午後の陽光は、ひと月前に比べれば かなり やわらかいものになっている。 庭に面した御簾が上げられているので、部屋の内は明るい。 帝、東宮、関白、親王たち、左右大臣をはじめとする四位以上の公卿たち(要するに 藤原摂関家の有力者たち)が、興味津々で待ち構えている大広間。 そこに登場した かぐや姫は、水干を身につけ、立烏帽子をかぶり、白鞘巻を差していた――つまり、男装していた。 その上で、未婚の姫のように 扇で顔を隠しているのだから、いかにも不自然――むしろ奇異だった。 体つきは、姫というより、歳のいかない少年のように細く華奢。 扇を持つ手は白く、指は細く、絶世の美女のものとしては合格点。 立ち居振舞いは、御簾と几帳の奥から 滅多に出てこない深窓の姫君というよりは 少年のそれのようで、無駄がなく、軽やかで、機敏そうに見える。 かぐや姫への氷河の第一印象は、『小気味いいが不可解』だった。 だが、何といっても 肝心の顔を見ないことには、判断のしようがない。 この国の最高位の貴紳たちの誰もが その扇が下ろされるのを待っている中、しかし、あろうことか かぐや姫の第一声は、 「僕の目を見ないでください」 だった。 帝の臨席は非公式、この集まり自体も 公的なものではないので、作法として問題はなかったが、帝の勅命で この場にやってきた者が、帝の お声を待たず、挨拶をすることもなく、開口一番『目を見るな』。 その命令(!)は、帝への挨拶より重要なことなのだろうか? もちろん、重要なことであるに決まっている。 たとえ その不敬を疑われ 咎められ、薄暗く不潔な牢に閉じ込められることになっても 絶対に伝えなければならない重要なことなのだ、それは。 少なくとも、かぐや姫にとっては。 氷河は、恐れを知らない かぐや姫の高慢に 感心してしまったのである。 無論、その重要な命令(?)は、実は大したことのない容貌を隠すための虚勢、あるいは演出なのだろうとは思ったが。 「ここまで来て、勿体ぶるな。たかが貧乏公家の――いや、今は 色好みの貴公子や有力豪族からの貢ぎ物で 大金持ちになっているのか。竹取物語の翁と嫗のように。おまえの兄は うまいことを考えたものだ。絶世の美女を仕立てあげ、大勢の馬鹿者共から金や絹を巻き上げて、労せずして莫大な財を手に入れるとは」 「兄を侮辱しないでください」 氷河の挑発に、かぐや姫は 怯むことなく反駁してきた。 ここにいるのは、この国の頂点に立ち、この国を意のままに操る要人、権臣たちである。 こんな遊興の場に のこのこ やってきて 雁首を並べているような輩のこと、個々人の能力、人品の程は たかが知れているが、与えられた地位に付随する権力は強大至極。 彼等の中の誰かが 今ここで 貧乏公家の姫の命を その扇ごと断ち切っても、誰も文句を言うことはできないほどの暴君たちなのである、彼等は。 この無能な権力者たちが 自分の手で人を切り殺すだけの度胸を持ちあわせていないことを知っているのだとしても、かぐや姫の反駁は 実に肝の据わったものだった。 氷河は かぐや姫に好感を抱いたのである。 大いに好感を抱いた。 その姫を、立場上、氷河は いじめ続けなければならなかったが。 「侮辱かどうかは、おまえの美しさ次第だ。おまえが本当に絶世の美女なのであれば、おまえの兄は 卑劣な策を弄して 不当な利益を得た者ではなくなる」 「見ない方が、ここにいる皆様のためなんです……!」 顔を見せてくれれば 事実は一瞬で判明すると言っているのに、かぐや姫は 必死の形相で――もとい、必死の声音で――あくまで抵抗し続ける。 その悲愴と表していいような かぐや姫の声は、浅ましい欲によって企てられた計略の露見を恐れているだけの者にしては悲痛すぎるような気がしたが、氷河も ここで あとに退くわけにはいかなかった。 「やはり金を引き出すための愚劣な計略か。おまえの兄は 相当 欲の皮の突っ張った――」 「兄を侮辱するなと言っている!」 かぐや姫の声が 鋭くなる。 「それが いわれのない侮辱だということを示す証拠を見せろと言っているんだ!」 もちろん、氷河も 負けじと言い返す。 兄を侮辱されることが、かぐや姫には 耐え難い苦痛であるらしい。 かぐや姫は、ついに 氷河の挑発に乗った。 「そんなに言うのなら、見せて差し上げます。見て後悔するな!」 「後悔など するものか!」 「その言葉、決して忘れぬよう!」 兄への嫌疑と侮辱を晴らすために挑発に乗った かぐや姫が、それでも まだ逡巡の気持ちを捨てきれぬように少しずつ、自らの顔を覆い隠していた扇を閉じていく。 その緩慢な所作に苛立ち――否、氷河は、かぐや姫が その扇を閉じ終える前に冷静と平常心を取り戻すことを恐れたのだ。 氷河は、座していた場所から立ち上がり、つかつかと かぐや姫の前まで歩み寄ると、その白い手から 桜色の扇を奪い取った。 次の瞬間、二人の視線が正面から ぶつかり合う。 氷河は息を呑んだ。 美しい。 その面差しも、もちろん 絶世という言葉に ふさわしいものだったろうが、二人の視線が交わった その瞬間、氷河の目に かぐや姫の“顔”は見えていなかった。 どんな不純物もなく澄み切った二つの瞳が、氷河の目を通して、氷河の魂を射抜く。 この国を意のままに操る無能な権力者たちも、氷河に倣って 息を呑んでいた。 「う……美しいではないか。なんて目だ。なぜ隠す。これほど美しい瞳」 隠そうなどとせず、最初から素直に見せてくれていれば、自分は この澄んだ瞳を持つ人を 心ない言葉で貶めるようなことをせずに済んだのに。 多分に恨めしい気持ちで問うた氷河に、かぐや姫から、 「こんなに綺麗な人がいるなんて――」 という、溜め息混じりの答えが返ってくる。 『その心根のように醜い』と言われずに済んだのは有難かったが、氷河は 胸中で、『俺ごときでは比べものにならない』と呻いていた。 かぐや姫は 本当に 飾り物の東宮を綺麗だと思ってくれているのか。 自らと兄に加えられた侮辱に腹を立ててはいないのか。 氷河は、それが心配でならなかった。 「なんと、宮中の光が二つになった」 「まことに、まことに」 わざとらしい空世辞を言う右大臣と内大臣に 苛立ちを覚える。 腐れ 爛れた宮中に育まれた 形ばかりが整った珠と、内側から清浄な光を放っているような清らかな珠。 その二つを同列に語ってしまう人間の感性が、氷河には理解できなかった。 居並ぶ権力者たちだけでなく、自我というものを持っていないような あの帝までが、自分の手で御簾を上げて かぐや姫の姿を見詰めている。 かぐや姫は、我が身に注がれている幾つもの視線に気付くと、すぐに 氷河に奪い取られた扇を取り返し、それで 自らの顔と瞳を遮り隠してしまった。 「帰ります。もう気は済んだでしょう!」 「帰さぬ……」 口を突いて出た その声に、誰よりも驚いたのは、その言葉を口にした氷河自身だった。 だが、とにかく離れられない――このまま別れることなど思いもよらない。 氷河は、かぐや姫の手首を掴み、その身体を引き寄せ、再び かぐや姫の手から扇を取りあげた。 「帰さぬ。こんなに美しいものは 内裏の奥に隠しておかなければ。世界に月が二つあっては、民も惑うだろう」 「は……放してください!」 「放すものか」 居並ぶ権臣たちの前で、(飾り物とはいえ)東宮としての高雅や優美を装うことも忘れたような 我執 剥き出しの氷河の振舞い。 氷河の その子供じみた振舞いに慌てたのは、氷河の立場や評判がどうなろうと構わない権力者たちではなく、彼の友人たちだった。 「おい、氷河! いや、東宮様!」 それまで広間の外側をめぐる濡れ縁で警備についていた星矢と紫龍が、子供じみた氷河の振舞いを見兼ねて、かぐや姫を掴んで離さない氷河を 姫から引きはがすため 二人の側に摺り足で駆け寄る。 「氷河、こんなととこで 何やってんだよ! お姫様が困ってるだろ!」 群臣の目を気にしながら、星矢は氷河に自重を促したのだが、氷河には その声も聞こえていないようだった。 「なんて目だ。美しい。まさか、これほどとは――」 「駄目だな、これは。完全に いかれてる」 氷河の代わりに場を取り繕って、紫龍は、東宮の乱暴に怯えている かぐや姫に 作り笑いを提供した。 「ん……?」 そして、眉をひそめる。 紫龍が気付いたことに、氷河は既に気付いていたらしい。 そして、彼の我執剥き出しの子供の振舞いこそが、実は装ったものだったらしい。 権臣たちには聞こえぬほど 低く抑揚のない声で、氷河が かぐや姫に、 「おまえは 男子か」 と囁く。 星矢が ぎょっとした顔になり、かぐや姫は青ざめた。 「あ……」 「事情を話せ。力になる」 「あの……」 その美しさは噂以上だったのだから、その点に関しては、かぐや姫も姫の兄も清廉潔白、誰も騙していない。 しかし、絶世の美女が男子だったとしたら、それは立派な詐称、紛れもない詐欺だろう。 氷河の手から逃れようと もがいていた かぐや姫が、観念したように大人しくなる。 氷河は 破顔一笑、抵抗を諦めた かぐや姫の身体を 弾みをつけて抱き上げた。 そして、この展開に呆然としていた権臣たちの前から、氷河は 意気揚々と 絶世の美女を運び去ってみせたのである。 |