじめな境遇に これからも耐えていくことができるだろう。
屈辱と憤りに満ちている哀れな心も慰められるに違いない。

ヒョウガにとって、この賭けは、かつてのライバルのそれとは あまりにも違ってしまった自分の人生への雪辱戦、人生への復讐だったのだ。
この賭けに勝つためになら、どんな卑怯な手も使うし、どんな屈辱にも耐えられる。
むしろ屈辱の中に我が身を浸すことさえ快いと思いながら、ヒョウガは、シュンに 自身のみじめな境遇を語ったのである。
堕落を知らず、汚れを知らず、自身の清らかさに傲慢になっているだろうシュンは さぞかし そんな男を哀れんでくれるに違いない。
そう、ヒョウガは思っていた。
『お気の毒に』
『かわいそうに』
『そんなに自分を卑下してはいけません』
そんな言葉がシュンの唇から発せられるだろう――と、ヒョウガは踏んでいたのである。
しかし、シュンの唇から発せられたのは、ヒョウガが想定していたものとは少々異なるものだった。

「伯爵が士官学校を中退されたのは、お父様が お亡くなりになったからだと伺いました。シャンタル伯爵家は有力で名門。有能な家令もいるでしょうし、爵位を継がなければならないからといって、学校をやめる必要はなかったはずですよね? 僕の兄も、在学中に父を亡くし爵位を継ぎましたが、学校をやめたりはしませんでした。伯爵は、どうして士官学校を おやめになったんですか?」
「なに?」
なぜシュンは そんなことを訊いてくるのだと、ヒョウガは シュンの問い掛けに困惑したのである。
そして、そんなことを訊いてくるなと、内心で苛立った。
共に将来を嘱望されていた二人の男。
一方は栄光に包まれ、一方は汚辱にまみれている。
清らかで同情心に篤い野の百合は、余計なことには気をまわさず、みじめな男を哀れみ、涙し、自分の手で救ってやろうと思い上がればいいのだ。
そうすれば彼は、差しのべられた清らかな手に すがる振りをして、その手の主を汚れ腐った沼の中に引きずり込んでやることができるだろう。
それがヒョウガの計画だったから。

が、ヒョウガの その計画は、(ある意味、非常に冷静な)シュンの問い掛けによって、少々狂ってしまったのである。
思ってもいなかったシュンの質問に 虚を衝かれ、ヒョウガは咄嗟に 上手い嘘を思いつけず、つい本当のことを答えてしまったのだ。
それは、父の死んだ場所がパリの別邸で、父が その別邸を家族に知らせずに購入したのは、複数の愛人との逢引のためだったことを、父の死後に知らされたから。
父がその屋敷で急死した時も、父は 父の愛人の一人である某子爵夫人と一緒だったからだ――と。
「それは……あの……」
「あの頃の俺は世間知らずの大馬鹿者で、他の腐りきった貴族たちは いざ知らず、自分の父親だけは 彼の妻だけを――俺の母だけを愛しているものと信じていたんだ」

本当に忌々しい。
胸中で そう毒づいてから、ヒョウガは、やはり その胸の中で、自分が忌々しく感じている相手は誰なのだと、自問した。
誠実な夫の振りをして妻を裏切っていた父か、何も知らずに自分の父だけは特別だと信じていた あの頃の自分か、それとも、こんなことを自分に語らせた野の百合なのか――と。
語るつもりのなかった、自分の堕落の端緒となった父の死。
語るつもりはなかったのに、一度 口にしてしまったら、語り続けないわけにはいかない。
シュンの同情を引くために――ヒョウガは、シュンの前では、隠し事のできない正直な男でいなければならなかった。
シュンに、そう思わせておかなければならなかったのだ。
そのためには、ここで話を不自然に途切らせるわけにはいかない。
だから、ヒョウガはシュンに語るしかなかったのである。
なぜ父の死が、自分を堕落させる きっかけになってしまったのかを。

「俺の母はロシアから、このフランスに嫁いできた。母の実家は、ロシア東部に このフランス国土の数倍の広さの領地を持つ大貴族で、代々 ロシアの皇室と縁組を重ねてきた名門。俺の中には、母から受け継いだイヴァン雷帝やピョートル大帝の血が流れている。そんな勇猛豪胆の血を受け継いでいながら、俺の母は身体が弱かった。母が、四半世紀前には小貴族にすぎなかったシャンタル伯爵家に嫁ぐことになったのは、そのせいもあったろう。ロシアの気候よりはフランスの気候の方が 娘の身体にはいいだろうと、母の両親は考えた。フランスはロシアより明確に先進国だったし、へたに王室や有力貴族の家に嫁がせるよりは、妻の実家からの援助を有難がるくらいの家の方が、嫁ぎ先での娘の立場も強いものになるからな。実際、シャンタル伯爵家は、母の実家の経済力と人脈で、このフランスでも有数の有力貴族に成り上がった」
「先のシャンタル伯爵は、才気に あふれた方だったと伺いました」

『それは世辞か?』と、シュンの言葉を聞いて、ヒョウガは少なからず憤ったのである。
父を褒める言葉は 一切 聞きたくないというのが、ヒョウガの本音だった。
「そうだな。俺の父は如才ない男だった。母と母の実家の力を、これ以上ないほど巧みに利用した。その手腕は見事としか言いようがない」
褒め言葉は、褒める側の人間の心に 相手への敬意がなければ 讃辞にはならない。
父を評するヒョウガの言葉は、明瞭に嘲罵だった。

「俺は、身体の弱かった母が 命がけで生んだ ただ一人の子供で、母は俺を深く愛してくれた。俺も もちろん母を愛した。父も、そんな母を大切にし、愛しているのだと思っていた。俺を産んだせいで 一層 病がちになった母は 床に伏せっていることが多かったが、美しい人だったし、浅ましい欲もなく、優しく清らかで、それこそ野の百合のような――」
野の百合のようなひとだったのだ。
彼女は、彼女の息子と夫への愛だけで できているようなひとだった。
「伯爵の お母様なら、それは美しい方だったのでしょうね。お姿も お心も」
「……」
母が今も存命だったなら、得意げに『もちろんだ』と答えていたかもしれない。
しかし、今のヒョウガは、シュンの その言葉に首肯することはできなかった。
今のヒョウガは、姿はともかく、その心は、彼の母とは似ても似つかぬものになってしまっていたから。
ヒョウガはシュンの その言葉に、否と答えることも応と答えることもしなかった。
というより、できなかったのだ。
否定も肯定もしたくなかったから――代わりに、別の言葉で自分を評する。

「俺は幸福で おめでたい子供だった。母を愛し――俺が母を愛しているように、父も母だけを愛しているのだと信じ、そんな父を尊敬していた。実際は、母の実家に いい顔をするために外面を取り繕っていただけで、他の腐った貴族たちと何も変わらない男――いや、もっと最低な男だったのにな。父が愛人宅で阿片中毒で死に、父の死から数ヶ月後、母も父のあとを追うように亡くなった。俺は、父の死の経緯を絶対に母には知らせるなと使用人たちには厳しく命じておいたんだが、誰かから洩れたのかもしれないし、あるいは母は 以前から父の行状を察していたのかもしれない。母が知っていたのだとしても、知らなかったのだとしても、父の死が 母の死の引き金になったのは事実だ。母には父しかいなかった。その父を失ったことで、母の心臓は 鼓動を打つ力を失った――」

語るつもりのなかったことを語らさせられ、しかも 事実を正直に語ることになり――ヒョウガは そんな自分に苛立ちを覚え始めていた。
それ以上に、忘れようと努めていた、美しく悲しかった女性の面影が 脳裏に甦り、それが苦しい。
さっさと『お気の毒に』なり『かわいそうに』なり、型通りの同情の言葉を吐いて 俺を怒らせてくれと、ヒョウガはシュンに対して思ったのである。
そうすれば、その陳腐な言葉に力づけられ、俺は悲しみを忘れることができるのだから――と。

にもかかわらず、シュンは無言でヒョウガを見詰めているばかりで、いつまで経っても お約束の言葉を口にしてくれなかった。
その沈黙が、まるで『泣きたいのなら、泣いていいのだ』と誘っているようで――だが、その誘惑に屈するわけにはいかず、ヒョウガは自身の悲しみを 自身の言葉で防ぐ羽目になったのである。
「互いに愛し合い、信じ合っている幸福な家、幸福な家族だと思っていたのに、すべては嘘っぱち。虚構にすぎなかったんだ。信じていたものと愛していたものを同時に失い、真面目に人生に向き合うのが馬鹿らしくなって、俺は享楽に走った……」
こんなことまで馬鹿正直に語るつもりはなかったのに――栄光に包まれているイッキと、それに比して みじめな自分。
そんな境遇(だけ)をシュンに訴え、シュンの同情を引くつもりでいたのに、俺は いったい何を言っているのか――。
そんなふうに 混乱しているヒョウガにシュンが告げてきた言葉は、『お気の毒に』でも『かわいそうに』でもなかった。






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