「俺の母は20年ほど前、流生派がペテルスブルクにロシア支部を作ることになった時、その開設の責任者としてロシアに来た、家元になる前の父と知り合ったんだ。日本語ができた母は、通訳として父に雇われ、親密な間柄になった。だが、伝統を重んじる流生派の家元になろうという男が、金髪の貧しいロシア女を妻にできるわけもなく――父は母の妊娠を知るや、産むも流すも好きにしろと言って 幾許かの金を渡し、故郷の村に帰るよう 母に命じた」 「そんな……。だって、自分の子供なのに……」 氷河の実父を悪く思いたくはないが、それは一人の男として、子の父親として、あまりに無責任、一人の人間としても、あまりに無情で冷酷である。 氷河の父の所業、それ以上に彼の心が、瞬には理解できなかった。 氷河が、冷たく口許を歪める。 「華道流生派の家元の座は、父には、恋や子供より価値あるものだったんだろう。日本に帰国した父は、流生派の後援会会長の娘を妻に迎え、その力で無事に家元の座を自分のものにした。だが、正妻は身体が弱く 子供に恵まれなくて、この先 子を儲けることも難しいとわかった。とはいえ、恩と義理と力のある人物の娘を離縁するわけにも、外に子を作るわけにもいかない。そうこうしているうちに、父の従姉の息子だの、又従弟の娘だのが、次期家元候補として浮上してきた。苦労して手に入れた家元の座を、かつてのライバルたちの子供に渡すことは我慢ならない。何としても自分の子に家元の座を継がせたいと考えるようになった父は、その段になって やっと、自分に子供がいるかもしれないことを思い出したわけだ。妻の父親には、若い頃の過ちと言って詫びを入れ、正妻には、彼女の実子でなくても子がいた方が彼女の立場が強くなると説得して、俺を迎える許可を得た。俺の母が死んだ直後――俺は6歳になっていた」 「……」 淡々と事実だけを語る氷河に、何と言えばいいのか。 事実だけを語り、自分の心を語らない氷河に、瞬の胸は痛んだ。 「俺は他に身寄りもなく、施設に送られそうになっていた。俺に、他の選択肢はなかった。DNA検査をして、自分の子だと確認できると、父は俺に日本に来るよう命じた。奴は、自分で迎えにも来なかった。ロシア支部の下っ端の事務員が、金と書類を持って シベリアの小村までやってきた」 「氷河……」 氷河が事実だけを語るのは、心を語りたくないからだろう。 だが、事実だけでも十分に、幼い氷河の心はわかる。 言ってみれば 赤の他人の瞬にも容易に察せられることが、しかし、氷河の(実の)父には わからなかったのだろう。 それが、瞬には悲しく切なかった。 「糞親父は、自分が黒髪だから、DNA鑑定で親子関係が証明された俺が、まさか こんな姿をしているとは思わなかったんだろう。ところが俺はメンデルの法則を無視して、金髪碧眼。これでも、生まれたばかりの頃は、俺の髪はもっと黒味を帯びていたらしい。アジサイと同じだ。地質が違えば、色も違ってくる。母への愛、父への軽蔑という土で育った俺は、母に似たものへと変わっていったんだ、多分」 「アジサイと同じ……」 黒から金へ。 氷河は、アジサイの花が嫌いなわけではなかったのだ。 アジサイの花に、自身の姿を重ね、人の心の移ろいを重ね、あるいは、変わることなく惨酷な父の振舞いや価値観を思い起こさせられ――様々な思いが募ってのものだったのだ、『アジサイは嫌いだ』という彼の言葉は。 「母を捨てた父、父に母を捨てさせた家を俺のものにすることが、俺の復讐だ。そのために、俺は黒髪、黒い瞳でいる必要があった。だから、俺は自分の姿を偽って日本に来たんだ。その知恵を俺に授けてくれたのは、シベリアまで俺を迎えにきた流生派ロシア支部の事務員だった。彼は事情を聞いていて、俺に同情していたらしい。俺はシベリアの野原で走りまわって育った野生児で、華道の“か”の字も知らなかったんだが、どういうわけか 華の家で育った又従姉弟たちより はるかにセンスがよくて――」 「きっと 野原を走りまわっていたからだよ。氷河は、本当に美しいものが何なのかを知っている」 小さな声で、だが 確信に満ちて、瞬は言った。 氷河が、瞬の その言葉に、我が意を得たりと言わんばかりの微笑を作る。 「奴等は、俺の花は流生派のものらしくないと非難してばかりいるがな。野蛮で、様式美というものが欠けているんだそうだ。奴等に言わせると、俺は危険な伝統の破壊者らしい。だが、奴等以外の人間は、息が詰まるように堅苦しい伝統に囚われた奴等の作品より、俺の花の方を好む。俺の やり方の方が、派の発展につながると言う。実のところ、俺の花は、派の発展どころか、ただの自然回帰にすぎないんだが。まあ、人がどう思おうと、どう言おうと、そんなことは俺の知ったことじゃない。伝統の破壊でも、派の発展でも、好きに言わせておくさ」 楽しそうにではあるが、どこか投げ遣りの気味が感じられる氷河の言葉、声。 瞬が、 「氷河は、花が嫌いなの?」 と尋ねたのは、自棄にも聞こえる氷河の言葉に 少しく不安を覚えたからだった。 もし氷河が、父や“家”を憎むあまり、花をも嫌っていたなら――これほど悲しいことはない。 氷河に そう問うてから、瞬は、自分が以前 同じことを氷河に尋ねたことがあった事実を思い出したのである。 あの時は、逡巡を見せながら、『わからない』と答えた氷河。 だが、今日の彼の返事は違っていた。 今日の氷河は、一瞬の ためらいもなく、 「好きだ」 と答えてくれたのだ。 「よかった」 つい、安堵の息が洩れる。 そうなのであれば――氷河が憎しみの心で花に相対しているのでなければ、氷河も花も不幸にはならない。 そうであるのなら――氷河が不幸にならないのであれば――瞬には、他の すべてのことが些末な事柄だった。 ほっと心を安んじた瞬に、氷河が言葉を重ねてくる。 「特に、ピンク色の可愛い花が」 「えっ」 氷河の声に これまでとは違う熱が感じられて、瞬は それが何なのかが気になり、氷河の目を見上げ、見詰めた。 瞬が そうする前から、氷河は ずっと、じっと、瞬を見詰めていたらしい。 本当は青いという氷河の瞳。 まるで火矢で できているような、強く、鋭く、深い、その眼差し。 あまりの強さ、鋭さ、深さに、瞬の胸は どきどきと大きく波打ち始めた。 瞬が、その眼差しの意味を問う前に、氷河が掛けていた椅子から立ち上がり、瞬の側にやってきて、瞬の手を取る。 あろうことか 氷河は、そのまま瞬の前に跪いた。 「氷河…… !? 」 学園の王子様、未来の帝王が、たかがピンク色の小さな花の前に跪くとは どういうことなのか。 どぎまぎしている瞬に、氷河は つらそうに眉根を寄せ、訴えてきた。 「瞬。怒るなよ。そして、俺を嫌いにならないでくれ。おまえが そんな人間でないことは、もうわかっている」 「氷河?」 「カツラのことを知られた直後、俺がおまえに つきまとっていたのは、もちろん、おまえがナデシコの花のように清楚で可愛くて、おまえを少しでも長く見ていたいと思ったからだ。だが、俺の弱みを握っているのに、おまえが それを誰にも言わないのは……すまん。俺の金髪をネタに俺を ゆするために、おまえは俺の秘密を 誰にも言わずにいるのではないかと、俺は疑っていた」 「……」 高鳴っていた胸が、一瞬で冷たく凍りつく。 瞬は、目の前が真っ暗になった。 『おまえの家は裕福なのか』 あれは そういう意味で――それを探るための問い掛けだったのか――。 喉の奥と目の奥が 突然熱くなり、瞬は、氷河の手を振り払おうとしたのである。 そうなることを見越して きつく瞬の手を握りしめていたのだろう。 氷河の手と指には 異様に強い力が込められており、そして 熱く、瞬を離してはくれなかった。 |