夕方になって瞬が帰ってくると、氷河は ぼんやりしていることをやめ、やっと今日の彼の活動を開始した。
今日の氷河の活動といっても、それは 瞬の今日の活動の内容を確認する程度の活動でしかなかったのであるが。
「今日は、いつもより帰りが遅かったな。何か問題でも起きたのか? 今日は何をしたんだ。」
「特に問題があったわけじゃないんだけど、どこのお宅でも引きとめられちゃって……。今日は 南地区の お年寄りの安否確認と話し相手をしてきたの。80歳のおばあさんが17歳の時の初恋のお話をしてくれたよ。昔の恋って、何ていうか、生真面目で清らかだったんだね。感動しちゃった」
今日の瞬の訪問先は5軒。
老人たちは誰も 暑さに文句を言いつつ元気で、瞬は各々の家で、60年以上昔の恋の話やら、趣味の俳句の話やら、出世した教え子の話やら、母から教えてもらった筑前炊きを美味しくするコツやらを 延々と聞かされてきたらしい。

「そうか。おまえが楽しかったのなら よかった」
瞬は老人たちがしてくれた彼等の昔話を 正味20分ほどで完了したが、老人たちは 全く同じ内容を数時間かけて くどくどしく 語ったのだろう。
それを瞬は(おそらく)にこにこしながら ずっと聞いてやっていたのだ。
瞬の活動内容の報告を 氷河の脇で聞いていた星矢は、瞬の その忍耐強さに、“感心”を通り越して 呆れてしまったのである。
確かに それは ボランティア精神にあふれていなければ到底 務まらない仕事だろう。
もし氷河が瞬に同行していたら、彼は、『くどい! もっと手短に要領よく話せ!』と老人たちを恫喝してしまっていたに違いなかった。
氷河は来ないでくれという、社会福祉協議会職員の判断指示は全く正しいと、星矢は思ったのである。

今日の業務内容を手短に要領よく報告し終えると、今度は瞬が 氷河に、
「氷河は? 氷河は今日は何をしてたの?」
と尋ねてきた。
「あ、いや……俺は 特には何も」
「何も? 何もしなかったなんてことはないでしょう」
やわらかい声ではあるが 確信に満ちた口調で瞬に そう言われた氷河が、勤勉な瞬の前で 気まずげに曖昧な笑みを浮かべる。

怪訝そうに瞬きをした瞬に、星矢と紫龍が、
「ところが、氷河の奴、ほんとに一日中、何もしねーで、ぼーっとしてたんだ」
「氷河は、おまえがいないと、身体を動かすのも 口をきくのも億劫らしい」
と言って、氷河の言葉が嘘でも冗談でもないことを保証してやったのは、決して氷河の怠惰振りを揶揄するためではなかった。
それは、事実を事実として瞬に知らせてやることが 二人のためと考えてのこと――いわば、氷河と瞬を思い遣ってのことだったのである。
仲間たちの証言を得ても、勤勉な瞬には それは到底信じ難いことであるようだったが。

「まさか……。一日中 ぼうっとしてるなんて、そんなこと、できるわけない。無理だよ。普通は、することがなかったら、するべきことを見付けるものでしょう。どうしても見付からなかったとしても、それなら読書とか、せめて お昼寝とか――」
「でも、ほんとにぼーっとしてたんだ。こいつは、おまえがいないと、エンジンがかからない壊れた自動車みたいなもんなんだ」
「氷河は、おまえがいないと、生産的なことや建設的なことを する気になれないようだ。昼食にも ほとんど手をつけなくて、氷河は具合いが悪いのかと、栄養士が訊いてきたくらいだ」
「氷河、お昼も食べてないの……?」
そこまで言われると、さすがの瞬も『氷河は 一日中 ぼーっとしていた』という星矢たちの言葉を、嘘や冗談ではないと思うしかなくなったらしい。
それでも まだ完全に信じきることができなかったのか、瞬は心許なげな目で仲間たちを見詰めてきた。

「でも、やっぱり……そんなはずないよ。僕が知ってる氷河は、いつも いろんなことに意欲的で活動的で――」
「そりゃあ、おまえと くっつく前は、おまえの気を引くっていう明確な目標目的があったからな。その目的実現のために、氷河は 意欲的に あれこれ策を練って、実行に移して――だから 勤勉で活動的に見えていたし、実際 そうだったんだ」
「だが、今は その願いが叶って、目的は達せられた。今の氷河は 目標を見失った状態なのかもしれん。おまえと行動を共にすることを禁じられてている今の氷河にできることは、おまえに迷惑をかけないよう、一人でぼんやりしていることだけなんだ」
「でも……」

瞬が得心できない気持ちは 星矢にも紫龍にも よくわかった。
普通の人間は、一つの目標を達成したら、大抵は すぐに次の目標を見付け出すものなのだ。
それ以前に、生きていく上での目標目的、日々の目標目的を、氷河のように たった一つしか設定していない人間は極めて稀。
普通の人間は、生きていく上での目標目的、日々の目標目的を常に複数 用意している。
『理想の恋人を得る』『希望の企業に就職する』『体重を5キロ減らす』『服のセンスの良し悪しを見極める目を養いたい』『人に尊敬されたい』『旅行に行きたい』『プレイ中のゲームをクリアしたい』『趣味のコレクションを充実させたい』等々、多くの目標目的を並立して抱えているのが普通の人間というものなのである。

「氷河って、何か趣味とかなかったっけ? あ、バトルは趣味の範疇外な。バトルは 時間があればできるってもんでもないし」
「氷河の趣味……?」
瞬の眉が不安そうに曇ったのは、氷河の趣味についての情報が 瞬の中に一つもなかったからに違いない。
「氷河、何か したいことはないの?」
瞬に問われた氷河は すぐには答えを返してはこなかった。
氷河としては、『おまえと一緒にいたい』と答えたいのだが、それで瞬のしたいことを妨げるわけにもいかず、かといって瞬に嘘もつきたくない――といったところなのだろう。
結局 氷河は、
「今は特には……」
という、実に曖昧な――瞬にとっては一層 不安が募ることになるだろう答えを口にすることになった。
その答えを受け取った瞬が、僅かに眉根を寄せる。

「いっそ敵襲があれば、氷河にも やることができるんだけど、このところ やたらと暑いから、敵さんもバテてるみたいなんだよな」
「俺の家庭菜園の世話の手伝いをさせることも考えたんだが、俺の菜園は手伝いが必要なほど広くもないし」
「サッカーに誘っても、こいつ ガキの頃から『サッカーは冬のスポーツだ』って言って きかない奴だったからなー」
氷河に何事かをさせるだけなら、無理強いをすればできないこともない――かもしれない。
しかし、それでは氷河は楽しめないだろうし、氷河に無理を強いる側も 良い気分にはなれない。
地上の平和を守るための戦いですら、『瞬が戦っているから、俺も』というような態度を見え隠れさせていた男に、瞬というエサなしで何事かを(楽しんで)させることは、ほぼ不可能。
それが、星矢と紫龍の忌憚のない(だが、口には出さない)考えだった。

「氷河には 本当にしたいことはないの」
そんな人間がいることが信じられないと言いたげな戸惑いが、瞬の瞳を覆っている。
時に憂いを帯びることはあっても、常に覇気に満ち、意欲的精力的な氷河の姿ばかりを見てきた瞬に、氷河の無為無策無趣味振りは 戸惑いを生むものでしかなかったのだろう。
氷河は、瞬のいる場所、瞬の目のあるところでは、傍迷惑なほど生気と活力に満ちた男なのだ。
しかし、瞬との関わりを禁じられた氷河は、六日の菖蒲、十日の菊、月夜の提灯より役に立たない男だった。

「氷河のしたいことかぁ……。マーマの墓守りとか、マーマの墓参りとか?」
「それも あまり生産的なこととは言えないな」
「氷河って、基本的に、愛だけに生きてる男だからな」
「趣味が愛か。それもすごい」
「それって、今の氷河の趣味が瞬だってことだよな。趣味が瞬!」
「……」
たとえば恋を夢見る思春期の少女なら、自分が誰かに そこまで思われることを喜び、幸福なことと考え、得意に思うこともあるのかもしれない。
だが、瞬は、そういう人間ではない。
趣味が瞬、趣味が愛のみ――という仲間たちの言葉に衝撃を受けたらしい瞬の 氷河を見る目は 痛ましげ――むしろ悲しげなものになった。
そんな瞬の様子を見て慌てた紫龍が、さりげなく 話題を建設的生産的な方向に転換させる。

「考えようによっては、それも幸せなことかもしれん。が、ここは やはり、何か別の生き甲斐を見付けた方がいいだろうな」
「でも、今の氷河って、趣味だけじゃなく 生き甲斐も瞬だろ」
紫龍の意図を汲み取れていないのか、汲み取っていればこそのことなのか、星矢が 紫龍の建設的生産的な提案に 脇からクチバシを挟んでくる。
紫龍は、事実と認めざるを得ない星矢の言を 軽く受け流した。
「生き甲斐と仕事は、アテナの聖闘士としての戦いということにして、氷河に向いた趣味を――せめて履歴書に書ける趣味を見付けよう。まあ、氷河に履歴書を書く必要が生じることがあるとは思えないが、今は その点は無視するとして……そうだな。読書、音楽鑑賞というのが 最もポピュラーなところか。スポーツやスポーツ観戦、絵画鑑賞、映画鑑賞、ガーデニング、鉄道やマンガやアニメ等のオタク分野、今はネットというツール絡みの趣味も多いのか」

「氷河の本来の趣味は瞬なんだから、その延長で、瞬の絵を描くとか、瞬の彫像を創るとか、瞬の人形を作るとかいうのは どうだ? 100分の1スケールの瞬フィギュアから始めて、50分の1スケールの瞬フィギュア、25分の1スケールの瞬フィギュア、10分の1スケールの瞬フィギュア、5分の1スケールの瞬フィギュア、3分の1スケールの瞬フィギュア、2分の1スケールの瞬フィギュア、等身大の瞬フィギュア、とどめに 2倍スケールの瞬フィギュアを作って、ずらーっと並べてみんの。きっと 壮観だぜー」
星矢の茶化すような提案は、無責任なものではあったが、確かに生産的なものではあった。
紫龍が、星矢に浅く頷く。
「それは妙案だ。愛が生産的でないとは言わないが、愛だけに生きているのは、やはり社会の構成員の一人としては問題があるからな。愛を形にするというのは、立派な生産行為だ。アート・セラピー、クリエイティヴ・セラピー、その手の創作行為は心理療法としても採用されている」

無責任かもしれないが生産的ではある星矢の提案と 紫龍の煽り。
だが、それは 氷河当人によって即座に却下された。
「俺が好きなのは、生きている瞬だ。本物の瞬が いちばん美しい。偽物を作って何になるんだ」
もちろん それが氷河の却下の第一の理由ではあったろうが、あるいは 氷河は、自分が心理療法を必要とするような状況にあることを認めたくなかったのかもしれない。
しかし、ここで あっさりと諦めてしまうようでは、アテナの聖闘士などという商売はやっていられない。
“諦めが悪い”。
その特質が、彼等青銅聖闘士を、聖闘士の最高位にある黄金聖闘士たちをも凌駕する聖闘士たらしめているのだ。
氷河の仲間たちは、もちろん 食い下がった。

「では、造形美術ではなく創作文芸はどうだ」
「創作文芸?」
「そうだ。たとえば、詩や小説、短歌、俳句。そういったものを、瞬へのラブレターを書くつもりで創作するんだ。ネット上に上げておけば、瞬は それをケータイで いつも読める。ボランティア活動に疲れた時でも、同じ話を繰り返す ご老体の相手をしている時でも」
「瞬へのラブレター?」
そのフレーズに、氷河は少しばかり 興味を抱いたらしい。
2倍スケール瞬フィギュアには 嫌そうな顔をしてみせた氷河が、その瞳に興味深げな輝きを呈する。
が、その提案には、瞬が異議を唱えてきた。

「や……やめてよ! そんなの恥ずかしいものをネットに上げておくなんて。万一、知ってる人に読まれたりしたら どうするの!」
「ネット上に そんなものがあるって、誰にも知らせなきゃいいだけのことだろ」
「でも……どこから洩れるか……」
「ならば、それが氷河から おまえへのラブレターだと わからないようにカムフラージュすればいい。架空の二人の物語、架空の恋人たちの詩。それなら、誰かに見付かって読まれることがあっても無問題だ」
「それって、いいアイデアじゃん。それが おまえら二人のことだってわかんないように、好きなこと書き殴ってればいいんだよ。テーマが『瞬について』『二人の恋について』なら、氷河には一家言あるだろうし」
「うむ。物語風、日記風、書簡風。名前を出さずに、瞬としたいことを書くのもいいぞ。趣味が瞬なんだから、瞬と過ごす理想の愛の日々を書き綴ってみるというのはどうだ」
「そうなると、ラブレターとか 恋の告白とかじゃなく、立派な創作だな。いや、妄想日記か」
「俺と瞬の理想の愛の日々か。それは悪くない……かもしれん」

創作文芸など、肉弾戦が主業務のアテナの聖闘士には 最も遠いところにある趣味である。
だが、星矢と紫龍の煽り方が巧みだったのか、非生産的非建設的な日々に、氷河自身 いていたのか、意外にも氷河は その気になったようだった。
氷河当人が乗り気になっていることに、瞬も 強く反対することはできない。
かくして、白鳥座の聖闘士キグナス氷河の趣味は、めでたく(?)“瞬と瞬への恋をモチーフにした創作文芸”ということに決定したのである。






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