「ある筋からの情報で――あなたは普通の人間ではないと聞きました。なんでも、女神アテナの生まれ変わりだとか」
と、ギリシャから やってきた学者先生は言った。
「もちろん、私は そんな伝聞を鵜呑みにしているわけではない。しかし 私は、霊感、霊能力、超能力等、五感以外の力の存在は信じている――いや、信じているというより、感じるのです。私自身、論理的とは言い難い直感に導かれて 解明できた言語が二、三ありますからね。私は、あなたが女神アテナの生まれ変わりだということを完全に否定するわけでも肯定するわけでもないが、神の存在は信じている。もちろん、私の言う神とは、あくまでも人智を超えた力を持つ意思ある存在のことで、世界の創造者のことではありません。とりあえず、世界の創造神のことは この問題においては考慮しません」
彼の発言は、その内容は ともかく、語り口は まさに学者のそれだった。
確証のないことは肯定も否定もしない――断言しない。

学者先生が、グラード財団総帥ではなく、女神アテナの生まれ変わりと噂されている者を訪ねてきたのだということを知らされた沙織は、毅然とした表情で彼に告げた。
「私は、女神アテナの生まれ変わりではありません」
沙織は もちろん、自分は女神アテナの生まれ変わりではなく アテナ当人だと告げたのだが、学者先生は その発言を違う意味に解したようだった。
つまり、沙織は、自らを女神アテナの生まれ変わりですらないと言っているのだと。
「たとえ神の生まれ変わりでないにしても、あなたが ただ者でないことは事実だ。その若さでグラード財団総帥が務まっていること自体が、既に尋常ではない。あなたの周囲で不思議なことが起こっていると、これは二、三の目撃証言もある。人間離れした身体的能力を有する者、霊能力もしくは超能力を持っているとしか思えない者が、あなたの周囲には数多く存在している。既に第一線から退いていて 先日亡くなった私の恩師は、2年ほど前に あなたに会ったことがあったのです。恩師は、あなたが古代アテナイ方言を あり得ないほど流暢に話してみせたと言っていた」

彼は、沙織が女神アテナの生まれ変わりだということを信じてはいないが、彼女が 常識と人智を超えた存在の一つだと認めることには やぶさかではないらしい。
だから 彼は沙織を訪ねてきたものらしかった。
沙織を女神アテナその人だと信じてしまえば 面倒がなくて、こんな まどろっこしい言い方をせずに済むのに――と、星矢は単純シンプルに思ったのである。
学者先生は、その立場上、あるいは 身についた性癖のためなのか、まだるっこしい言い方をせずにはいられないようだったが。

「素人としての意見でも構わない。壁画の文字の解読が頓挫しているのです。藁にも すがる思いで――直感に至る きっかけを求めて、私は あなたを訪ねてきました。我が国で発見されたものの解読を他国の者に先んじられるわけにはいかない。そんなことになったら、我が国の立場がない。アテネ大学の名折れ、言語学者としての私には この上ない屈辱。この文字をどう思うか、あなたは どう読むか、ご意見を伺いたい」
そう言って、彼が、この家の主と来訪者の間にあるテーブルの上に並べたのは、数枚の大判の写真だった。
アテナイ壁画の写真――岩肌には、文字とも紋様とも つかない何かが記されている。
どう見ても、動物や植物――自然の中にある物体――の絵ではない。
写真の文字(紋様?)が あまり明瞭でないのは、カメラの性能の低さに起因するものではなく、その壁画が氷の向こうにあるから――のようだった。
アテナイ壁画は、その全体が氷の壁で覆われているのだ。

「アテナイ壁画は、融けない氷に覆われているのです。天然のガラスケースに収まっているようなものだ」
「あ、じゃあ、もしかして、その氷を瞬に融かしてもらいたくて、ここまで やってきたってことなのか?」
融けない氷といえば、永久氷壁。もしくはフリージングコフィン。
それが 壁画と学者先生の間に立ち塞がっているというのなら、まず為されるべきことは解凍作業。
壁画にも歴史にも古代文字の解読にも興味がなくて、あくびを噛み殺すのに必死だった星矢は、やっと自分に理解できる分野の話になったと考えて、学者先生に そう告げた。
途端に、学者先生の怒声が星矢の上に降ってくる。

「氷壁を融かす? とんでもない! 融けない氷に守られているからこそ、アテナイ壁画は 現代まで 完璧な状態で保存されていたのだ。私は地質学者でも考古学者でもない。それらの分野の知識も必要なので 一通りは修めているが、私は あくまでも言語学者だ。文字の正確な形状と並びがわかる映像があれば十分、文字に この指で直接触れたいとは思わない!」
「うへ……。そりゃまた、どうも お見それしました」
学者としての探究心や意気込み、ギリシャ人としてのプライド。
それらのものに突き動かされているのか、学者先生は やたらと元気、意気軒昂。
星矢は ご老体の叱責に肩をすくめ、だが、悪びれる様子もなく、先生の持ち出した写真を覗き込んだ。

写真の岩壁には、短い縦棒が幾本も刻まれ、その間に 文字なのか模様なのか 何とも判別し難い形状の図形が描かれ、それが幾つも続いている。
「これはギリシャ文字か? 違うな。これは『α』じゃなく『の』の字みたいだ。こっちのは『ν』というより『ひ』だな」
星矢の指摘に、学者先生は気をよくしたらしい。
彼は 軽く唇の端を上げて、ここにきて初めて 微笑のようなものを作った。
そういう表情を浮かべると、彼は、まるで小学生を指導している経験豊かな教師のように見える。

「君は目のつけどころがいい。この壁画の文字は、ギリシャの女神アテナの生まれ変わりといわれる女性が なぜか日本にいることと同じくらい 奇妙なものなのだ」
『大変 よくできました』と言って、目のつけどころのいい小学生の頭を 今にも撫で出しそうな学者先生の“なでなで”から逃れるために、星矢はテーブルの上に乗り出していた身体を こころもち後方に退かせた。
学者先生が、沙織の方に向き直る。
「アテナの生まれ変わりでも、騙りでもいい。神としての意見でも 人としての意見でも構わない。あなたの意見を聞きたい。神は、人間のそれとは異なる独自の言語を持っているだろうか。私は、それが人間の脳が作った言語であれば、完全に解読はできないまでも、言語体系くらいは察することができるつもりだ。しかし、これは まるでわからない。私は これを 神の言語だと思っているのです」
「神の言語?」






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