星の子学園は、入所者の8割を10歳以下の子供たちが占める、区内では中規模レベルの児童養護施設だった。 二階建ての東西に長い建物の前に ミニサッカーができるほどのグラウンドがあり、そこで十数人の子供たちが元気よく走り回っている。 絵梨衣が、子供たちが無茶をしないように見ていなければならないというので、瞬はグラウンドの隅にあるベンチを 彼女との会談の場にすることにした。 時折、グラウンドのゴール前から、 「絵梨衣先生ーっ、俺、ゴールしたよー!」 という、子供たちからのゴール報告の声が響いてきて、そんな子供たちに絵梨衣が手を振って応える。 そうしてから、彼女は瞬の方を振り返り、 「私は 本当は先生でも何でもないんですけどね」 と、微笑して説明してくれた。 「瞬さん……は、あの情報交換会の出席者の皆さんと連絡を取り合っているんですか?」 「あ、はい。あの、それこそ大人の人たちには相談できないような問題や不満があったら、改善を求めようということで、お話をさせていただいているんです。具体的な問題や不満がなくても、高校生になると施設を出る時期が近付いてきて、独立後の生活に不安を覚える人も多いでしょうから、そういったことを誰かに話すだけでも 気が楽になるかなあ……って」 その言葉が嘘にならないように あとで氷河の不安も聞いておこうと思いながら、瞬は 事前に用意してきた今日の訪問の目的を絵梨衣に告げた。 「そうですね。私たち、大勢での暮らしに慣れているから、園を出て一人暮らしを始めることに不安を覚えている人は多いかもしれないですね」 そう答えて、絵梨衣がまた微笑する。 彼女は、自身の不遇を嘆き 恨んでいるようには見えなかったが、どこか寂しげで、生きることを心から喜び楽しんでいるようにも見えなかった。 歳のいかない子供たちの多い施設内では、毎日 それなりに小さなトラブルは起きるのだろうが、彼女は 特に大きな心配事や問題を抱えているようでもなく――生きることに慣れ、飽きかけている大人の目に似ていると、瞬は、彼女の微笑を見て思ったのである。 その推察は、さほど 的外れなものでもなかったらしい。 瞬に問われるまま、日々の暮らしの様子――子供たちの腕白振りに手を焼いたエピソードや 子供たちの可愛らしさに喜ばされたエピソード等――を語る時も、絵梨衣は その口調や感情を荒げたり弾ませたりすねことはなかった。 常に穏やかで、常に静か。 だが、それは、精神的心情的に安定しているからというより、すべてに冷めているからであるように、瞬には感じられてならなかったのである。 「絵梨衣さんは、今 幸せなんでしょうか」 瞬が絵梨衣に そう尋ねたのは、“世界の滅亡を阻止するために、彼女を幸福にする”という目的のためではなく――ただ純粋に 彼女の覇気のなさが心配だったから、だった。 不惑を迎えた大人でさえ、言葉通りに不惑であることは少ないのに、10代の少女が こうまで落ち着いているのは、むしろ危険なことであるように、瞬には思えたのだ。 絵梨衣から、やはり 落ち着いた声で、 「特に不満はないわ」 という、実に微妙な答えが返ってくる。 「幸せではないの……?」 「幸せでないというより――幸せというのがどんなものなのかが、私にはよく わからない。だから、自分が幸せなのか そうでないのかも よくわからないの。ただ……」 「ただ?」 「ただ、何ていうか――本当に具体的な不満はないのよ。ただ、今の私には 何かが欠けているような気がするの。何かが足りない。満ち足りていない。そんなふう」 「何かが欠けている……?」 それは意味深長な言葉だった。 彼女の“正しい運命”がどういうものであるのかをエリスによって知らされている瞬には どうしても、絵梨衣が“欠けている”と感じているものは“氷河”なのではないかと疑わないわけにはいかなかったから。 瞬は、氷河に出会うまで、自分を非常に幸福な人間だと思ったことはなかったが、何かが欠けているという思いも抱いたことはなかった。 氷河と出会う以前の瞬には、したいことや、希望や望みが多くあった。 『皆に幸福であってほしい』 『守ってくれる親がいないことで不幸になる子供たちのいない世界になればいい』 『そんな世界を実現するために、何かしたい』 『きっと、僕にもできることがあるはず』 それらの希望は希望でしかなく、望みも望みでしかなく、決して実現しているわけではなかったが、『だから、自分は満ち足りていない。何かが欠けている』と感じたことはなかったのだ。 (それは、氷河が 僕にとっての運命の人じゃなく、僕が 出会えるはずの人に出会えていないわけじゃないから……?) だが、絵梨衣は、出会うべき運命の人がいるのに、その人に出会うことができずにいる。 それこそが彼女の欠如感の原因なのかもしれない――。 そう思うと、瞬は、絵梨衣に対して罪悪感を抱かずにはいられなかったのである。 この人の幸福を奪っているのは僕なのだ。 にもかかわらず――この人の幸福を願う気持ちは決して嘘ではないのに、自分は この人に それを返すことができない。 “僕は、この人の幸福を奪っている” それが瞬の罪悪感だった。 「両親のいない人間は みんな、こんな思いを抱いているものなのかしら……」 言うべき言葉を思いつけずに黙り込み 顔を俯かせた瞬の隣りで、元気にグラウンドを走り回っている子供たちの姿を見詰めながら、絵梨衣が ぽつりと呟く。 彼女は、自分に欠けているものを“両親”なのだと考え、自分が満ち足りていないことの原因を“両親の不在”なのではないかと疑っているらしい。 その呟きを聞いて、瞬は少なからず慌てることになったのである。 そんな考えを抱いていたら、彼女は永遠に満ち足りない――永遠に幸福になることができないではないか。 「両親がないのは僕も同じですし、そういう境遇にある子供たちは、悲しいことに この社会には大勢いますけど、両親がいなくても 幸せになれる人はいますよ」 「どうやって?」 至極 自然で当然の質問が返ってくる。 「それは、あの……僕は ある人と出会って、幸福というものが どんなものなのかを知ることができました。絵梨衣さんも、誰かを愛せば、きっと その人が絵梨衣さんの心を満たしてくれて、絵梨衣さんを幸せにしてくれると――」 『ああ』と、瞬は胸中で嘆きの声をあげることになったのである。 決して嘘は言っていない。 少なくとも、自分が『そうだ』と思うことを言っている。 だが。 『誰かを愛せば』『きっと その人が』――絵梨衣から“その人”を奪っている自分が、得意顔で 何を言っているのか。 絵梨衣に『その人って誰?』と訊かれたら、自分は何と答えればいいのか――。 喉の奥に 苦いものが こみあげてきて、その苦さに、瞬は眉根を寄せた。 「そうかしら……」 あまり期待はできないと思っている様子で、絵梨衣が低く呟く。 氷河を 彼女に返してやることはできない。 それだけはできないが、しかし、こんなにも幸薄い風情をしている絵梨衣を励まし、力づけ、幸福に輝いているような人にしてやりたい。その力になりたい。 相矛盾する2つの思いの狭間で、瞬は思い悩むことになった。 「も……もちろんです。たとえば、家族でなくても、学園の子供たちは可愛いでしょう? 絵梨衣さんは、あの子たちに慕われて、必要とされている。そういうことって、望めば誰もが得られる幸福ではないと思います」 決して嘘は言っていない。 少なくとも、自分が『そうだ』と思うことを言っている。 だが、卑怯だと、自分は卑劣なことをしていると、瞬は思わないわけにはいかなかった。 「でも、それは所詮は他人同士の つながりでしかないわ。永遠に続くわけじゃない」 あの可愛い子供たちの思慕も、絵梨衣の欠如感を薄らげることはできないらしい。 瞬は、 「他人だと愛せないの? そんなことはないでしょう。たとえば恋は、それまで他人だった人との出会いから始まるものです」 と言うしかなかった。 『恋が あなたを幸福にするだろう』と、『氷河との出会いが、あなたを幸福に導くのだ』のだと、言葉にはせず、だが、瞬は そう言うしかなかったのである。 “運命”とは こういうものなのか。 “正しい運命”が実現されないということは、こんなふうに不幸な人を生むことに つながるのか――。 瞬が告げた『恋』という言葉に、絵梨衣は、『そうかしら』という懐疑の言葉や『所詮は 他人』という反論も返してこなかった。 ただ、いかにも 恋に憧れる10代の少女らしく、ほのかに目許を上気させただけで。 “恋”なら、絵梨衣は素直に受け入れられるのか。 “恋”なら、自分は幸せになれるかもしれないと、前向きに希望を持つことができるのか。 氷河に出会えれば、それで彼女は幸福になれるのだ――。 いったい自分はどうすればいいのか。 エリスの言っていた“正しい運命”を実現すればいいのか――氷河を絵梨衣に会わせればいいのか――。 恋という可能性に ささやかな希望を見い出したらしい絵梨衣に、それ以上 何を言うこともできず、 「また、来ます」 と言って、瞬は絵梨衣の前から逃げ出したのだった。 |