本種の藤袴探訪の日以降、瞬は、畏れ多くもグラード学園高校の王子様の“親しい ご学友”と言っていいものになったのである。
二人の間では、短いやりとりだけでなく、ちゃんとした(?)長い会話が成立するようになった。
『“氷河さん”ではなく“氷河”と呼べ』と言われ、なんとか“氷河”と呼び捨てできるようにもなった。
二人を親密にしたものは、植物という、二人に共通する関心事。
瞬は どちらかといえば 野草が好きで、わざわざ園芸店に発注して取り寄せるような高価な花には あまり縁がなく、氷河は その逆だったが、だからこそ――得手な分野が重なっておらず、互いの知識を与え合うことができるからこそ――二人は話題に事欠くことがなかった。

とはいえ、やがて 瞬は気付くことになったのである。
氷河は野草は管轄外と言っていたが――実際、彼は かなりポピュラーな野草の名前を知らないこともあったのだが――彼は 比較的 温暖な地方に生育する野草に詳しくないだけで、世界規模で分布しているものであれば、野草についても かなり詳しい――ということに。
特に寒冷地に生息する野草や高山植物についての氷河の知識には、瞬のそれを凌駕するものがあった。

「僕は多分、土に植えられた種や球根が芽を出して、大きくなって、花を咲かせて、枯れて、そして、次のシーズンにはまた新しい命を生む――そういうのが好きなんだと思うの。そういうのを見てるのが楽しい。野草は 特に健気で たくましいから、その姿を見てるのが特に嬉しい。でも、お花屋さんで売られているような花には、弱いものもあるし、お金を出さなきゃ手に入らないから……」
「なるほど。野草なら、ただで見放題だ」
「うん。お休みの日には、ちょっと遠出して山歩きをしたりすることもあるんだ。去年、高尾山に行った時には、山アジサイの群生を見付けたよ。それで、今年も咲いてるかなあって思って、先月 見に行ったら、花の色がすっかり変わってて びっくりしちゃった」

瞬は、華道など習ったこともない。
氷河が家元になるのかもしれないのだからと、山ほど出版されている流生派に関する書籍の中から数冊を選んで読んでみたのだが、その内容は瞬には ちんぷんかんぷんだった。
生け花というものは、活ける者のセンスで、花が美しく見えるように花器に飾ればいいのだと思っていたのに、華道は そんな簡単なものではなかったのだ。
主役になる花(真)を選び、そのサブになる花(副)を選び、更に 真と副のバランスをとるための花(対)を選び、その位置を決め、その三点を中心に他の花の立ち位置を決める。
そこには、茶道のお点前並みの厳然たるルールがあり、そのルールを逸脱することは調和を乱す邪道――。
なぜ花を飾るのにルールが必要なのか、そこからして 瞬には合点がいかなかったのである。
野原に、山に、道端に、あるがまま 自然に生きている花の姿の方が はるかに健気で美しいのに――と、瞬は 思わずにはいられなかった。

山中の藪の中に思いがけず見付けた一群れの山アジサイとの出会いに感動する。
今年も出会えるだろうかと考えながら その場所に向かったら、山アジサイは まるで違う姿を見せてくれた。
そんな出来事の方が、決められたルールにのっとって、決められた位置に立っている花などより よほど新鮮で、美しい驚きなのではないか。
決して 華道という伝統芸術を否定する気はないのだが、それが瞬の考えだった。
その考えを、瞬は氷河に対しても隠さなかった(もちろん、最初に その考えを表明する際は、恐る恐るの具申だったが)。
氷河は、そんな瞬に不快の念を示すことはなく、むしろ賛同している気配をすら見せてくれたのである。
だから、瞬は 去年と今年とで色が変わってしまった山アジサイの話をした時、それが氷河の機嫌を損ねることになるとは考えてもいなかった。
のだが。

「黒から金に?」
と、氷河は瞬に尋ねてきた。
どこか皮肉な響きのある声で。
不愉快そうな――少なくとも、楽しそうではない――その声音も意想外だったが、それ以上に、氷河が口にした質問の内容が、瞬には想定外のものだった。

アジサイは色も形も多彩な花をつける植物である。
色に関してなら、青系、赤系、黄色系、更には、オレンジ色や緑色の花すらある。
だが、そんなアジサイでも、さすがに黒色や金色の花はない。
そんなあり得ないことを口にする氷河に、瞬は久し振りに怯えるという気持ちを抱いてしまったのである。
知り合った当初はさておき、二人で藤袴を見にいって以来、瞬は、氷河のクールなポーズはポーズにすぎず、本当の彼は優しいのだと思うようになっていた。
二人きりの時には、実際に氷河は いつも瞬に優しかった。
そんな氷河に慣れてしまっていたので なおさら、彼の不機嫌な声は 瞬を怯えさせた。

「青からピンクに……だったけど……」
瞬が見付けた山アジサイは もちろん、黒や金などという特殊な色を呈してはいなかった。
アジサイとしては 至ってポピュラーな色だが、青色からピンクへの花の色の変化は 激変と言っていいものだろう。
瞬の答えを聞いた氷河が、不機嫌な声音のまま、
「アジサイは嫌いだ。色が変わる。移り気の代名詞だ」
と告げる。
氷河が機嫌を悪くしたのは どうやら、氷河の優しさに慣れてしまった瞬の態度のせいではなく、彼がアジサイという花を嫌いだから、だったらしい。
瞬は軽く安堵して、だが、自分の中の緊張を完全に消し去ることはせずに注意深く、彼に告げた。

「確かに、アジサイの花言葉は、『移り気』とか『無情』とか『冷酷』とかだけど……」
氷河が特定の花を嫌いだと断じるのは これが初めてのこと。
氷河に知らない野草はあっても、嫌いな花があるとは思ってもいなかった瞬には、それは決して小さくない驚きだった。
つい、花の弁護にまわってしまう。
「でも、それは、アジサイが移り気だからじゃないでしょう。アジサイは、全く同じ品種でも、土の成分によって 花の色が違ってしまうだけで……。アジサイの花は、1日のうちに 雨が降っている時と晴れている時とで 色が変わってしまうこともある。けど、でも、それは、アジサイが移り気なんじゃなく、アジサイの周囲の環境が変わってしまうだけのことだよ」

そんなことは、氷河も知っているだろう。
アジサイは、氷河の管轄外の花ではないはずだった。
世界規模で広く分布している花であるし、寒さに強い品種も多くある。
それでも瞬は、言わずにはいられなかった。
「アジサイって、日本原産なんだよ。西洋アジサイは、日本から大陸に渡って品種改良されたものが逆輸入という形で 日本に戻ってきた花なんだ。日本から未知の世界に乗り出していって、世界を知って、外国の空気を吸収して、故国に帰ってきた花。アジサイは、勇気があって、柔軟で順応性に優れた花なんだよ」
氷河がアジサイの花を嫌いだとしても、それで瞬に利害が生じるわけではない。
それでも瞬は懸命に、アジサイの美点を氷河に訴え続けた。
それは、瞬が特別にアジサイの花を好きだったからではなく、氷河に嫌われているアジサイの花に同情したからでもなく、ただただ 氷河に嫌いな花があってほしくないから――だったかもしれない。

瞬が熱弁した甲斐はあったようだった。
瞬が必死にアジサイの強さ健気さを言い募ると、不機嫌そうだった氷河の目は 徐々に いつもの優しい目に戻ってくれたのである。
彼は、
「おまえを責めているわけではない」
と言い、
「おまえが あまりアジサイの肩を持つと、俺は、おまえに愛されているアジサイが妬ましくなるから、もう やめろ」
と重ねて言って、瞬に微笑を見せてくれた。






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