翌朝。
「夕べ、冥府の王とやらが、俺を脅しに来たぞ」
隠すより、その正体を瞬に知らせてしまった方が、瞬の不安や懸念を和らげることにつながるだろう。
そう考えて、氷河は 昨夜 彼が出会った漆黒の影のことを、瞬に知らせた。
得体が知れず 正体がわからないから、不安は大きくなるのだ。
正体がわかった魔は 不安の種でなくなり、撃退すべき明確な障害になる。
「冥府の王、月の王と名乗っていた」
「冥府の王 !? 」
「ああ。その冥府の王とやらは、おまえの清らかさを失いたくないらしく――おまえが汚れることが、奴には不都合らしい。そして、清らかなままの おまえを自分のものにしたいから、おまえの清らかさを損なう者や おまえを奪おうとする者の存在を、おまえの周囲から排除していたようだな。おまえの目に見毒の魔が宿っているわけではなく、おまえの預かり知らぬところで、あの影が勝手に動いていただけだ。おまえの目のせいじゃない――おまえのせいじゃない」
その正体が明白になり、漠然とした不安を増大させることはなくなったとはいえ、瞬が魔に つきまとわれていることに変わりはない。
不安が 具体的な脅威に変わっただけのことではあるのだ。
だが、瞬には それは嬉しい知らせだったらしかった。

「それは――僕が氷河を見ても、そのせいで氷河の身に何か よくないことが起きるわけではないということ?」
「そういうことになるな」
「あ……」
問題は何も解決していない。
だが、瞬の吐息は 安堵と喜びと明るさでできていた。
それでも ためらいがちに、不安そうに、瞬が 少しずつ 俯かせていた顔をあげ、伏せていた瞼を開く。
瞬の澄んだ瞳に 氷河の姿が映り、その瞳が嬉しそうに輝く。
もしかしたら初めて見る瞬の微笑、瞬の笑顔。
瞬の美しい面差しに 恥ずかしそうな微笑が浮かぶと、それは可憐さ、可愛らしさを増し、そんな瞬の様子を真正面から見せられることになった氷河は、目が くらみそうになったのである。
実際 少し頭が くらくらした。

この可愛らしい生き物を どうしても、絶対に、必ず 自分のものにしたい。
心の底から、魂の奥の奥から、氷河は そう思ったのである。
だから、瞬の澄んで清らかで可愛らしい瞳と顔を見詰め、見入り――氷河は かすれた声で瞬に尋ねてみたのだった。
自分のしでかした いたずらを母親に告白する子供のように、少しく気後れに囚われながら。
「あの魔を追い払ったら、おまえは 俺のものになってくれるか」
瞬は、奇跡のように澄んで美しい瞳を 一瞬 大きく見開き、もう そうする必要はないというのに、その瞼を伏せてしまった。
初萩を愛でようとして訪れた場所に、大輪の牡丹が咲いていることに気付いて、戸惑う若鹿のように。
「あ……あの、でも、僕は――見毒の毒がなくなっても、身分の低い小家の部屋住みで……。僕なんかが氷河の側にいたら、氷河が宮中の人に侮られます。釣り合わない」
「釣り合い? 何を言っているんだ、おまえは」

未婚の姫のように 館の奥に閉じこもり、人を知らず 世を知らぬせいか、瞬の価値感や判断力は どこか常識から外れているようだった。
更に言うなら、瞬は、自分自身の価値もわかっていない。
おそらく、人は 他者との比較によって 自らを知るものなのだ。
氷河は、この宮中にいる老若男女全員を庭に並べて、その中の誰なら東宮に釣り合うのか、瞬に選ばせてみたいと、そんな馬鹿げたことを半ば近く 本気で思った。
この宮中に、光る君に釣り合う人間が 輝く姫以外にいるだろうか。
少々 うぬぼれ気味に、氷河は そう思ったのである。
瞬を この宮中に留め置くという考えは、既に氷河の中には なくなってしまっていたのだが。

「俺は――誰よりも深い帝の寵愛を受けていたのに、后はおろか中宮、女御にもなれず、更衣の地位に留まるしかなかった母の無念を晴らすため、あわよくば 帝になってやろうと思っていたんだ。これまで――おまえに会うまで。だが、そんなことは もうどうでもよくなった。権力に まみれた不愉快な公家共しかない宮中で 帝なんて融通の利かない不自由なものでいるより、田舎の荘園にでも引きこもって 好きな人と自由に暮らす方が ずっといいような気がしてきた。須磨に、母が俺に残してくれた荘園があるんだが……いっそ 都を去って、そこで 二人で静かに暮らすというのは どうだ?」
「そうできたら、どんなにいいか……でも……」

『そうできたら、どんなにいいか』
自身の呟きが氷河を歓喜させる答えになっていることに、瞬は気付いていないようだった。
それを実現不可能な夢と思っているから――瞬は おそらく 氷河の提案を退けるためのものとして、その言葉を口にしたのだ。
母もなく、父もなく――後ろ盾となる近親が すべて失われているがゆえに、飾り物の東宮に抜擢された孤児と違って、瞬には、自分の思う通りに生きることを ためらわせる気掛かりが多くあるのだろう。
だが。
『そうできたら、どんなにいいか』
氷河は、瞬の望みを――もちろん、それは氷河自身の望みでもある――何としても叶えるつもりだった。
あらゆる障害を排し、あらゆる苦難を乗り越えて。

「おまえの兄は 検非違使庁の少尉、衛門尉だそうだな。力があり、人望もあるようだが、ご多分に漏れず、藤原家との関係が薄いことが障害になって 出世できずにいる。おまえの兄は出世を望んでいるのか」
瞬の兄を しかるべき地位に就けてやれば、瞬の後顧の憂いは取り除かれるのだろうか。
そう考えて 氷河は瞬に尋ねたのだが、瞬の兄が望むものは そういうものではないらしかった。
「……わかりません。兄は 僕を気遣って、あまり本心を語ってはくれないの。僕は それこそ未婚の姫より厄介な お荷物で、その上 争い事が嫌いで、臆病で――。先年、壱岐や筑前に他国の海賊が攻めてきた刀伊の入寇の時にも、僕なんか 放って戦地に行き、華々しい武功をあげたかったんでしょうに、僕を残して そんな遠いところに行くことはできないから、兄は諦めた。兄は、氷河が言った通り、絶世の美女という世間の誤解を利用して財を蓄えることもできたでしょうけど、そういうことも、兄は大嫌いで……。そうですね。兄が本当に欲しいものは、地位や官職や財ではなく、自由なんだと思います。僕は本当に兄の お荷物なんです。でも、兄は優しいから、実の弟を見捨てることができない。僕がいなければ、兄は自由にしていられるのに――本当に自分がしたいことができるのに――」

「本当に欲しいものは自由、か。俺たちと同じだな。なら、話は決まった。おまえも俺も 今いる場所から消えた方が多くの人のためになる。そうしよう」
「そうしよう――って、そんな軽々しく……。氷河は この国の東宮様でしょう」
「一応 そういうことになっているが……」
東宮――名目上は帝に次ぐ地位。
この国で2番目に高貴な(ということになっている)身分、立場。
それは(実は、帝の地位さえも)、藤原摂関家の都合次第で容易に入れ替えのできる軽いものだというのに、その地位を放棄することは非常な重大事だと、瞬は思っているらしい。
だが、氷河には そうではなかったのである。
今の氷河にとって何よりも重大で重要なのは、
「おまえは俺が嫌いなのか」
ということだったのだ。
というより、今の氷河には、他に重要なことなど何一つなかった。
昨日 出会ったばかりの澄んだ瞳の持ち主の心が どこにあるのかということ以外、何一つ。

「そんなこと あるはずないでしょう!」
絶対に そんな誤解はされたくないというように必死な目をして、瞬が即答してくる。
「よかった」
瞬の返答に、氷河は安堵した。
そして、それ以上に、瞬の その必死な様子の可愛らしさに目を細め、ついでに 瞬にばれないように、胸中で やにさがった。

これで、二人の恋を妨げるものは何もない。
何にも誰にも邪魔されることなく、自分は瞬を抱きしめることができる。
そう思い、氷河は、思ったことを実行したのである。
つまり 彼は、彼の美しく可愛らしい恋人を しっかりと抱きしめた。
瞬が その腕から逃げようとしないことが、嬉しくてならない。
こうなれば 一刻も早く 東宮の地位を返上し、この堅苦しい魑魅魍魎の巣を抜け出す算段に取りかからなければ――と、氷河の心は 二人の幸福な未来に向かって飛翔しようとしていた。
まさに その瞬間だったのである。
幸福な未来という空に向かって飛び立とうとする白鳥の翼を押さえ込むように、青く晴れ上がっていた空が にわかに かき曇り、東宮御所が 内と外の区別なく、不吉な薄闇に覆い尽くされてしまったのは。






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