宮廷にも パリの劇場にも行くことすら禁じられているシュンが、考えようによっては、それらの場所より質の悪い場所――シュンを堕落させることを目論んでいた男の屋敷――を訪ねてきたことに、ヒョウガは少なからず驚いた。 予告もない、突然の訪問。 家令は、ヴィルロワ侯爵家の紋章の入った馬車でやってきた客人を追い返すことなど思いもよらなかったらしく、ヒョウガの許可も得ずに シュンを客間に通してしまっていた。 会いたくない気持ちと 会いたい気持ちの せめぎ合いで、最終的に勝利したのは、会いたい気持ちの方。 家令の報告を聞いたヒョウガは、逸る気持ちを懸命に抑えて、自分でも 急いでいるのか ぐずっているのかがわからない足取りで、シュンの待つ客間に向かったのだった。 「地上で最も清らかな野の百合が、こんな悪党の住処に乗り込んでくるとは、実に勇敢なことだ。ようこそ」 そんな皮肉な言葉で シュンを迎え入れたのは、ヒョウガの精一杯の虚勢だったかもしれない。 意地を張り続けている男に 痛ましげな目を向けてくるシュンに――否、シュンに そんな目をさせている自分自身に――苛立つ気持ちを静められない。 その苛立ちが、ヒョウガの言葉と口調を 刺々しく攻撃的なものにした。 「まさか、セイヤたちと おまえがつるんでいたとはな。いかさまもいいところだ。あの賭けはなかったことにさせたぞ」 「賭けは口実です。セイヤたちは ヒョウガの今と将来を案じて、そんな話を持ち出したんです」 「言い訳はいらん。おまえを責めようとは思わない。俺が馬鹿だっただけだ」 「いいえ。自分の傲慢に気付かないほど愚かだったのは、僕の方です。ごめんなさい」 「おまえは謝らなければならないようなことをしてはいないだろう。なのに謝られても、不愉快なだけだ」 ヒョウガは、シュンに そんなことを望んではいなかった。 ヒョウガが望んでいるものは――今 ヒョウガが望んでいるものは、何よりも手に入れたいと切望しているものは、もしかしたら 『皆が俺のためを思ってくれていたことは わかっている』『ありがとう』とシュンに言える素直さだったかもしれない。 だが、そんな簡単なことが 詰まらぬ意地やプライドのためにできないのだ。 そして、そんな自分に ますます苛立ち、心が頑なになっていく。 その繰り返し。 それは まさに悪循環というものだった。 ヒョウガに 弁解どころか 謝罪も受け入れてもらえないことに、シュンが つらそうに一度 唇を噛みしめ、顔を俯かせる。 だが、やがて シュンは気を取り直したように再び その顔を上げた。 そして、思いがけないことをヒョウガに告げてくる。 「ヒョウガの本来の目的は、僕を汚して堕落させることだったんでしょう? それ、僕に してください」 「なに……?」 ヒョウガは、シュンが何を言っているのか、すぐには理解できなかったのである。 シュンの瞳は、初めて 出会った時同様 澄んでいて、その姿は野の百合のように清楚清純。 その上、その眼差しは まっすぐで、ためらいも迷いもない。 とても“そういうこと”を言っている者の目と姿には思えなかったのだ、今 ヒョウガの目の前にいるシュンの目と姿は。 シュンの言葉の意味だけを かろうじて理解し、ヒョウガは軽い頭痛を覚えることになった。 「それをしてくれと言われても――汚れて堕落するということが どんなことなのか、おまえは わかっているのか」 「知らないので 教えてください」 ヒョウガの頭痛が 更に ひどくなる。 『知らない』と言うのなら、シュンは本当に知らないのだろう。 試しにヒョウガは、 「おまえ、自慰をしたことはあるか」 と、シュンに尋ねてみたのだが、シュンの反応は、まるで見知らぬ国の お菓子の名を聞かされた子供のそれ。 シュンは、マシュマロかボンボン菓子のように、その目をきょとんと丸くしているだけだった。 真面目に相手をするのは時間の無駄としか思えず、ヒョウガは わざとらしく その視線を脇に逸らしたのである。 シュンの瞳が、そんなヒョウガに すがってくる。 「兄は ヒョウガの才を惜しんでいて、セイヤたちは ヒョウガのことを心配してるんです……! ヒョウガは、無理をして 自堕落の中に自分を追いやっていると。好きで怠惰享楽の中に我が身を置いているのなら 放っておくけど、そうじゃないから――無理をしているのが わかるから、ヒョウガが つらそうで見ていられないから、ヒョウガを救ってやってくれと 僕に頼んできた。人を一人 救うなんて、そんなことが僕にできるとは思えなかったけど、ヒョウガの お友だちになって、ヒョウガの心を慰めるくらいのことはできるんじゃないかと僕は思ったんです。僕は思い上がっていました」 だから、見下していた相手に我が身を汚されることで、傲慢の罪を償おうというのか。 それとも、自分が堕落することで、我と我が身を 愚かで哀れな男と同じ場所に落とし、自分を傲慢でいることのできない人間にしようというのか。 その どちらも、ヒョウガの望むことではなかった。 「今度は、おまえが俺を落とせるかどうかという賭けでもしたのか」 シュンに その無謀を断念させるために、ヒョウガは わざとそう言って シュンを突き放そうとしたのである。 しかし、シュンは大人しく突き放されてはくれなかった。 唇を引き結び、シュンがヒョウガに食い下がってくる。 「そ……そうです。教えてください」 「残念だが、おまえは少々 色気不足だな。手を出す気にもならん」 それは 強がりでも意地でもなく、ヒョウガの本心だった。 恋している相手に誘われて、なぜ そんなことを思ってしまうのかは、ヒョウガ自身にも わからなかったのだが、その時 ヒョウガは『逃げなければ』と思ったのである。 この清らかな野の百合の誘惑から逃げなければ、何かが起こる。 それが 良いことなのか悪いことなのかは わからないが、とにかく何かが起こり、自分が変えられてしまう――と。 「色気というものは、どうすれば養えるんでしょう」 「それくらい、自分で考え――いや、そうだな。教えてやってもいい。そのために まず、ここで着ているものを全部 脱いでみろ」 さすがに それはできないだろうと、これでシュンは引き下がってくれるだろうと、ヒョウガは たかをくくっていた。 これでシュンは この悪徳の館から逃げ帰ってくれるに違いないと。 ところが、シュンは、ヒョウガが その方法を教示する気になってくれたのだと思ったのか、 「はい!」 と元気よく返事をして、その場で――悪徳の館の客間で――本当に上着を脱ぎ始めたのである。 慌てて その手を押しとどめたのは、シュンに服を脱げと命じたヒョウガ自身だった。 「や……やめろ、馬鹿! 真昼間から、こんなところで!」 「昼間だと、堕落はできないものなんですか」 真顔で そんなことを訊いてこないでほしい。 それでなくても 悪化の一途を辿っていた頭痛が、耐えることが困難なほど激しいものになる。 そうして結局――ヒョウガは、シュンに折れるしかなかったのである。 これ以上、詰まらぬ意地を張り続けてはいられない。 ヒョウガは、シュンを汚し堕落させることなどしたくはなかった。 ヒョウガは、シュンに清らかなままでいてほしかったのだ。 だからヒョウガは、自分の負けを認めるしかなかった。 「わかった! わかったから、馬鹿な真似は やめてくれ。俺は俺の負けを認める。おまえは俺にどうしてほしいんだ。セイヤたちを許すと言えばいいのか。奴等のしたことを許し、自分の生活態度を品行方正なものに改めればいいのか」 「ヒョウガ……!」 ヒョウガの敗北宣言を聞いたシュンが、その瞳を輝かせる。 そうして シュンは、安堵したように嬉しそうに、満面の笑顔を作った。 「それはもちろんですが、僕はヒョウガに幸せになってほしいんです。無理をして つらそうにしているヒョウガでなくなってほしい」 「幸せ?」 それは いったい何だろう。 ヒョウガは 思わず、見知らぬ国のお菓子の名を聞かされた子供のように、シュンが口にした言葉を反復してしまっていた。 シュンが、大きくヒョウガに頷き返してくる。 「ええ。それが僕の――みんなの望みです。ヒョウガが幸せになること。ヒョウガの幸せは何。どうすればヒョウガは幸せになってくれるの。どうすればヒョウガは、作り物でない 心からの笑顔を見せてくれるの」 見知らぬ国のお菓子のレシピを問うように、シュンが、明るく気負い込んで尋ねてくる。 既に意地を張り続ける気力を失っていたヒョウガは、シュンに問われたことに正直に 素直に答えることしかできなかった。 「おまえが俺を愛してくれたら、俺は誰より幸せになれるだろう」 「僕がヒョウガを愛したら? 僕、ヒョウガが好きです。だから、幸せになってほしいんじゃないですか」 なぜ そんなわかりきったことを、改めて望む必要もないことを言うのかと訝っている顔を、シュンがヒョウガに向けてくる。 野の百合のように清らかで澄んだ瞳。 嘘の つき方など知りもしない者の眼差し。 「本当に?」 ヒョウガは、反射的に問い返していた。 「はい」 「また嘘をつかれたら、俺は本当にぐれるぞ」 「こんなことで嘘をついて、どんな得があるの。僕はヒョウガが好きです。信じてくれないの……」 好きだと告げる言葉を、その言葉を告げた相手に信じてもらえないことが、シュンには それほど つらく悲しいことだったのだろうか。 馬鹿で頑固な男に冷たい態度を示されている時にも、ただ切なげに馬鹿な男を見詰めているだけだったシュンの瞳が潤み、そしてシュンは 涙の雫を一粒、その頬に零した。 その涙に、ヒョウガの心臓は撥ねあがってしまったのである。 鼓動が それまでの倍も強く速く打ち始め、それは 落ち着く気配を全く見せなかった。 色気はない。 本当にない。 だというのに、ヒョウガの胸が ときめく。心が騒ぐ。動揺する。 ヒョウガは、つい ふらふらと、その手をシュンの頬に のばしていた。 「ど……どれくらい」 「ヒョウガが幸せになってくれるのなら、死んでもいいくらい」 シュンはヒョウガの手から逃げなかった。 もう一方の手で、ヒョウガがシュンの肩を抱く。 「軽々しく、死ぬなんて言うな。おまえが死んでしまったら、俺も生きていられない」 甘い髪の匂い。 シュンは、食するには勇気が要り、だが、味わうことを恐れて素通りしてしまうこともできない、見知らぬ国のお菓子のようだった。 「俺を 傷付けたと思い込んで、罪悪感や同情を覚えているのなら、俺は そんなものはいらない」 「ヒョウガが二度と僕に会いにきてくれないかもしれないって、シリュウに言われた時、僕は悲しくて苦しくて、胸が潰れてしまうかと思った。僕はヒョウガと一緒にいたいんです」 「俺と一緒に?」 「死にたくはないです。もちろん、生きて、そして僕は 幸せでいるヒョウガを見ていたい」 「俺が幸せになるには、おまえの協力が必要なんだ」 「僕、何でもします」 清らかで 嘘をつくことを知らない者たちが住む見知らぬ国のお菓子。 シュンの唇は甘かった。 「何でも……?」 こんなに甘いお菓子を口にしたばかりなのに、そう尋ねる声が上擦り かすれているのは なぜなのか。 ヒョウガは、それが不思議でならなかった。 「何でもしたい。ヒョウガと一緒にいるためになら、僕、何でもできると思うんです」 ヒョウガが見詰める その場所には、清らかなシュンの瞳があった。 全く情欲的でなく、性的なものも感じない。 だが、魅惑的で誘惑的。 澄んだ瞳の奥に、清らかな情熱がある。 確かにある。 頭痛は治まっていた。 代わりに、ヒョウガは、目を開けているのが困難なほどの眩しさを伴った激しい目眩いに襲われた。 |