氷河が瞬を招待してくれたのは、有名なフレンチ系のパティスリーが入っているホテルだった。
てっきり その店に予約を入れているのだろうと瞬は思っていたのだが、氷河が瞬を連れていったのは、そのホテルの3階にある小ホール。
ホールの中央に置かれたテーブルの上には、このホテルのパティスリーのケーキと一緒に、どうやら わざわざ他の店から運ばせたらしい他の複数のパティスリーのケーキが、お茶のセットと共に並んでいた。
瞬が好きな店のものだけでなく、瞬が知らない店のものもあって、氷河は瞬の好みのものを自分で選んできてくれたらしい。
「二人きりで、ささやかな祝宴だ」
氷河に そう言われ、瞬は それこそ天にも昇る気分だったのである。

「でも、不思議。こんな言い方は失礼なのかもしれないけど、僕、流生派の氷河以外の人の活けた お花は、あんまり綺麗だと思わないんだ。綺麗なことは綺麗なんだけど、生花なのに造花を見てるみたいな気持ちになって……」
氷河と藤袴を見にいった日に 二人で入ったカフェのシトロンのタルトを食しながら、以前から不思議に思っていたことを、瞬は氷河に告げてみたのである。
それは世辞でも何でもなく、心底からの疑念だった。
氷河の活けた花は、同流派の他の華督者たちの作品とは印象が まるで違う。
華道のことは わからないし、作品の良し悪しも判断できないのだが、瞬は、氷河の作品と他の人の作品を区別することだけはできた。
瞬が美しいと感じたもの、生きていると感じたものが氷河の作品、そうでないものは他の段職者の作品。
その判断を誤ったことは一度もない。

「俺は流生派の型から逸脱した作品ばかり作るからな」
「うん……。そうなんだろうなって思ってた……」
それで美しい作品ができるのだから、氷河が流派の型から逸脱することで何らかの問題が生じるわけではない。
少なくとも鑑賞者である瞬には、それで何の問題もない。
だが、流生派の次期家元候補としての氷河にも、それで問題は生じないのか。
瞬は それが心配だったのである。
それで問題が生じても、自分のスタイルを変える氷河でないことは わかっていたのだが。
瞬の懸念を察して、氷河が唇の端を僅かに引き上げる。

「型を知った上で その型を壊すことと、型を知らずに 自分の好きなようにすることは違う。俺は一応、そうしようと思えば、流生派の典型、手本となるような作品も作れるからな。そんなものを俺の作品として発表する気はないが」
「それで……大丈夫なの……?」
「俺の作品を煙たがっているのは、派の数人の長老たち、俺と家元の座を争っている又従兄姉たちくらいのものだからな。後継争いに関係のない何十万という弟子たちは 俺の作品を受け入れ評価してくれているし、今度のCF採用で、流生派の外の世界の人間たちも そうだということが証明された。あのCFを見て、弟子入り希望者が爆発的に増えている。長い伝統を持つ芸術の何のといったところで、所詮は経済活動。派内での俺の発言力は増しているし、何より 現家元が俺に 跡を継がせたがっているからな。俺の活ける花は嫌いなくせに」
「なら いいんだけど……」

氷河の口許に刻まれているのは、皮肉と、自分の実力への矜持と自信、彼の作品に多くの支持者と理解者がいる事実への確信。
そして、心配性の友人の懸念への閉口、感謝、嘲弄――そんなものだったろう。
それらの中に もう一つ、実は 心配性の友人への懐疑が含まれていたことを 瞬が知ったのは、氷河が 彼の心配性の友人に、
「おまえの家は裕福なのか」
と尋ねてきた時だった。
これまで ほとんど花の話しかしたことがなかった氷河に そんなことを尋ねられ、瞬は少なからず戸惑うことになったのである。
隠すようなことでもないので、正直に答える。

「まさか。僕の両親は もう亡いし、僕は兄に育てられたようなものなの。僕の学費は 両親の遺産から出てるんだ。今は庭がないマンション住まいで、ベランダに少しプランターを置けるだけだから、その欲求不満を学校の園芸部の活動で解消しているようなもので、とても裕福とは――」
「なら、なぜ……」
「え?」
「なぜ 言わないんだ?」
「……?」
様々な感情が入り混じってはいたが、何にも増して優しい色が濃かった氷河の瞳が いつのまにか ひどく険しいものに変わっている。
いったい氷河は何を言っているのか、瞬には すぐには わからなかった。
氷河が一瞬、横目に自分の髪に視線を向ける様を見て、彼の質問の意図を理解する。

そう言えば、それが二人の出会いのきっかけだった。
氷河の瞳は、今ではすっかり 冷たく厳しい色だけを たたえている。
なぜそんな わかりきったことを、しかも今になって 彼は問うてくるのかと、瞬は訝ったのである。
わかりきったこと――だが、それは非常に答えにくいことでもあったので、瞬の返事は少々 歯切れの悪いものになってしまった。
「それは、その……学校の女の子たちが驚いて……あの……もしかしたら がっかりするかな……って……」
「別に がっかりしたりはしないだろう」
「あ……うん。そ……そうだよね。たとえ氷河が どんなだって、氷河が優しくて綺麗なことに変わりはないし……傷付いたりするわけないよね!」
つい肩に力が入った力説になる。
そんな瞬を見て、氷河は眉をひそめた。

「傷付く? どうしてそんなことになるんだ。むしろ、学校の女共の中には喜ぶ者の方が多いんじゃないか」
「よ……喜ぶ? え? あ、でも、それは さすがに……」
さすがに、それはないのではないか。
氷河の楽観的すぎる推測に、瞬は困惑した。
恐る恐る、やんわりと、氷河に意見してみる。
「で……でも、学園の王子様がハ……ううん、と……頭髪に不自由してるなんて、氷河に憧れてる人たちには ちょっとショックなんじゃないかなぁ……なんて……」
「なにいっ !? 」

突然 氷河がホールの中に巣頓狂な声を響かせる。
ここが借り切りの部屋でなかったら、彼の大声は 多くのホテル客たちを振り向かせていただろう。
そんな事態にならなかったことに、瞬は まず安堵したのである。
氷河が何に驚いて(?)そんな大声をあげ、心配性の友人を あっけにとられたように見詰めているのかは、瞬には まるで わからなかったが。
初めて知り合った頃には、氷河が これほど表情や感情の豊かな人間だとは思っていなかった――知らなかった。
氷河が他の人間と変わらず、笑いもすれば憤りもし、拗ねたり呆れたりすることもあるのだということを知ってしまった今の瞬にも、氷河の この驚きようは、それこそ驚くべきものだった。

「おまえ、それで言わずにいたのか……」
1分ほどの時間をかけて 落ち着きを取り戻してくれた氷河が、そう呟いて 長く吐息する。
そうしてから 氷河は、瞬が止めるまもなく、自分の髪の中に手を突っ込み、ピンを外して、更にはカツラそのものも取り外してしまった。
氷河が自分に何を見せようとしているのかを察して、瞬は ほとんど反射的に顔を伏せてしまったのである。
まじまじと見詰めしまったら 氷河を傷付けてしまうのではないかと、そうなる事態を恐れて。
なにしろ、人工物や作為を嫌う氷河が、そんな装具を身につけてまで隠そうとしていたもの。
瞬は、それを見るのが恐かったのである。

「顔を上げてもいいぞ」
顎が鎖骨に食い込むのではないかと思えるほど深く顔を伏せている瞬に、氷河が 疲れたような声で言ってくる。
それでも瞬は すぐには その指示に従わなかった。
氷河が更に 深く大きな溜め息を洩らしたことに気付き、恐る恐る顔を上げる。

氷河は――彼は、禿げてはいなかった。
特に頭髪が薄いわけでもない。
それどころか、事実は全く逆。
黒髪のカツラが取り除かれた場所にあったのは、カツラの中に収まっていたのが不思議に思えるほど豊かな金髪だった。
氷河の変身を目の当たりにした瞬は、アジサイの花の色の青からピンクへの変化を見た時より はるかに大きな驚きに支配されてしまったのである。

「あ……あ……」
「染めるという手もあるんだが、ものぐさな俺には、毎日 髪の根元に注意を払うなんてことは とてもじゃないが できそうになくてな。目もカラーコンタクトだ。本当は青い」
「目も……? あ……でも、どうして――」
本当に『どうして』である。
どうして氷河は、これほど美しいものを隠していたのか。
隠さなければならないのか。
瞬には まるで訳がわからなかった。

「こんなに綺麗なのに、どうして……。黒髪でも金髪でも氷河が綺麗なことに変わりはない。金髪の方が本物の王子様みたいで、多分、氷河に憧れてる人たちも喜ぶのに」
ついさっき 自分が否定した意見を、更に否定する。
『むしろ、学校の女共の中には喜ぶ者の方が多いんじゃないか』という氷河の意見に、瞬は今は心から賛同していた。
が、氷河の問題は、学校の内ではなく、外の世界にあったらしい。
学校の外の世界――つまり、氷河の家の内に。

「華道は、仏教伝来の昔から続く 日本の伝統芸術。金髪の男に 流生派家元の座は渡せないと言う輩も多いだろうからな。現に、母が日本人でないという理由で、俺の家元継承に難癖をつけている奴等が 流派内には幾人もいる」
「氷河のお母様……?」
これまで、出会えば花の話ばかりして、互いの家族の話など したこともなかった。
決して興味がなかったわけではない。
氷河に関することなら、瞬は何でも知りたかった。
だが、王子様が暮らす お城の話など聞いても、庶民の自分が そんな別世界のことに実感できないことは火を見るより明らか。
何より氷河が話そうとしないことを根掘り葉掘り聞いて、彼に疎ましく思われることを、瞬は避けたかったのである。
知りたくないわけでは、決してなかった。

「母は 俺が6つの時に亡くなった。それまで 俺は、母と二人でロシアで暮らしていたんだ」
「ロシア……」
気付かずにいた自分が愚鈍に思える。
たとえ髪や瞳の色を黒く装っていても、氷河の面立ちはモンゴロイドのそれではない。
氷河のそれは、曲線だけでできている瞬の顔立ちとは、そもそも骨格が違っていた。
そして それは顔立ちだけのことではない。
「蘭もカトレアもないロシアのシベリア連邦管区内の小さな村だ。野薔薇やクローバーはどこでも見掛けたがな」
北方の――寒さに強い植物に詳しいのも当然のこと。
そういう場所で、氷河は暮らしていたのだ。






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