「これは いったい どういうことなんです!」 いつも氷河が待っていてくれる駅まで行かず、星の子学園と駅の ちょうど中間地点にある小さな児童公園で、瞬は虚空に向かって声をあげた。 神は時空を超えることのできる存在らしく、呼べば すぐにエリスが姿を現わすことは、これまでの やりとりで承知済み。 自分が まずい立場にあることが わかっているのか、子供たちが皆 自宅に引き上げた児童公園にエリスが姿を現わしたのは、これまでのように“すぐに”ではなかったが。 それでも、逃げも隠れもせずに姿を見せたことは立派と評すべきことなのかもしれなかったが、瞬は 今は彼女を褒める気にはなれなかった。 「どうして こんなことになるんです !? 氷河と絵梨衣さんは運命の恋人同士なんじゃなかったの? あなたは運命の女神なんでしょう? あなたの言う運命というものは、こんなに頼りないものなんですか!」 決してエリスの言う運命が実現することを望んでいたわけではない。 むしろ、現在の状況は、最悪の事態を免れたといっていい状況だった。 確かに、最悪の事態は免れた。 しかし、息つく間もなく、次の最悪の事態がやってきたのでは、喜ぶに喜べないではないか。 「こんなことって……。僕が どんな思いで、氷河を絵梨衣さんのところに連れていったか……」 そうすることが、氷河の運命の恋人ではない者にとって どれほど つらいことだったのかを、エリスは わかっているのだろうか。 瞬は、ぜひともエリスの説明と弁明を聞きたかった。 が。 残念ながら、瞬はエリスの説明も弁明も聞くことはできなかったのである。 エリスが黙秘権を行使したからではない。 いったい なぜ こんなことになったのかを、エリスの代わりに説明してくれる者が、その場に現れたからだった。 「エリスを問い詰めても無意味だ。エリスは運命の神ではない。争いの女神だ。嫉妬深く、僻みっぽい、争いの女神。運命の神を騙って、そなたたちの間に いさかいを生もうとした者。エリスの言う運命など、すべて偽り。信じるに値しないものだ」 エリスの代理人は、低く抑揚のない声で、瞬に そう告げた。 「運命の女神じゃない……?」 家族のある子供たちは それぞれの家で、加須魔のない子供たちは 彼等の仲間と共に、夕食をとる時刻。 夏場の この時刻は、完全に夜の闇に包まれる前の 逢う魔が時である。 僅かに残る夕日の残照の中に浮かび上がる、何もかもが漆黒の若い男の佇まいは、いかにも不吉なものだった。 しかし、今 この時の瞬には、彼の言葉は 救い そのもの。 争いとは真逆の平和、平穏、そして幸いを知らせる福音の鐘だった。 エリスは運命の女神ではない。 エリスの語る運命は真実のものではない。 それは、つまり、氷河が絵梨衣と共にいなくても この世界が滅びることはない――ということなのだ。 それさえ確かめられれば、瞬は それでよかった。 ただ嬉しく、長いこと 胸の内に わだかまっていた懸念が消えるだけ。 エリスを責めようという気持ちも、瞬の中には生まれてこなかった。 「あ……じゃあ、もしかして、あなたが本物の運命の神なんですか? だから、ここに来てくださったの?」 その登場の仕方からして、彼が普通の人間でないことは確かである。 おそらくは、運命の女神ではなく 争いの女神だったエリスと同じ力を持つ存在――神。 瞬が、親切な漆黒の神に そう問うたのは、彼が何者なのかを知った上で 彼に謝意を告げたかったから。 そして、できることなら、彼にエリスを どこかに連れ去ってほしいと思ったからだった。 しかし、瞬のその期待は、さほどの時を経ないうちに、もろくも崩れ去ってしまったのである。 瞬は、免れることができたと思い込んでいた最悪の事態の中に 自分がまだいることを、漆黒の神によって知らされることになった。 親切な漆黒の神は、エリス以上に とんでもないことを言い出してくれたのである。 「余は、冥府の王ハーデス。エリスの言う運命など嘘っぱち。その目障りな金髪の男の運命は知らぬが、瞬、そなたの運命は決まっている。そなたは 余と一つになり、この地上を支配する。冥界と地上を支配し、やがては天上界までをも その手中に収め、あらゆる存在の中で最も貴い者になる運命を持つ者だ」 「は?」 世界の滅亡の次は、地上世界の支配。 またしても、平凡な日常に 荒唐無稽なSFストーリー。 否、SFなら まだましである。 地上支配だか、地球侵略だかは知らないが、それでは まるで3、40年前の子供向けアニメか特撮の乗りではないか。 瞬は、そんな乗りの世界の住人にはなりたくなかった。 そんな物語の登場人物にもなりたくなかった。 こんな訳のわからない人たちとも、絶対に関わり合いになりたくない。 神に『存在しないでほしい』とまでは思わないが、せめて 人間の前に姿を現わさないでほしいとは思う。 心底から、瞬は そう思った。 「氷河、もう帰ろ。こんな人たちの相手なんかしてられないよ」 自分たちのせいで この世界が滅びることさえないのなら――それさえ確かめられれば、瞬は 神を名乗る人たちを積極的に避け、彼等から積極的に逃げたかった。 神様方が 人間世界から退散する素振りを見せてくれないなら、人間たちの方が 彼等の前から辞去するしかない。 これ以上 自称神たちの相手をしていると、こちらの方まで おかしくなりかねない。 そんな事態を避けるために、瞬は、謹んで 神の御前から退去しようとしたのである。 が、残念ながら、瞬は そうすることはできなかった。 とはいえ、それは 人間には持ち得ない力を持つ神たちに そうすることを阻まれたからではない。 瞬の行動を阻んだのは 神たちではなく、あろうことか、(人間であるところの)氷河だった。 「瞬と一つになるだとっ。それは俺の役目、俺だけに許されたことだっ!」 冥府の王の言葉は、氷河には聞き捨てならないものだったらしい。 激昂した氷河がハーデスに噛みついていったせいで、瞬は逃亡のタイミングを逃してしまったのだ。 「余は、そのような低次元のことを言っているのではない」 神の力を恐れる様子もなく 冥府の王に噛みついてくる無謀な人間を 蔑むような目で見やり、ハーデスが冷ややかな口調で氷河に告げる。 「低次元とは何だ、低次元とは!」 そんなハーデスの態度が気に入らなかったらしい氷河は、ますます いきり立った。 神に対する非力な人間の反抗が不愉快だったのだろう。 ハーデスが、その眉根を 僅かにひそめる。 ハーデスの その反応に、瞬は一瞬 ひやりとしたのだが、幸い、瞬が懸念したようなことは起こらなかった。 人間ごときの抗議に まともに耳を傾けてなどいられないと言わんばかりの態度で 氷河を無視し、冥府の王は、その視線を瞬の上に移動させてきたのだ。 「低次元だろう。さあ、瞬。このような下劣な男のことは忘れ、余と共に来るのだ」 冥府の王が『共に来い』と言うからには、向かう場所は冥府ということになるのだろうか。 だとしたら――そうでなかったとしても――、瞬は 絶対に彼に同道したくはなかった。 ハーデスが差し出してきた手の前で、後ずさる。 ハーデスの手から瞬を庇うように、氷河が瞬の肩を抱き寄せてくれた。 「消え失せろ、悪魔め!」 「余は冥府の王ハーデスだと言ったであろう。悪魔などという、異教の雑魚と一緒にするな」 「何が冥府の王だ! そんなところに瞬を連れていかれてたまるかっ!」 「瞬が余のものになることは、定められた運命だ。人間には逆らうことはできない。人間には その力もないしな」 「俺は もう運命など信じない。もし本当に運命なんてものがあるとしたら、それは、瞬は俺のもの、俺は瞬のものという運命だけだ!」 神が、人間には持ち得ない力を持っているのは事実なのだろう。 あくまでも神に逆らおうという態度を堅持し続ける氷河は、無謀な身の程知らずなのかもしれない。 だが、瞬は、氷河が そんな無謀をしてくれることが 嬉しかったのである。 それで どんな報いを受けることになろうと、唯々として神の力に屈し 自分の心を殺すようなことを、瞬は もうしたくなかった。 「非力な人間の分際で、愚かな……。では、たった今、ここで、そなたの身の程知らずが どのような結果をもたらすか、余が そなたに思い知らせてやろう」 ハーデスを激昂させ、彼に 怒りの言葉を吐かせることになった本当の理由は、神を神とも思わぬ氷河の言動ではなく、そんな氷河を頼り すがっているような瞬の眼差しと所作だったのかもしれない。 ともあれ ハーデスは、身の程を わきまえずに 思い上がっている人間を、このまま捨て置くわけにはいかないと考えたらしい――人間たちに罰を与えなければならないと考えたらしい。 瞬に向かって差しのべていた手を、冥府の王が翻す。 その手が いったいどんな力を生み、発するのか――。 どんなことになっても、二人なら恐くはない。 瞬は覚悟を決め、せめてもの抵抗のつもりで、その目を閉じることをせず、まっすぐにハーデスを見詰め返した。 それが、ハーデスの怒りを更に大きく激しいものにしたらしい。 ハーデスが眦を決し、周囲の空気が緊張に張り詰める。 次の瞬間――。 |