その薄闇は、もしかしたら、氷河の住まいである東宮御所だけでなく 宮中全体、へたをすると都全体を包んでしまっているのかもしれなかった。
陰陽寮の陰陽師たちも まるで訳がわからず慌てていることだろうと、そんな どうでもいいことを、こんな時だというのに、氷河は思ってしまったのである。
この薄闇の原因は もちろん、
「そなた、余の忠告の意味が まるでわかっていなかったようだな。余を追い払うだと?」
氷河の勝手な振舞いに腹を立てた冥府の王だった。
飾り物の東宮ごときに ないがしろにされ、彼は 相当 立腹しているらしい。
それでなくても、スサノオノミコトか大江山の鬼のように 宙を舞っていた長い黒髪が、今は(おそらく)怒りのために すっかり逆立ってしまっている。
おまけに今日の冥府の王は、ヤマタノオロチならぬ、三つの頭を持つ巨大な犬を、その傍らに従えていた。

氷河は、自らの迂闊に 胸中で盛大に舌打ちをすることになったのである。
瞬が自分を好きでいてくれるかどうか、魔を追い払えば 瞬は自分のものになってくれるかどうか。
何より重要な その問題で頭がいっぱいで、その大前提である“魔を追い払う方法”を、氷河は全く考えていなかったのだ。

「あの ふざけた男を食い殺せ。できるだけ無残に、残酷に、汚らしく」
自分が人智を超えた力を持つ存在であることを誇示するように 池の上に立っている冥府の王が、巨大な犬の化け物に 冷やかな口調で命じる。
所詮は まやかし、実体を持つものであるはずがない――と思った その化け犬は、だが、自分が幻影でないことを示すように、池の中央の中島の土を 前足の鋭い爪で ざくざくと削ってみせてくれたのだった。
瞬と二人で織り描く幸福な日々。
そのことだけで頭がいっぱいだったにも かかわらず――であればこそ、氷河の対応は迅速だった。
ここで瞬を守り抜かなければ、二人の幸福な日々は始まらないのだ。
あらゆる障害を排し、あらゆる苦難を乗り越えて、氷河は 二人の願いを叶えるつもりだった。

「奴は、おまえを傷付けることはしないだろう。瞬。おまえは奥の間に隠れていろ」
瞬の肩を部屋の奥に押し入れ、御簾を下ろす。
そうしてから氷河は、太刀を持って庭に飛び出た。
いずれ藤原摂関家にとって不要な東宮になった時、見苦しく公家社会に しがみつき、屈辱的な日々を耐え忍ぶくらいなら、いっそ皇族としての地位を捨て、武士として自分の力だけで生きていくのもいいかもしれないと考えて 手に入れておいた太刀。
結局 自分はいつも この御所を出ることを望んでいたのだと、太刀を構えて巨大な魔犬に対峙しながら、氷河は思ったのだった。

化け犬は 相当 食い意地が張っているのか、あるいは、これまで ろくな食べ物を与えられていなかったのか、エサを前にして かなり興奮している。
鋭い牙を大量の涎で濡らし、エサを食らう気 満々のようだが、いかにも凶暴そうに充血し ぎらつく目は、食欲が先走って獲物を取り逃がしがちな獣のそれに似ていた。
その巨体も、どうやら敏捷性を欠いている。
これなら倒せると判断し、氷河が地を蹴ろうとした時。
「その獣を けしかけるのは やめてください。氷河を殺したら、僕も死にます!」
そう言い放って 氷河の出鼻を挫いてくれたのは、あろうことか、氷河が自身の命に代えても守りたいと思っている瞬その人だった。
瞬は その手に小刀を持っていて――部屋の奥で、氷河が収集していた武器を見付け、それを持ってきたらしい――その刀の 切っ先は瞬自身の心臓のある場所に向けられていた。

冥府の王が、正面から瞬の視線を受けて 僅かに たじろぐ。
瞬の清らかさを守るために 幾つもの命を奪ってきたのは冥府の王自身だったはずなのに、彼は瞬の澄んだ瞳を恐れているようだった。
だが、巨大な魔犬を従えた、この世のものならぬ漆黒の男と、華奢で小さな瞬。
その対決は、あまりに無謀だった。

「瞬、頼む! 安全なところに逃れていてくれ! おまえの身に何かあったら、俺は それこそ死んでも死にきれない……!」
武器の収集などするのではなかった。
今更 悔やんでも詮無いことを悔やみながら、氷河は 悲鳴じみた声を 拾い庭園中に響かせた。
対照的に 取り乱したところのない声で、瞬が氷河に答えてくる。
「それは僕も同じなの。氷河に生きていてほしい。生きてさえいれば、氷河は幸福になれると思うから」
「瞬、逃げろ!」
氷河の懇願に、瞬は、しかし 首を横に振った。
「僕は――僕は これまで、僕のせいで 多くの人が不幸になっていると わかっていながら――そう 思っていたのに、その人たちを救うために何もしなかった。そんなのは、僕、もう嫌なの。僕は氷河を守る」
「瞬っ!」

瞬の気持ちは わかるのである。
たった今、氷河も全く同じ気持ちでいたから。
瞬に生きていてほしい。
そして、幸福になってほしい。
そのためになら、自分の命が失われても構わない――。
同じことを考えているからこそ――同じことを考えているのに――二人の願いは 相反していた。
氷河が 生きていてほしいと願う相手は瞬で、瞬が 生きていてほしいと願う人は氷河なのだ。
この場で ただ一人、冥府の王だけが、誰の気持ちも――氷河の願いも 瞬の心も――理解することができずにいるらしい。
彼は、氷河を庇う瞬に、苛立ちだけでできている声を投げつけてきた。

「そのようなことが 人間にできるわけがない。たとえ そなたでも、他人のために自分の命を犠牲にすることなど――」
「どうしてできないと思うの。氷河に生きていてもらうためなら――大切な人の命を守るためなら、人は誰でも そうするよ」
「この男に そんな価値があるか」
「あなたは人を愛したことがないの」
「余は、そなたを愛している。そなたは 余のものだ。そなたを害する者、余から そなたを奪おうとする者はすべて排する」
「愛というのは、その人の幸福を願う気持ちだよ」
「そなたは、余と共に、この地上を支配する王となるのだ。それ以上の幸福など あるはずもない。その幸福の実現を邪魔する この男は排除されなければならない――排除する。人間ごときが、余に抵抗しきれるか!」
二人が 人と 人でないものだからなのか、瞬と冥府の王とでは、心のあり方や価値観が あまりに違いすぎるようだった。
二人の言葉は すれ違い、決して交わることをしない。

「あなたには、人が人を愛することの意味も、人の幸福が どういうものなのかも わからないんだね」
瞬が悲しげに微笑して、手にしていた小刀を、さくりと自身の胸に突き刺す。
それが あまりに自然で、あまりに さりげなく、あまりに ためらいなく素早く為されてしまったために、氷河には――冥府の王にも――瞬を止める時間が与えられなかった。

「瞬ーっ!」
わかっていないのは おまえだと、声にならない叫びを叫んで、氷河は その場に崩れ落ちた瞬の許に 狂気のように駆け寄っていったのである。
「瞬っ!」
小刀は、ためらいなく 瞬の心臓を貫いていた。
白い水干の胸元が、見る間に 血の色に染まっていく。
「なぜ……なぜ、わからないんだっ!」
軽いはずの瞬の身体が 不思議に重く感じられるのは、失われていく血の量と重さを 目で知覚できるからなのだろうか。
小刀を抜けば出血量が増すことがわかっているので、氷河は瞬の心臓の働きを妨げている小刀を抜くこともできなかった。

「なぜ、わからないんだ……」
抱き起こした瞬の小さな肩を すがるように強く掴みあげ、為す術なく 同じ言葉を繰り返す。
生きていてほしい。
そのためになら、何を犠牲にしてもいい。
それが自分の命であっても。
瞬には、なぜ それがわからないのだろう。
同じことを考えているのに、同じことをしようとしていたのに、なぜ瞬は わかってくれないのか。
瞬が わかっていることは わかっているのに、氷河は その言葉を繰り返すしかなく――そんな氷河を見上げて、瞬は力なく微笑んだ。

「光る君は、涙も綺麗。僕のせいなの? ごめんなさい」
「謝るくらいなら……」
謝るくらいなら、飾り物の東宮が 巨大な魔犬なり、冥府の王なりに殺される様を 黙って見ていてほしかった。
そして、瞬にだけは生き続けていてほしかった。
言葉にはできない氷河の嘆きを、瞬は聞いてくれているのか。
もう一度、瞳だけで微笑んで、瞬は静かに その瞼を閉じた。
人の命は――瞬の命でさえも――本当に あっけなく、簡単に失われる。
だからこそ、人の命は、生は、何よりも重いのだと、母の死の際にも思ったことを、氷河は思ったのである。






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