「アテネ大学の教授? そんな奴が 何だってまた日本にまで乗り込んできたんだよ?」
「言語学と 情報工学の博士号を持った、お偉い先生らしい。どうも聖域のことを知っている――聞いたことがあるようだな」
たとえ聖域のことを知っていても、たとえ この屋敷の主が知恵と戦いの女神アテナであることを知っていても――今日の客人は、いかにもインドア派で還暦間近、腕力など持ち合わせていそうにない痩せっぽちの ご老体。
ゆえに、彼が アテナやアテナの聖闘士たちに害を為すことはない――彼は アテナの敵ではない。
星矢は、自分と紫龍が 客間に来るように命じられたことに、どうにも合点がいっていなかった。

「だいいち、なんで俺たちが同席しなきゃならないんだよ。そういうのは、瞬の仕事だろ」
(害のなさそうな)客人が沙織を訪ねて城戸邸にやってきた時、ボディガード あるいは付き添いとして面談の場に立ち会うのは、礼儀作法を心得、人当たりがよく、対峙する相手に威圧感を感じさせることのない瞬の役目。
玄関先で 客人の害のなさそうな風情を見掛けていた星矢は、まさか自分が客間に呼ばれることになるとは思ってもいなかった。
紫龍が、その辺りのことを星矢に説明してくる。

「学者先生というものは、色々なことの段取りを重視する人種だと思っていたんだが……。彼は どうやらアポイントメントも取らずに やってきたらしいんだ。沙織さんは、たまたま時間が空いていたので、会うことにしたらしい。沙織さんに外出や来客の予定がなかったから、瞬は今日は仕事なしと思って、朝から 氷河と富士登山に出掛けていった」
「富士登山ー !? なんだよ、それ! あの二人、最近 敵襲がないからって、たるんでるんじゃないか。アテナの聖闘士が のんびりハイキングかよ!」
「のんびりハイキングではないだろう。頂上まで登ると張り切っていたし、世界遺産だし」
「世界遺産も国宝もあるかよ。氷河と一緒ってんなら、要するにデートだろ!」

最近 氷河は バイクでタンデムする楽しさに目覚めたようで、やたらと瞬と二人で あちこちに遠出することを繰り返していた。
『自分の足で走った方が速いのに』と星矢が意見すると、『そんなことをしたら、一般人が腰を抜かすだろう』という答えが返ってくるが、氷河の目的が“バイクの二人乗りで、瞬と身体を密着させること”であるのは 火を見るより明らか。
瞬も楽しそうにしているので、そのこと自体に文句を言う気はないが、来客のある日は外出を避けて家にいてほしいというのが、星矢の少々身勝手な希望だった。
予定になかった来客とはいえ、瞬がいないおかげで、星矢は、腕力の『わ』の字もないような痩せっぽちのご老体から沙織をガードするために、紫龍と客間に突っ立っていなければならなくなってしまったのだ。
グラード財団の管理運営絡みの話や、グラード財団総帥 もしくは 私人としての沙織に出資や寄付を求めてくる者たちの訴えなど、聞いていても 少しも面白くない。
そもそも理解できない。
そんな面談の場に 毎回 あくびもせずに立ち会っていられる瞬も酔狂なら、少しでも長い時間 瞬と同じ空間にいたいという理由だけで その場に同席できる氷河も偉大だと、星矢は常々 思っていた。

今日の不意の来客は、アテネ大学の教授。
大学の教員・研究者というのなら、彼の用件は 当然、自身の研究資金援助要請という詰まらないものなのだろうという星矢の推測は、幸か不幸か 全く見当違いなものだった。
とはいえ、金の話でないのなら楽しいかというと、決して そんなことはなく――客人の話が(星矢にとって)ちんぷんかんぷんなことに変わりはなかったが。
お偉い学者先生が始めた話は、単なる偶然にすぎなかっただろうが、瞬たちの今日の外出先である富士山と同じ世界遺産に関することだった。

「先日、世界遺産に認定されたアテナイ壁画をご存じですか。あそこは、これまで訪れる者といえば 我々のような学究者ばかりだったのに、世界遺産に登録された途端、一躍 有名観光地になり、観光客が押し寄せているのですが」
彼が 流暢な日本語を駆使できるのは、彼が言語学者だからではなかっただろう。
言語学者なる人種が全員 日本語を話せるはずはない。
日本と日本語が好きなのか、あるいは 興味があるのか――ともかく彼は 日本語で、2年前にアテネ郊外で発見され、1ヶ月前に世界遺産に認定された“アテナイ壁画”なる文化遺産についての説明を、アテナとアテナの聖闘士たちの前で始めたのだった。

「ご存じのことではありましょうが、我がギリシャの文明は あらゆる西洋文化の源流です。紀元前2000年頃には 線文字Aを持つミノア文明がクレタ島のクノッソスを中心に栄え、紀元前1500年頃には 線文字Bを持つミケーネ文明がペロポネソス半島のミケーネ・ティリンスを中心に栄えました。それらの文明は どれも素晴らしい遺跡を残している。我々の祖先が興した それらの文明を、私は ギリシャ人として誇りに思っています。ですが、アテナイ壁画は、それらの文明より 格段に古い時代のもの。ギリシャの歴史に新たな 最古のページを記す、最高の遺跡です」
『新たな、最古の』という日本語表現が、日本語を国語とする日本人たちに通じたかどうかが不安だったのか、学者先生は そこで いったん言葉を途切らせた。

「壁画のある洞窟が発見された当時のニュースを読みましたが、洞窟の壁は石英を多く含んだ とても硬いもので、そこに絵や模様というより文字なのではないかと思えるものが刻まれていたとか。青銅器時代より はるか昔、古代アテナイ人は いったい どんな道具で それを刻んだのか、刻まれている文様も謎なら、刻んだ道具も謎。謎だらけの壁画だという話ですね」
アテナイ壁画に関して、沙織が ある程度の知識を有していると知って安堵したのか、学者先生は大きく頷いた。
「そうです。アテナイ壁画はすべてが謎なのです。刻まれているものの内容、刻んだ道具、刻んだ者が何者であるのかも。放射性炭素年代測定で、洞窟が非常に古い時代にできたものだということだけが わかっている」
放射性炭素年代測定となると、それは もはや言語学の領域ではなく 地質学の領域になってしまうのではないか。
沙織がそんなことを呟くと、言語学者という触れ込みの老人は、瞳を輝かせて 掛けていたソファから身を乗り出した。

「フランスのラスコー洞窟の壁画は、15,000年前の旧石器時代後期のクロマニョン人によって描かれたと言われています。スペインのアルタミラ洞窟壁画は、18,000年から10,000年前。いずれも、描かれているのは野牛や馬などの動物を中心とする絵だ。しかし、アテナイ壁画は、それらより更に古い時代のもの。にもかかわらず、刻まれているものは 絵ではなく文字なのです。現時点で人類最古の文字は 紀元前3300年前のメソポタミアの楔形文字とされているが、アテナイ壁画に刻まれている文字は、それより更に10000年以上古いのです。信じられない!」
感極まったように、学者先生が叫ぶ。
「文字……なのですか」
沙織が彼に そう尋ねたのは、その事実を疑ったからというより、彼の興奮を落ち着かせるためだったろう。
しかし、それは逆効果。
「文字だ!」
学者先生の興奮は、更に激しくなってしまった。
嘆息し、沙織が重ねて彼に問う。
「それで……それが私にどう関係があるのでしょう」

文化的歴史的価値を公に認められていない史跡や、内乱等の戦闘 あるいは地理的条件によって 保全が危ぶまれている文化遺産なら、その研究や保全・修復作業のために金銭の援助を必要とすることもあるだろうが、彼の言うアテナイ壁画は、その歴史的価値を認められ、世界遺産の認定も受けているもの。
その上、既に観光客が押し寄せてきているという。
ギリシャは観光立国、観光資源の重要性や それらの資源が生む利益の莫大さは、国も国民も承知しているはず。
わざわざ 遠い極東の島国まで、アテネ大学の教授という肩書きを持つ人物が援助を求めて やってくるのは奇妙なことである。
グラード財団総帥である沙織は、彼の来訪目的に思い至ることができなかった。
とはいえ、それは 彼女の察しが悪いからではなかっただろう。

彼女は、根本的なミスを犯していた――認識を誤っていたのである。
アテネ大学の教授が日本に訪ねてきた相手は、グラード財団総帥でも、莫大な個人資産を持つ城戸沙織個人でもなかったのだ。
学者先生は、興奮し 上擦らせていた口調を一変させ、学者らしい落ち着いた声で、彼の来訪目的を沙織に告げた。
その内容は、少々 学者のそれとは思いにくいものだったが。






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