沙織が 彼女の聖闘士たちの許に血相を変えてやってきたのは、星矢が氷河と そんなやりとりをした日から1週間が経った土曜の夕刻。
ちょうど今日の仕事を終えた瞬が 社会福祉協議会館から城戸邸に帰ってきた時だった。
仲間たちのいるラウンジに入ろうとしていた瞬を押しのけるようにして室内に飛び込んだ沙織は、そこに氷河と氷河のパソコンの姿を認めると、柳眉を逆立てて氷河を詰責し始めた。

「氷河! あなた、今、グラードが提供しているネットワークサービスのブログで小説のようなものを書いている !? 」
「ブログ? ああ、一応、小説を置かせてもらっているが……」
「それって、白鳥の騎士と 清らかな騎士とやらが出てくる冒険ファンタジー? ほぼ毎日更新の連載物」
「なぜ それを知ってるんだ。いや、あれは冒険ファンタジーなどではなく、熱烈なラブストーリーなんだが」
「あなたの書いているもののジャンルなんて、冒険ファンタジーだろうが 抱腹絶倒ラブストーリーだろうが、どうだっていいのよ!」
氷河がパソコンを置いているテーブルの脇に仁王立ちに立って、沙織は室内に大音声を響かせた。
興奮に邪魔されて 続く言葉が出てこないのか、沙織の顔は引きつり、その両の拳はぶるぶると震えている。

「おまえ、そんなもん書いてたのかよ?」
星矢が緊張感のない声で 氷河に そう尋ねたのは、だから、極度の興奮(怒り?)で全身が痙攣しているような沙織の 脳の血管を案じてのことだった。
沙織の剣幕に ぽかんとして瞬が動けずにいるので、場の緊張を緩めるために動ける人間が、そこには 星矢しかいなかったのである。
話す内容が ふざけていても 声の調子だけは常に生真面目な紫龍は、そういうことには あまり向いていないのだ。
氷河が、首をかしげたのか 頷いたのかの判断が難しい微動を見せる。

「最初は普通のラブレターを書こうと思ってたんだが、俺が どれだけ瞬を好きなのか、どうして俺がこれほど瞬を好きになったのかを訴えようとすると、どうしても、俺の生い立ちから、瞬がこれまでに俺にしてくれたこと、口にした言葉や見せてくれた仕草、すべてを記さなければ わかってもらえないことに気付いたんだ。幼い頃の出会い、離れて修行していた日々、再会し、二人で戦ってきた戦い――これまで二人の間にあったことのすべてを。だから、自伝というか、二人の歴史のようなものを書き始めたんだ。名前を出すなと言われたし、アテナの聖闘士の存在が公に知れるのもまずいだろうから、舞台を変え、異世界での恋愛譚という体裁を採った」
「それはよかったこと。あなた、自分の小説がどれだけの人に読まれているか、わかっているの !? 数日前からグラード財団のサーバーの負荷が異様に増えていたらしいけど、つい3時間前、ついにサーバーがダウンしたと連絡が飛び込んできたわ。原因を調査させたら、あなたの連載小説のせいだというじゃないの。とんでもない話だわ!」

「別に連載していたわけではない。グラードが提供しているブログをカスタマイズして、そこを、書き上げた文章データのバックアップ場所として使っていただけだ。毎日、書きあがった分だけアップロードしていた。なにしろ俺は パソコンを酷使し続けているからな。いつか壊れるかのではないかと用心してのことだ」
「読者がいたのかよ? 氷河のラブレターに? サーバーがダウンするほど?」
「沙織さん。ですが、その手のものは、URLを公開しなければ存在が公に知れることはないのでは? 素人の書いた小説もどきなど、宣伝しても読んでもらえないことの方が多いでしょうに」
紫龍の指摘は痛いところを衝いていたらしく、沙織は忌々しげに唇の端を引きつらせた。

「グラードが提供しているネットサービスのブログは、公のURLの他に 内部シーケンス番号を持っているのよ。その番号を辿れば、URLを公開していなくても、余人が辿り着けないことはないわ。意図して探そうとしなくても、インプットミスで偶然アクセスしてしまう可能性もあるでしょうし」
「でも、そんなの、滅多にあることじゃないだろ。いったい なんだって、氷河のラブレターなんかに そんなに大量のアクセスがあるんだよ」
星矢の疑念は、これまた至極尤も。
沙織の渋面は、いよいよ渋さを増すことになった。

「何かの弾みで 氷河のブログに気付いたユーザーが――中学生か高校生くらいの女の子だったらしいんだけど、その子が すっかり氷河の似非小説のファンになってしまったらしいの。それで、ファンメールを出そうとしたのだけど、ブログには連絡先も何も掲載されていなかった。で、どうにか連絡先を突きとめることはできないかと、日本一の規模を誇るナレッジコミュニティの掲示板に相談の記事を載せたのよ。それで興味を持った人たちが 氷河のブログにアクセスしたんでしょう」
「ふえー。ネットって恐いな。迂闊なことできねーぜ」
「ええ。ネット上には、厄介な人間が大勢いるのよ。特に厄介なのが、ハッカーや冷やかし野次馬の類、自分の知識や力を誇示したがっている人たち。その中の一人が グラードのサーバーをハッキング、あなたの存在を突きとめて、名前までは探り出せなかったらしいけど、なぜか、どういう手段でか、あなたの写真を入手したようなの。その写真のせいで、氷河のファンが爆発的に増えたのよ。ネットの情報伝達の力は恐ろしいわ。ネットユーザーの悪趣味は もっと恐ろしくて嘆かわしいことだけど」

「作品じゃなく、作者の顔でファン急増かよ」
「大衆なんて、そんなものよ」
呆れた顔になった星矢に、沙織が軽く片眉を上げてみせる。
それは驚くようなことではなく、ネット世界では よくあることなのだと、言葉にはせず、沙織は仕草で言っていた。
「小説、詩、コミック、随筆、ハウツー物にサラリーマン啓蒙書の類まで、今は、作品の出来だけが重要だった昔とは違うわ。出版社も、著者やライターの写真を出した方が売れるか、出さない方が売れるかを冷酷に判断して、対応を決定するのよ」
「うわー」
沙織の その言葉を聞いて、星矢は、顔を出さない方が売れると判断された作家たちの心中は いかばかりかと、永遠に その顔を知ることのない多くの文筆業従事者たちに 心から同情した。

「とにかく、氷河の顔は大衆にアピールした。ほんと、顔の造作だけは無意味にいいんだから、この似非小説家は傍迷惑よ。おまけに、ネット上で有名な とあるレビュアーが――そのレビュアーは、レビューの材料として作品を採りあげられるだけでも宣伝になるくらい、評価の内容に定評のあるレビュアーなのだけど、氷河の小説もどきを『粗削りだけど、あまりに臨場感がありすぎて恐い』とか何とか、称賛なのか こき下ろしなのか わからないレビューを発表してくれたものだから、氷河の小説もどきのファンは更に増えた」
「へえ。おまえ、 そんな名作 書いてたのかよ」
「それほどでもない。俺は 俺の心を赤裸々に綴っただけだ」
「褒めているのではありません!」

表情を変えずに悦に入ってみせる氷河を、沙織が ぴしゃりと大喝する。
それでなくても吊り上がっていた沙織の眉が 更に吊り上がってしまったら、彼女の顔は どんなことになるか わからない。
紫龍が 沙織と氷河の間に割って入っていったのは、氷河のためというより、むしろ沙織(の顔)のためだったろう。
「あー……。要するに、おまえが書いたのは、二人の騎士が登場する異世界恋愛ファンタジーというものなのか」
「あれのジャンルなど、特に決めて書いたわけではないが――。“白鳥の騎士”と、彼が“清らかな騎士”と呼ぶ騎士が 地上の平和を守るために命をかけて戦い、やがて熱烈に恋し合うようになる話だ。そこに、次から次へと二人の恋を邪魔する悪党共が現われて、二人は なかなか結ばれない――」

「白鳥の騎士と 清らかな騎士?」
「実名で書くわけにはいかなかったからな。瞬が恥ずかしいと言うし」
「白鳥の騎士だの 清らかな騎士だのってネーミングの方が よっぽど恥ずかしいぜ。今時は、そんなのが受けるのか?」
「世間のことは、俺は知らん。話自体は、最初は 地上の十二国との戦い、北辺七星との戦い、海の七国との戦いを経て、冥界での戦いが終わったところだった。清らかな騎士が 冥界の王に身体を乗っ取られて 白鳥の騎士と敵対し合うんだが、白鳥の騎士の愛の力が、瞬――清らかな騎士を支配しかけていた冥府の王を退けたんだ」
「おまえに都合のいいように、捏造しまくりだな。瞬が元の瞬に戻ったのは、アテナの血と、地上の存続を願う瞬自身の意思の力が強かったからだろ」
「そうだったか? だが、ハーデスの支配を受けていた瞬の心のどこかに 俺という存在があったのは、否定できない事実だろう」

氷河は案外 本気で、瞬のハーデス撃退は 白鳥座の聖闘士の愛の力によるものと信じているのかもしれない。
氷河の身勝手な言い草に、星矢は思い切り 顔を歪ませた。
自らの手柄を氷河に横取りされた(てい)のアテナは、だが、そんなことは大した問題ではないと考えているらしく――もとい、今 ここでアテナの聖闘士たちの前で眉を吊り上げているのは 知恵と戦いの女神アテナではなく、グラード財団の若き総帥 城戸沙織だったらしい。
当然、グラード財団総帥にとっての大問題は、現実の世界にある。






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