運命の恋人たちの運命の出会い。
だが、二人の間に、瞬が心配していたようなことは起こらなかったのである。
「今日は友人と来ました。あの情報交換会で知り合ったんです。――氷河」
『あなたに幸福を運んでくる人です』と言うわけにもいかず、氷河の名前だけを告げた瞬に、絵梨衣は、
「瞬さんのお友だち? カッコいい方ですね。すごい豪華な金髪。お国はどちらなんですか」
と、一応 褒め言葉のようなことを言いはしたが、ただ それだけだったのだ。

その褒め言葉さえ、もしかしたら かなり無理をして言ったものだったかもしれない。
瞬の頼みだから 仕方なく付いてきただけなのだという態度を隠そうともしない氷河の顔は 不機嫌の極みで、お世辞にも愛想が良いといえるようなものではなく、絵梨衣は そんな氷河に少し気後れを感じて――むしろ 恐がって――いるようでさえあったから。
絵梨衣は、運命の恋人に巡り会った衝撃や、一目で恋に落ちた者の ときめきや戸惑いのようなものを感じている様子は全く見せなかった。
運命の恋人同士が出会った途端、自分の存在が二人に忘れられる事態も覚悟していたのに、これは いったい どういうことなのか。
絵梨衣の反応の薄さに、瞬は安堵するどころか、少々――否、非常に――困惑してしまったのである。
だから――瞬は つい、絵梨衣に尋ねてしまったのだった。
「あの……何も感じません?」
と。

「え?」
絵梨衣が、瞬の質問の意味が わからないと言いたげに、こころもち首をかしげる。
だが、首をかしげたいのは 瞬の方だった。
「あ、いえ、普通の女の子は、氷河を見たら、こう……胸が ときめいたりするのかなー……って、思っていたので――」
「まるで私が普通じゃないみたい」
「そ……そんなことはないんですけど……」
絵梨衣が 普通でないことはないだろうが、普通だと断言することもできないのではないかと、瞬は胸中で思っていた。
長身で金髪碧眼、その面立ちは端正の極み。
肉体の均整も、ほぼ完璧といえるものを 氷河は持っている。
普通の女の子にとって、氷河は、白馬に乗っていないだけの理想の王子様のようなものなのだろうと、瞬は思っていたのだ。

絵梨衣は、しかし、そんな おとぎの世界には興味を抱いていないらしかった。
彼女は、
「素敵な方だとは思いますけど、人の好みはそれぞれでしょう」
と、至極あっさり言ってのけてくれた。
「絵梨衣さんは違うの?」
そんな はずはない。
普通の女の子は、氷河を見たら胸を ときめかせるはず。
まして絵梨衣は、氷河の運命の恋人ではないか。
それとも、運命の恋人だからこそ、彼女は軽々しく胸を高鳴らせたり、氷河に うっとり見惚れたりしないのだろうか?

運命の恋人同士の出会いに、その場で 最も混乱していたのは、もしかしなくても、運命の二人ではない瞬だった。
瞬に比べれば はるかに落ち着いた様子で、絵梨衣が頷く。
「私はもっと、人当たりが やわらかくて、親しみやすくて、優しくて、親切で 可愛らしい感じの人が好きです。私のことを 心から心配して、一生懸命 励ましてくれるみたいな」
「そ……そうなの……」
絵梨衣の その言葉に、瞬は安堵した――というより、気が抜けた。
運命とは、こんなものなのだろうか。

『運命』の名で呼ばれる、ベートーヴェンの交響曲第5番。
あの衝撃的な導入部。
『冒頭の4つの音は何を示すのか』
と弟子に問われた時、かの楽聖は、
『このように、運命は扉を叩くのだ』
と答えたという。
運命というものは、あの曲のように力強く 逆らい難い力なのだろうと、瞬は思っていた。
たとえば、瞬が氷河に出会った時のように――運命の恋人同士は、その出会いによって互いの心を鷲掴みにされ 否応なく惹かれていくものなのだろうと、瞬は思っていたのだ。
それとも あれは、(“正しい運命”ではなかったにしても)運命の力ではなく、氷河の積極性に逆らえなかっただけのことだったのだろうか――。

不安から来る緊張が、瞬の中で 急速に しぼんでいく。
運命の二人が出会えば、シェイクスピアやシラーの戯曲のように ドラマチックな何かが起こると思っていたのに――これでは『何かが起こっても、何も起こらない』と評されるチェーホフの戯曲より“非”劇的ではないか。
氷河と、恋と、二人で思い描いていた未来の夢と希望――それら すべてを失うことも覚悟して、氷河を瞬に会わせたというのに、あの覚悟は いったい何だったのか。
心からも身体からも力が抜けて――その時、瞬は油断していたのである。
もう、今日 この場で、ドラマチックなことは何も起こらないのだと。

だが、ドラマチックなことは起こったのである。
それは、瞬が考えてもいなかったストーリーのドラマだった。
ドラマは、頬を朱の色に染めた絵梨衣の、
「瞬さんみたいな」
という台詞で始まった。
そのドラマの始まりに、瞬より先に 氷河の方が反応を示す。
何を言われたのか わからずに 瞬が無反応でいるうちに、氷河は こめかみを ぴくりと引きつらせ、鬼のような形相で絵梨衣を睨みつけた。
幸か不幸か、絵梨衣は その時 恥ずかしそうに瞼を伏せていたので、氷河の怒りに気付くことはなかったのだ。

「えええええっ !? 」
氷河に数十秒ほど遅れて、瞬が やっと絵梨衣の言葉の意味を理解し、驚く。
絵梨衣の言葉の意味は わかったが、それは瞬には完全に想定外の展開だった。
「あ、いえ、僕はその……」
「瞬さんは、私のことが嫌いなんですか。私のこと 嫌いなのに、あんなに優しくしてくれたのっ !? 」
「そんなことないです。僕は、誰よりも絵梨衣さんの幸福を願ってます」
「本当 !? 嬉しい!」
「で……でも、あの、それは そういう意味じゃなく――」

なぜ こんな展開になるのか。
運命の恋人同士の出会いは どうなってしまったのか。
慌て、混乱し、瞬は氷河に視線で救いを求めたのだが、瞬は すぐに氷河は頼りにならないことを――否、氷河を頼ってはならないことを――知ることになったのである。
氷河は、瞬の恋人の前で 図々しく堂々と 瞬に恋の告白をしてくれた少女を、怒りに燃えた目で睨みつけていた。
この氷河に、この場を治めてくれと頼んでも、絶対に穏便に治まらないことは目に見えていた。

とはいえ、だからといって、ここで絵梨衣を突き放してしまうことも、瞬にはできなかったのである。
そんなことをして、絵梨衣に絶望され、自棄になられ、争いの女神の誘いに乗った彼女に この世界を滅ぼされるようなことになってしまったら、瞬は、この世界に生きる すべての命に、何と言って詫びればいいのか。
それだけはできない。
そんな事態を、瞬は、何としても避けなければならなかったのである。
だが、どうやって。

「あ……あの……あの……」
できることなら、今すぐ この場から逃げ出したい。
瞬は、心の底から、切実に、そう思った。
進退窮まって、瞬は 本当に そうしてしまっていたかもしれなかった。
星の子学園の養護教諭らしき年配の女性が、食堂の窓から グラウンドにいる絵梨衣に向かって、
「絵梨衣さーん。そろそろ夕食の時間だから、配膳の準備を手伝ってちょうだいー」
と声をかけてくれなかったなら。
少々 恰幅のよすぎる その教諭が、その時、瞬の目には 救いの天使に見えた。

「あ、じゃあ、僕たちは 今日は これで帰ります」
そう言って、後ずさりを始めた瞬に、絵梨衣が、
「瞬さん! あの……私のこと、図々しい女の子だと思わないでくださいね! 私はただ、言わずにはいられなくて――でも、私は、そんな大それたことを望んでいるわけじゃないんです……!」
と、すがってくる。
「大それたこと?」
またしても、瞬より先に氷河の方が 絵梨衣の言葉に反応する。
瞬は、すぐにも絵梨衣の前から逃げ出したい気持ちを抑えて、氷河を自分の背後に隠し――実際には 少しも隠せていなかったのだが、
「も……もちろんです」
と言って、絵梨衣の懸念を否定した。

ほっと安堵したような笑顔になった絵梨衣。
そんな絵梨衣を、不機嫌を隠さず睨みつけている氷河。
瞬は、泣きたい気持ちで、氷河の手を引っ張り、星の子学園から逃げ出したのだった。





【next】